昔々、ある所に…
               
             
1999.5.26


レルネット主幹 三宅善信


▼あらゆる物語には始まりが…

5月19日、話題の映画『Star Wars EpisodeT:The Phantom Menace』が全米で封切られ、大きな反響を呼んでいる。ご存知「スターウォーズ」シリーズとは、1977年に第1作が封切られ、昨年『Titanic』に記録を破られるまで20年以上にわたってハリウッド映画の興行収入第1位記録を保持したアメリカSF映画の金字塔である。これまでのスターウォーズ3部作:『A New Hope(邦題:スターウォーズ)』(1977年)、『The Empire Strikes Back(帝国の逆襲)』(1980年)、『Return of the Jedi(ジェダイの復讐)』(1983年)は、壮大なスペースオペラともいえる原作のそれぞれEpisodeW〜Yに相当する作品であることはよく知られている。

映画の世界では、ある作品が大ヒットしたので、続編が作られたり、あるいは『007』や『寅さん』のように、シリーズ化してロングランされることが珍しくない。特にSFものにはその傾向が強い(『エイリアン』や『ターミネター』等)。しかし、それらはあくまで「当たってから」のことで、初めから連作として計画されることは少ない。ところが、スターウォーズに限って言えば、初めから「3部作」として計画された。その証拠に、第1作のタイトルからして「Star Wars」という複数形であった。

私は映画化第1作を大学1年生の時に観た。あのインパクトの強いオープニング…「A long time ago. In a galaxy far, far away…」といったキャプションで、この物語は「宇宙SFものといえば未来の世界を舞台にした話」という常識の意表を突いて、過去の話だというのである。そして、テーマソングに合わせて大スクリーンの手前から奥の方へと向かって話の場面設定のキャプションが流れて行くのである。当時の私の英語力では読み終えるまでに文字が小さくなってしまったことを思い出す。その冒頭の部分に「Episode W:A New Hope」と書かれている。何故、Episode Wなどという中途半端な所から話が始まるのか? と思ったものだ。しかも、「It is a period of civil war…」と表現されている。「civil war」といえば、派手な国と国との戦争ではなく、みみっちい「内戦」の話である。大宇宙を舞台(星と星との戦い=Star Wars)に話を進めよういう矢先に、civil warとは何ごとかと思ったものである。

しかし、その不安は有名な次のシーン(演出)によってすぐに打ち消される。すなわち、そのオープニングスクロールの流れた同じ広大な宇宙空間に覆い被さるように巨大な純白の宇宙船が現れるのである。以来、私はスターウォーズ3部作を劇場とビデオを合わせると20回以上観た。特に、ここ数年は、必ず息子と一緒に観るようにしている。なぜなら、この物語は父(ダース・ベーダー=アナキン・スカイウォーカー)と息子(ルーク・スカイウォーカー)の物語だからだ。第2作『帝国の逆襲』上映当時のアメリカは、カーターの人権外交からレーガンの覇権外交へとシフトチェンジし、仮想敵国であるソ連を「悪の帝国」と名指しし、自らは「SDI戦略防衛構想(通称「スターウォーズ」)」という宇宙軍事政策を推進しつつあった。ハーバード大学サイエンスセンター内の特設シアターで観た第3作『ジェダイの復讐』の際には、お客(学生)はほとんどダースベーダー贔屓(ひいき)だったことに驚き、アメリカ人の理想の父親像(反面教師?)を見た気がしたものだ。

それから十数年の歳月が流れて、今回の『EpisodeT:The Phantom Menace』の公開となったのだ。残念ながら、私はまだこの映画を観ていないが、予告編を観る限り、素晴らしい出来映えの作品だと思う。予告編の冒頭のシーンは、イスタンブールのトプカプ宮殿のような建物が映り、以下のようなキャプションが流れる「Every generation has a legend.(あらゆる世代には伝説があり) Every saga has a beginning…(あらゆる物語には始まりが…)」この出だしによって、EpisodeTの内容は、はるか昔から銀河には星間戦争(star wars)があったこと。少年アナキンと若きジェダイの騎士オビ=ワンとの出会い。シリーズお馴染みのドロイド(C3POとR2D2)たちの創造譚。そして、一世代前の「シスの暗黒卿」であるダース・モールの登場によって、宇宙には常に、暗黒サイドの勢力が暗躍したこと。そのことは、後に、優秀なジェダイになったアナキンが「悪の権化」ダース・ベーダーの堕ちることを暗示している。もちろん、この一連の作品群の全体構成が、作者が意図したかしなかったかに関わらず、聖書の話をベースにしていることは明らかである。というよりは、どんな内容でも、欧米人が創った話には、既に聖書のモデルが「刷り込まれている」といっても過言ではない。このことについては、今回の私のテーマからはずれるので、別の機会に譲りって、今回は物語の設定についての話をしたい。


▼お爺さんとお婆さんの正体

先程、スターウォーズシリーズ映画化第1作となったEpisode W:A New Hope の冒頭に「A long time ago. In a galaxy far, far away…」と書いてあったと述べたが、これを文字通り訳せば「はるか昔、はるか彼方のある銀河で…」というふうになる。この出だしで何か思いつくことはないだろうか? そう。日本のお伽話と出だしが似ていないだろうか? お伽話こそ研究してみる価値のあるテーマのひとつだ。近頃は、『本当は恐ろしいグリム童話』なる本がベストセラーになるご時世だが、どこの国でも一見荒唐無稽に見える子供向けのお伽話に結構、興味深い内容が隠されていることが多いものだ。スターウォーズのこの出だしが、『桃太郎』や『かぐや姫』でお馴染みのフレーズ「昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんがおりました…」に似ていると思ったのは私だけだろうか? 

そこで、まず、なぜ「お爺さんとお婆さん」でなければならないのか? から考えてみることにする。なぜ「お父さんとお母さん」や「男と女」ではいけないのだろうか? そういえば、お伽話の登場人物はなぜかお爺さん(『花咲爺』等)やお婆さん(『舌切雀』等)が多い。結論から言うと、父母や男女という組み合わせは、直接的な「性的関係」という話の展開を取らざるを得ないからだ。この手のお伽話は創造原因譚に多い(「アダムとイブ」や「イザナギとイザナギ」等)。その点、性的能力を喪った「お爺さんとお婆さん」という組み合わせは、逆に超自然的な設定がし易い。民俗学的には「子供と老人はカミに近い」ということになっている。能でお馴染みの「翁(おきな)と媼(おうな)」の組み合わせである。

しかも、『桃太郎』にしても『かぐや姫』にしても、このお爺さんとお婆さんが、こともあろうに「子供が欲しい」と望むところから物語は始まる。『桃太郎』では、「川で洗濯をしていたお婆さんが上流から流れてきた大きな桃を拾う」という「因縁」があったのである。あの日、お婆さんが川へ洗濯に行かなければ、また、流れて来た桃を拾わなかったら、話は始まらなかったのである。また、『かぐや姫』でも、竹取の翁が竹藪に行かなければ、節の光った不思議な竹を切ってみなければ、話が始まらなかったのである。『桃太郎』のお婆さんとお爺さんの役割を入れ替えてみたら、『かぐや姫』のお爺さんとお婆さんの役割を入れ替えてみたら判る。また、それぞれひとりづつ(『桃太郎』の場合はお婆さん、『かぐや姫』の場合はお爺さん)でよかったはずなのに、どういう訳かやはり「昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんがおりました…」で始まるのである。

それでは、ここでいう「お爺さんとお婆さん」は何を象徴しているのであろうか? 私の類推では、この爺(じじ)婆(ばば)は、「時間と場所」を象徴していると思われる。最初に「昔々、ある所に」と一般論としての時間と場所の設定をした後で、この物語の主人公と登場人物(必ずしも人間とは限らない)たちの「因縁」が語られるのである。フロイト的な解釈をすると、「川で桃を拾った(誰かに犯された)婆さん」とか、「林で竹を割った(誰かを手込めにした)爺さん」という解釈が可能かもしれないが、私は、むしろ「性的能力を喪した老夫婦」という設定のほうが自然な感じがする。そして、これらのお爺さんとお婆さんは、物語の時間と場所の設定のための単なる装置だと思う。


▼「概念」世界の構築

ここでは、「時間」は近代科学の常識である(ユダヤ・キリスト教的)「一直線型」時間軸という考え方とは限られない。したがって、「場所(空間)」についても、「この世(現実)はひとつしかない」という訳にはゆかない。そこで、「この世」と「あの世(パラレルワールド=別現実)」の往復について語らねばならない(萬遜樹氏の『日本の神はなぜケガレを嫌うのか』)を参照されたい)。

まず、「あの世(別の現実)」から「この世」にやってきて、しばらくの間、超能力を発揮して、最後にはまた「あの世」に去って行くタイプの話の類型である。例えば、『古事記』に登場する少名毘古那(スクナヒコナ)神は、海の彼方から小舟に乗って現れ、国津神の首領大国主(オオクニヌシ)命と協力して、この国を開発し、最後は「常世国」へ去る。『竹取物語』のかぐや姫は、竹筒の中から現れ、月からの使者と共に天空へ去る。ウルトラマンも同様のパターンである。「この世」のものでないパワーを「この世」で発揮し続けることは困難であり、必ずタイムリミットが訪れる。もし、タイムリミットが来なければ、「この世」がどんどん「あの世」化し、ついには「この世」と「あの世」の区別がつかなくなってしまうからだ。

一方、「この世」から「あの世(別の世界)」へ行って、霊力を得て帰ってくるタイプの類型には、『日本書紀』に登場する蛭子(ヒルコ)神が興味深い。この神は、イザナギ・イザナミの子供として、アマテラス・ツキヨミ・ヒルコ・スサノヲという尊い四神としてワンセットで生まれながら、先天的な身体障害故に舟で流されてしまう。ところが、この蛭子神は事代主(コトシロヌシ)神としてカムバックし、八尋熊鰐に化けて三島の玉櫛媛の元に通い、この媛に産ませた娘を神武天皇の正妃にまでしている。『旧約聖書』のモーセも、赤ん坊の時、葦舟で流され、エジプトのファラオ(王)の子として育てられるも、ヤハウエ神の言葉に召し出され、大恩あるファラオを裏切り、ユダヤ人たちを連れてエジプトを脱出し、霊力をもってカナンの地(現在のパレスチナ)へ導く。お伽話の『浦島太郎』では、太郎は亀に乗って竜宮城へ往き、玉手箱という不思議な霊力を供えたお土産を持ち帰る。これらの話に共通している点は、「あの世」で不思議な霊力を身につけるのに本人がなんら努力をしていないという点である。その点、惑星ダゴバへ行って、ジェダイの老師ヨーダからフォース(霊力)を身につける鍛錬を受 けたルーク・スカイウォーカーとは少し異なる。

「昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんがおりました…」で始まるお伽話の世界を構築するために必要な概念は、物理学でいうところの「場(field)」の概念に近い。地球の重力という「場(field)」を例に考えてみると分かり易い。地球上のあらゆる場所(地下でも空中でも体内でも)には遍く重力が働いている。しかし、何人も地球の重力を目で見ることはできない。「重力」という概念としてこれを認識するしかないのである。それ故、天地開闢以来、水は高きから低きへと流れていたのに、ニュートンの登場までは、物が落下することの法則性を説明する「重力」という概念を思いつかなかったのだ。先程、「地球上のあらゆる場所」と言ったが、厳密には地球上だけでなく「宇宙の果てまで隈無く」地球の重力場は及んでいる(実際論的には、重力は距離の二乗に反比例して小さくなくなるので、ほとんどゼロに近いが)。仏教で言えば、如来の慈悲は「光明遍照十方世界(宇宙の隅々まで)」に及ぶということである。

これら、物理学でいう「場」、仏教でいう「世界」、すなわち、観念によって頭の中に構築され、観念によってのみ認識しうる時間と場所(空間)という「field」概念に、ひとことで引っ張り込むための呪文のようなものが「昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんがおりました…」というフレーズだったのである。


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