もうひとつの「Y2K」問題
              
        199910.27    

レルネット主幹 三宅善信

▼大停電!

本日(10月27日)の午前11時48分頃から約1時間、京都府の大部分から兵庫県・大阪府の一部に及ぶという広範囲(40万世帯)で停電事故が発生した。報道によると、原因は関西電力の西京都変電所での設備点検中の事故であるらしい。この事故の影響で、京都市内の交通信号がストップし、各警察署では警察官を交差点に出動させて交通整理にあたった。 JR京都駅などでも停電し、該当地域を縦断する山陰本線が止まったのをはじめ、東海道新幹線の京都―新大阪間の列車も一部運転を見合わせた。関西電力によると、この停電の影響で、わが国で最も多くの原子力施設が集中する「原発銀座」と呼ばれる若狭湾地域で稼働中の原子炉のうち、高浜原発(福井県高浜町)1・3・4号機が午前11時48分から自動停止した。

まだ原因が解明されていないのでなんとも言えないが、コンピュータの誤作動による「2000年問題」によってライフラインが甚大な影響を受ける可能性がある大規模事故対策への「予行演習」とも言える出来事であったことだけは確かだ。この国の苦手な分野のひとつが「危機管理」だからだ。医療現場でも、手術中の病院もあったし、人工呼吸器や透析機などといったその装置がストップすることによって、即、人命にかかわるような器械を抱える施設では、慌てて自家発電に切り替えるなどして対応したそうだ。これの事故が「古都」京都ではなくて、「首都」東京で起きていたら、都民生活どころか、日本経済いや国際経済にまで与える影響は甚大なものであったはずだ。

巷間「2000年問題」――国際的には「Y2K(Year of 2000=2Kiro)」――と呼ばれている問題については、政府関係者から主婦の井戸端会議に至るまで、玄人素人を問わず多くの人が説明しているので、今さら「宗教が専門である」私が触れるまでもないことである。わがレルネット社のコンピュータシステムがどういう変調を来すかは、それこそ専門外で、その場になってみなければなんとも言えない。そこで、今回の「主幹の主観」では、少し違った角度から、私なりの「Y2K」問題について触れよう。


▼宗教は「人類最古の情報産業

現代は、すべからく「コンピュータ社会」だから、他の産業と比べて「保守的(遅れている)」と思われている宗教界でも、もちろんコンピュータは諸処で利用されているが、一般社会からはそうは思われていないらしい。しかし、よく考えてみると、宗教こそは「人類最古の情報産業」だから、コンピュータやインターネット社会の成立を数千年前から望んでいたのかも知れない。すべての人が狩猟や採取生活を営んでいた(自分で必要なものは自分で確保する)と考えられている「原始時代」においてすら、シャーマンのような「職業」が成立していたと考えられる。彼(女)らは、直接、生産には関わらず、彼(女)らのもとを訪れる人々からの(カミへの)供物でをもって生活をしていた。つまり、宗教家(シャーマン)は人類最古の「職業」なのである。工業といった第2次産業はおろか、農業のごとき第1次産業すら成立していなかった太古の昔に、第4次産業ともいうべき「情報」産業が「宗教」の名の下に成立していたとは…。まさに「宗教恐るべし」である。

このことは、現代社会を代表する自動車産業と比較しても興味深い。20世紀の幕開けと共に始まったフォードの「生産ライン」方式は、20世紀における工業のあり方を決定的に方向付けた。まさに、大量生産・大量消費・大衆社会を生み出したのだ。最新鋭の自動車(半導体でも何でもいい)生産工場では、人間はほとんど姿が見えない。産業用ロボットがひたすら稼働し、「機械が機械を造る」といった有り様だ。しかし、このような最新鋭の工場で生産された自動車でも、最終的には消費者に自動車を販売して、その対価としての金を受け取っているのだ。この部分に注目すれば、「モノとカネ」の交換という従来型のあり方を踏襲しているに過ぎない。ほとんどの産業が同様である。

ところが、宗教は別だ。神・仏、地獄・極楽etc.、みな人間が考え出した「仮想の世界」、いわばバーチャルリアリティである。宗教に救いを求める人々は、この実際に手に取ることのできない「観念(安心情報)」に対して、お布施という対価を支払っているのだ。これ(宗教)を「情報産業」と呼ばずに、何を情報産業と呼べるのか…。したがって、宗教界こそ、今後のコンピュータやインターネット社会で大いに飛躍する要素がある。現実に、この便利な機械を宗教家が使いこなせるかどうかは、別の次元の話であるが…。現実に、日本の宗教界を管轄する役所である文部省は、昨年9月29
日付で、大臣官房高為重総務審議官名で、文部大臣所轄の各宗教法人代表役員宛に「コンピュータ西暦2000年問題への対応について」と題する依頼文を発した。詳しい内容については、拙サイトの「宗教界の動き」に紹介されているので、関心のある人は読んで欲しい。文部省内にこの問題に対応する部署(大臣官房政策課情報処理 jyoho@monbu.go.jp)まで設けたほどである。

しかし、宗教界にはもっと凄い人がいた。禅文化研究所研究員の五十嵐祖傳師のグループは、檀家管理・金銭出納・戒名辞典・官庁提出書類の作成がひとつでできる寺院管理統合ソフト「擔雪(たんせつ)」を開発した。このソフトでは、それぞれの寺院の過去帳に記された(明治以前は当然、元号を用いて旧暦で記録されている)命日を現代の暦(グレゴリオ暦)に変換するためのシステムが構築されており、「2000年問題」どころか、西暦645年の「大化改新」から西暦2100年に至るまでのカレンダー(大安や仏滅等の六曜)が内蔵されているそうである。また、同研究所も開発に関わった『今昔文字鏡』(エーアイ・ネット/紀ノ国屋書店)というソフトは、古今東西の8万種類の文字が内蔵されているそうである。


▼もうひとつのY2K:「2,000円」問題

さて、私はここで、宗教界にとってもうひとつの大きな「Y2K」問題を採り上げねばなるまい。それは、来年4月から発行が予定されている「新2,000円紙幣」のことである。宗教界では、この紙幣がもたらす「2,000円問題」が密かに語られ始めている。「2,000円紙幣発行」という突拍子もないニュースが飛び込んできたのは、東海村で起きた核燃料施設臨界事故の不安がまだ収まらない10月4日の第2次小渕内閣発足の日のことである。テレビの画面に臨時ニュースのテロップとして「沖縄サミットを記念して来年4月に2,000円券発行」という文字が流れたとき、私は一瞬、なんのことか理解できなかった。またぞろ、選挙前の人気取りの「地域振興券(今年のは、額面1,000円の券が20枚綴り)」をばらまくのか? と思った。まさか額面2,000円の紙幣(日本銀行券)を新たに発行するとは…。

いくら「2000年と2,000円」という語呂がいいからといったって、コンピュータの2000年問題対策だけでも大変な社会を、銀行のATM(現金自動支払機)をはじめ駅の券売機、そして世界でも類を見ないほど巷に溢れている各種自動販売機のすべてのプログラムを変更しなければならないではないか。いったい誰がその経費を見てくれるというのだ。それとも、そのこと自体が一種の景気対策とでもいうのか? 儲かるのは、オムロンなどのごく一部の会社だけだと思われるが…。だいいち、これまでの歴史の中で、経済(生産性)の拡大に合わせて、どんどんと高額な紙幣が発行されてきたではないか? 

それにしても、1958(昭和33)年に「1万円札(当時は聖徳太子)」が発行されて以来、絶えて久しい新額面券の発行が2,000円札とは…。昭和33年といえば、戦後復興の象徴――テレビ時代の幕開けを告げる333メートルの燦然と輝く東京タワー(それ故に、『ゴジラ』をはじめとする東京を襲った怪獣たちは、必ずこの「現代のバベルの塔」を破壊したのだ)の完成と、1万円札の発行(大卒の給与がこれ1枚で足りた)によって来るべき高度経済成長を加速して行くんだという日本の決意ともいうべき象徴的な時代であった。もうひとつ忘れてはならない出来事がある。筆者はこの年に生まれた。それだけでも、人類史上意義深い年だ。それから42年――なにを今さら2,000円札の発行を…。と思われた人も多かったに違いない。紙幣のデザインが琉球王朝のシンボル「守礼の門」だというから、礼儀を忘れた日本人への皮肉かなとも思ったりした。


▼奇数を尊ぶ日本文化

しかしよく考えてみると、2,000円札の違和感は、実は、日本文化の根源に関わる問題を孕んでいるように思える。王朝時代から伝わる「節句」にしても、元日(1月1日)・雛祭り(3月3日)・端午の節句(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽の節句(9月9日)・菊の節句(11月11日)と、奇数奇数のオンパレードだ。和歌だって「5・7・5・7・7」だし、応援団も「3・3・7拍子」だ。正月のお年玉も、たいてい3千円とか5千円とか1万円とかで、4千円とか6千円のお年玉って聞いたことがない。結婚式や葬儀の祝儀・不祝儀もたいてい1万円とか3万円とか5万円だ。神社への玉串料も寺院へのお布施もたいてい奇数万円あるいは奇数十万円といったところだ。もちろん、これには古代中国から伝わった「陰陽五行説」による影響(奇数は「陽」数で、偶数は「陰」数)が大きいであろう。

20米ドルと20000インドネシアルピア

一方、欧米キリスト教諸国(たぶんイスラム圏も)では事情が違うようだ。英語では、偶数のことを「even(ちょうど)」と言い、奇数のことを「add(付け加えられたもの)から転じたodd(奇妙な・半端な)」という。明らかに、偶数優先主義である。モーゼは『十戒』だし、キリストの弟子は「12使徒」で、オリンピック(合衆国大統領選挙でもよい)は4年に1度開催される。たまたま手元にある外国紙幣を見てみても、20米ドルだの20,000インドネシアルピアだの結構、「2」の付くお札がある。まぁ、買い物の時の釣り銭の出し方からしても、日本だと、6,800円(話がややこしくなるので「税込み」とする)の品の支払いに1万円札を出すと、瞬時に3,200円の釣り銭(10,000―6,800=3,200)が戻ってくるが、あちら式だと、68ドルの品を買って100ドル札を出すと、まず100ドル札が偽物かどうかをよく確認した後、こちらの手のひらの上に、額面の小さい紙幣から順に、1ドル札で「69・70」と数え、次に10ドル札を乗せて「80」、さらに20ドル札を乗せて「100」というふうに「足し算」をして行って、最後にこちらの出した紙幣の額に達したところで、商品と交換してくれる。これなら、20ドル札の使い勝手もあろうというものだ。日本人なら瞬間的に、引き算どころか掛け算まで出来てしまうのが普通だから、このまどろっこしい方式に戸惑われた人も多いであろう。

つまり、日常の買い物の現場でも、宗教的経済行為の現場(香典や玉串料・お布施等)でも、2,000円札はあまり歓迎されたものではないという結論を出しかけて、ハタと気が付いた。この2,000円札は、実は既発の1,000円札・5,000円札・10,000円札とは異なる通過単位のお札なのではないか? という疑問である。単なる「2,000円札」の発行というチンケな話ではなくて、日本政府は、Japanese Yenの一層の国際化のために「デノミ(通貨の呼称単位の変更)」を実施するのではないか? という疑問である。つまり、来年4月に発行される2,000円札というのは、現在の貨幣価値でいうところの20万新円札の登場(つまり、現在の1万円は100新円になる)ということではないだろうか? これなら、大卒の給料を払うのも1枚あればなんとかなるし、意味がある。そう、あの「黄金の昭和33年」の再現である。敗戦後の「闇市経済」から再出発した日本が、「高度経済成長」へんと驀進(ばくしん)していったあの時代(昭和30年代)の「夢よもう一度」ということで、バブル経済破綻(経済的な敗戦)からの復興の狼煙をあげたいという夢が籠もっているこんではないだろうか…。「来年のことを言うと鬼が笑う」そうだが、来年どころか今回は「千年に一度」のミレニアムである。2000年まであと66日、大いに笑って「新千年紀」を迎えようではないか。

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