レルネット主幹 三宅善信 ▼アンチ・米製『Godzilla』のはずが… 昨日、最新のゴジラ映画『ゴジラ2000―ミレニアム―』を観た。ウィークデイの昼間ということもあってか、映画館はガラガラ(客は数人)であった。実は、私は今回のゴジラ(以下『G2000』と略す)を密かに期待していた。というのも、99年5月30日に上梓した『南の島で観た「米製ゴジラ」』で論述したように、(ハリウッド製『Godzilla』の)最大の問題点は、人間のばかげた核開発のせいで「怪獣」と化してしまったゴジラを最新鋭の兵器で倒してハッピーエンドというだけでは、なんらメッセージ性がない。芹澤博士が自ら開発した「オキシジェンデストロイア」という凄まじい破壊力を秘めた化学物質を使って、ゴジラを倒すために自らも東京湾に没し(しかも、この化学物質が兵器として利用されることを防ぐために、書類をすべて消却し、開発者である自分も死ぬことで秘密を守る)、滅び行くゴジラと運命を共にしたあの和製『ゴジラ』(1954年)の感動的なラストシーンと比べて、あまりに人間中心主義的ではないだろうか? 意識するとしないにかかわらず、ユダヤ・キリスト・イスラム教的な文化背景(創造主である「全能」の神から、世界=環境を支配することを委ねられている人間が、非造物である自然=生物に対して何をしても構わないという発想)を持つ欧米人と、アニミズム的な「一切衆生悉有仏性」つまり、石や草木に至るまで人間と共通する精神性を有するという日本的思想が相容れないのは当然である。という点に対する日本人の側からの何らかの回答が用意されているいるものと思っていたからである。 事実、今回の『G2000』の製作者である富山省吾氏も「昨年、アメリカで作られたトライスター版『Godzilla』を観た時、日本のゴジラ映画を復活させようと決心しました。アメリカのゴジラ映画と日本のゴジラ映画とでは、ゴジラに対する位置づけが違っていたからです。アメリカのゴジラは人間に倒されるべきもの、人間が乗り越えるべき標的でした。日本のゴジラ映画は、そういう意味ではまったく逆です」と、まったく正しい認識をもって『G2000』製作に取り組んでいるのだ。にもかかわらず、このゴジラ映画は出来が悪いのである。「意図が良くて、出来が悪い」のには、2つの原因が考えられる。第1は、脚本・監督等スタッフに能力がない。第2は、製作会社に熱意と資金力がない。これらの要因には、当然のことながら、キャスト(出演者)たちの演技力のなさも含まれる。なぜなら、その程度の大根役者しか選べないという選球眼の悪さ、もしくは、懐具合の寒さが考えられるからである。 ▼大根役者の面々 日本映画の資金力の脆弱さについては、何もあらためて私が触れるまでもない。ハリウッド映画と比べて、彼我の差は、誰の目にも明白である。そこで、今回は、キャストとスタッフに焦点を当てて考えてみよう。まず、登場人物の中で、誰一人として満足のゆく演技のできている役者がいない。中でも最低は、西田尚美演じる雑誌記者由紀である。そもそも「演技」になっていない。まだ子役の鈴木麻由のほうがずっとましである。そんな彼女に演技させるのであるから、監督の演技指導もめちゃくちゃである私生活でカメラなど扱ったことがないのがまる判りである。夜間の根室沖の海上を進むゴジラを車から撮影する(数百メートルは離れている)のに、フラッシュを焚くバカがどこにいる(フラッシュの光は数メートルしか届かないのは常識)。あるいは、トンネルを抜けたところでゴジラと鉢合わせになり、数メートル離れたゴジラの眼前で、車のフロントガラス越しにやはりフラッシュを焚いている。眼前のガラスがハレーションするだけだ。そのような結果、撮影されたゴジラの写真を東京の雑誌社に持ち込んで、上司に叱られるシーンがある。「少量でも放射能を浴びたらフィルムは感光してしまうんだ!」ギャグ以外の何者でもない。本人も、今回の『G2000』に出演するまでは、「ゴジラは子供向けの映画」と思っていたとは、認識不足も甚だしい。 阿部寛演じる内閣官房副長官兼CCI(危機管理情報局)局長片桐の設定もおかしい。そもそも、この役職は、通常国会議員が務めるものだ。劇中も代議士のパーティのようなシーンがあるので、それを意識しているのだろうが、途中からCCI局長としての片桐は、自衛隊の武官のような制服のような服装をしている。極めて不自然である。実際の自衛隊(防衛庁)ですら、意志決定レベルの人は全て「背広組」と呼ばれる文官(官僚)である。確かに、現在の内閣官房副長官額賀福志郎氏は元防衛庁長官だったので、その線もある(額賀氏とは最近、葬儀で同席したことがる)かもしれないが、ともかく、官房副長官である片桐が、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣や防衛庁長官を通さずに、直接、「制服組」に命令を発するのは不自然である。こんな社会の常識を知らない人が映画を作っているとは思えない。 佐野史郎演じる政府お抱えの科学者宮坂も設定が不自然である。第一、ときどきTVに写る政府系の各種専門家会議(たとえば、かつての「地震予知連絡会議」)などを見ても判るように、「御用学者」というのは、たいてい、既に評価が確立したその道の「権威」の大先生(かなり高齢)ばかりではないか? しかも、佐野は、1954年のオリジナル『ゴジラ』で、志村喬演じた山根博士を意識しているらしいが、この二人の演技力を比べること自体がナンセンスである。今回の『G2000』をさらに軽薄にしている謎の宇宙人が操る巨大UFOについて報告するシーンは、かつて山根博士が国会で専門家として調査団派遣を訴えるシーンで「上着からはみ出したネクタイを直す」に引っかけているが、こんな表面的なことではなくて本質的な内容を深めて欲しかった。そもそも、ゴジラの敵が数千万年間日本海溝の深海底に沈んでいたUFOというのも安易だし、そのUFOが発射する熱光線が、まるで『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲そのものである。さすがにパクリは誤魔化せなくて映画の中での呼称も「波動」と呼んでいる。 登場人物評価の中で、最後に挙げられるのは、一応「主役」の村田雄浩演じる民間団体GPN(ゴジラ予知ネットワーク)主宰の篠田博士である。造り酒屋の御曹司でゴジラに魅せられた科学者が大学を辞めてNGO団体を組織しているというのもおかしい。しかも、政府機関であるCCI局長の片桐とは大学時代からのライバルで、ゴジラに対するアプローチの違いからこのGPNを結成しているというのだ。この人も「ゴジラに人生を賭けている(愛想を尽かした嫁さんに逃げられたという設定になっている)」わりには、人間に渋みがなさすぎる。髭面にさえすれば、それだけで「らしく見える」と思っていることが既に間違っている。それじゃどこかのグルを変わらないじゃないか(自戒も込めて)。 ▼荒御魂(あらみたま)としてのゴジラ ことほと左様に、めちゃくちゃな設定と「下手な演技」の連続で、この映画は成り立っている。ハッキリ言って、見るべき価値があるものと言ったら、伝統的な「着ぐるみ」のゴジラ(ハリウッド版の「CGゴジラ」はいただけなかった)と、破壊し尽くされるミニチュアの東京だけである。巨大UFOから変化(ゴジラの細胞を取り込んだ)した怪獣オルガも醜い。神々しいのは、直立二足歩行で堂々と闊歩し(決して走り回らない)、口から放射能光線(熱線)を吐き、眼前にあるものを破壊し尽くすゴジラの姿である。私が監督なら、上映時間のうち8割はゴジラが都市を破壊するシーンだけで描きたいくらいだ。キャラクターのある人間なんて糞食らえだ。人が道を歩くとき、もしかしたら踏みつぶしてしまうかもしれない路上の蟻に心を配って歩いている人が何人いるだろう。そう、ゴジラにとって人間なんて虫けら同然の取るに足らない存在なのだ。タイトルの『ミレニアム』なんて、なんの意味もない。人間にとって1000年は悠久の時かもしれないが、ゴジラや日本海溝に数千万年沈んでいたUFOにとって、1000年という時の流れはほんの一瞬に過ぎないはずだ。ただ、コンピュータの「2000年問題」というキーワードを使って社会から注目を集めるためだけにタイトルに付け足しただけだ。必然がない。 ここまで読んできて、「主幹の主観」の愛読者なら気づかれた点があると思う。それは、製作スタッフが今春公開された『ガメラ3』を相当意識しているという点である。もう一度、『ガメラ3(G3)』を思い出して欲しい。『G3』への詳しい論評は、99年3月31日付の拙論『ガメラ3:怪獣は地球環境維持装置だったのか?』をお読みいただけばお判りになるであろう。この作品は、近年の日本怪獣映画の中では秀作の部類に入る。まず、登場人物設定の類似である。ゴジラ担当内閣危機管理情報局長片桐光男=ガメラ担当内閣調査室員朝倉都、御用科学者宮坂史郎=数理統計学者倉田真也、怪獣に心を寄せている民間人篠田雄浩と娘イオ=比良坂綾奈と守部龍成、という具合だ。しかも、謎を秘めた物体(G2000の場合はUFO、G3の場合は器としてのガメラの墓場)が海底調査船しんかい6500によって発見されるところや、最後にゴジラと対面した片桐(『G3』では、朝倉と倉田)が、彼らのゴジラ(ガメラ)への思い入れなどを全く無視される形で呆気なく殺されてしまうところなど、何から何までそっくりだ。この関係は、『ディープインパクト』と『アルマゲドン』の関係にも似ている。しかも、すべての面において『G3』のほうが優れている。ゴジラという究極のアイドル(ガメラのほうがマイナー)を使いながらの体たらくである。当然、ゴジラのほうが予算もずっと多いだろうから、この差は、脚本や監督といったスタッフの能力の差というよりないであろう。 『G2000』のほうが、はるかに現代社会を現すキーワードをたくさん含んでいる。一連のバイオテクノロジー関係(細胞の再生力そのものに着目)の話題しかり、UFOのインターネットシステムへの侵入しかり。それに比べて、『G3』は、アニミズムや風水の世界である。にもかかわらず、『G2000』のそれは、ただ単に、流行のキーワードを借りてきた(話題作り)だけに過ぎず、作品の中でそれらの問題がしっかりと消化されていない。こんな安っぽいゴジラ映画なんか「観レネアム」である。偶然「当たった」といえば、今回のゴジラの上陸先が「臨界事故」で一躍世界的に有名になった東海村ということだけである。 ゴジラ・シリーズの中で貫かれているはずの人間の身勝手な「科学技術文明への異議申し立て」というもの、さらにもっと深めれば「山川草木悉皆成仏」といった日本的な世界観への畏敬の念がなければ、資金力でもデジタル技術力でもハリウッドにはるかに劣る日本で映画を創る必然性がないように思える。極論すれば、高天原で大暴れしたスサオヲノミコトのごとき、「荒御魂(あらみたま)」の現れとしてゴジラを捉える(つまり「ゴジラはカミである」という見方)ことなしに、つまり、人間存在を矮小化させることなしにこの映画を創ってはいけないのである。皮肉なことに、この日の夜、「核燃料加工会社JCO東海事業所の臨界事故で放射線を大量被曝した同事業所製造部社員の大内久さんが35歳の若さで亡くなった」という報に接した。昨年初夏のハリウッド版『Godzilla』を観た夜にはパキスタンによる核実験のニュースであった。核物質というものを人類が使うかぎり、ゴジラ映画のメッセージ性は不滅である。次回作『ゴジラ2001』の健闘を祈るのみである。 |