関西弁って何?
 
              
       99年12年25日
 
レルネット主幹 三宅善信     

▼「関西」という地域は存在しない

 商工ローン被害の実態調査のプロセスで、「最大手の日栄には『関西弁で脅せ』という取り立てマニュアルが存在した」とマスコミで報じられて久しい。ニュースショーなどを見ていると、過酷な取り立てシーンを再現したビデオの中で「下手な関西弁(どう聞いても「関東育ち」のアナウンサーが棒読みしている)」を使う取り立て屋が、債務者を脅しているシーンが再現されている。大阪育ちの私からすれば、その脅しの内容よりも、下手な「関西弁」のほうが遥かに生理的な嫌悪感を催す。次々と過激なセンセーショナリズムを煽ってゆかねばならないテレビというメディアの性(さが)なのか、まことしやかに、顔にモザイクをかけ(後ろ姿や磨りガラス越しという場合もある)、声を変調させた「元日栄(商工ファンド)社員」なる人物まで登場させて、この人物に、松田社長(あるいは大島社長)がいかにあくどい奴であったかを喋らせているが、これとて、顔が出ていない以上、テレビ局お得意の「やらせ」であるかどうかも疑わしい。

 商工ローンそのものについての私の意見は、既に99年11月7日付の拙論『商工・商工・朝から商工』で述べたので、ここでは触れない。今回、問題にしたいのは「関西弁で脅せ」という時の「関西弁」という言葉が何を指しているのかということについてである。結論から言おう。「関西弁」なる言語体系はどこにも実在しない。関東の人々が抽象的にイメージする「関西」という空間の中にだけ存在するバーチャルな概念である。一方、「関東」という呼称は、明確に歴史的に位置づけられた地理的概念である。古くは、平安時代末期の「坂東武者」という表現に始まり、足利幕府の官職として「関東管領(上杉氏が有名)」というのが置かれていたし、江戸に幕府が出来てからも関八州を取り締まる「関東郡代」という官職があった。大正時代には「関東大震災」もあった。日本地図を広げて見れば、北は「白川の関」から、南は「箱根の関」までのわが国最大の「関東平野」が広がっている。

一方、「関西」というのはどこのことなんであろう。現在の地理的用語で言えば、「近畿地方」と呼ばれる2府4県(大阪府・京都府・兵庫県・滋賀県・奈良県・和歌山県)のことであろうか? この地域は、歴史的には「畿内」と呼ばれている古代の都のあった国(河内・大和・山城の国)と隣接している国々(泉州・播磨・丹波・近江・紀伊・伊賀の国等)にほぼ充当しているが、必ずしもそうではない。現在、兵庫県は「近畿地方」に入っているが、かつての「国境」の概念でいうと、本州と淡路島を結ぶ明石大橋の架かる神戸市須磨区までは「摂津の国(=畿内)」であったが、それに続く明石市・加古川市・姫路市などは「播磨の国(=畿外)」である。須磨という地名は、文字通り「すま(隅)」という意味である。『源氏物語』を読んでも、源氏の君は須磨まで来たとき、気分はすっかり「都落ち」である。だから、「明石」は雛には稀ないい女なのである。

歴史的な概念である「近畿」地方ですら、かなり怪しいのに、江戸に都が遷ってから人工的に創作された「関西」などという概念は、実体を持たないことは明らかだ。関西を近畿と同義語と思っている人(関東人)もいれば、もっと広く「名古屋あたりから西」とか、「岡山あたりまで含めて」関西だと思っている人(関東人)もいる。明らかに、「関東」という概念が「箱根の関の東側」という意味に由来しているのに、「関西」という時に想定されている「関所」はどこの関所のことなのであろうか? まさか、「箱根の関より西」という意味ではあるまい…。それなら、まだ、「関西電力が電気を供給している地域」とか「関西テレビの電波が届く範囲」と言ったほうがましなくらいだ。


▼東京弁と栃木弁は同じか?

さて、本題の「関西弁」に話を進めよう。もうお判りのように、「関西」という地域が実態上、存在しないのだから、「関西弁」という言語体系も存在しないことになる。関東の人が気がついているかどうかは知らないが、大阪弁と京都弁では大違いである。もちろん、神戸弁も和歌山弁も大違いである。日本一面積が狭い県である大阪府の中にも、旧国名で言えば、摂津と河内と泉州という3つの「国(=異なった文化圏)」が存在している。おまけに、お芝居でよく出てくる大阪商人の喋っているのは、これらのいずれにも属さない「船場言葉(おいでやす。もうかりまっか。おおきに。かんにんな等)」である。

これらを微妙にオーバーラップさせて喋っているのが、わが大阪弁である。インターネットというメディアは主に文字媒体なので、私のナチュラルな大阪弁のニュアンスが、読者の皆様にお伝えできなくて残念である。因みに、家内の実家は友禅染屋で、京都(中京区)生まれの京都育ちやから(であるから)、ほとんどNHKの朝ドラ『あすか』の世界である。だいたい、大阪と京都は在来線でわずか30分の距離しかはなれていない(大阪と神戸は20分、大阪と奈良も20分)のに、その間に「天下分け目の天王山」があるくらいで、文化も言語体系もまるっきり異なる。これをひっくるめて「関西弁」というのは、暴論も甚だしい。東京弁と栃木弁を一緒にするようなものだ。

そこで、冒頭の「日栄には『関西弁で脅せ』という取り立てマニュアルが存在した」という件の信憑性である。関西弁という言葉が現実に存在しない以上、「関西弁で脅せ」というのは、いったいどういうことであろう。関東人のバーチャルな概念としてしか存在していない「関西弁」なる言語によって創り出されたブラフ(脅迫)なのか? よく「大阪弁は怖い」という発言を聞くが、話し手と聞き手の間の距離を極限にまでち近づけながら、なお婉曲な表現を指向する洗練された文化の香り高い大阪弁を耳にしている私からすれば、話し手と聞き手の間の位置関係をハッキリとさせて、上意下達を目的とし曖昧さ(多様な解釈の余地を残さない)を排除しようとしている東京弁のほうが、遥かに「乱暴な(怖い)」言葉に聞こえる。


▼腎臓おひとつお売りやしたら…

 悪名高い「(借金返すためには)腎臓ふたつあるやろ。ひとつ売ったらどうやねん!」という台詞(せりふ)で有名になった商工「日栄」の元社員による恐喝未遂事件で、逮捕された容疑者Aは、警視庁生活経済課の取り調べに対し、「取り立ての時に使った『腎臓売れ』などの言葉は、人気漫画『ミナミの帝王』に出て来る場面にヒントを得た」などと供述したそうだ。『ミナミの帝王(いわゆる「なにわ金融道」)』は、天王寺大さんの原作を、郷力也さんが劇画化。日本文芸社の週刊『漫画ゴラク』に連載され、単行本もこれまでに44巻が同社から出版されている。大阪・ミナミで金融業を営む主人公が、豊かな法律知識を武器に生き抜いていく物語で、第18巻に、借金の返済に窮した喫茶店主が「ワシの角膜売ってください。腎臓でも肝臓でも売り飛ばしてください」などと懇願する場面がある。脅迫的な取り立ての被害にあった連帯保証人だった千葉県内の男性(=関東人)が、概念としての「関西弁」にビビッとしても、仕方あるまい。

 しかし、よく考えてみると、日栄は京都の会社である。大阪弁と京都弁の区別もつかない連中(関西弁という表現を使っているのがその証拠) が放送業界にぎょうさん(たくさん)いる以上、できれば大阪弁ならぬ京都弁で脅して欲しいものだ。そやないと(そうでないと)大阪弁がええ迷惑や。そこで、私が考えた京都弁による恐喝マニュアルは以下のとおりである。「あんさん腎臓おふたつございまっしゃろぅ。ほんまに借金お返しになりはるおつもりがありやしたら、腎臓おひとつお売りやしたらいかがどすぇ…」少なくとも私には、こちらのほうがずっと怖く感じる。京都人特有の「丁寧な言葉遣いで、きつい内容」が出ているではないか。

 もちろん、私が違法な債権の取り立てや違法な高利貸しを認めているのはないことは言うまでもない。ただ、同じ表現を使ったとしても、使うほう・聞くほうそれぞれの「文化」的背景が異なれば、自ずから異なった反応が導き出されるということである。同じ、日本語同士ですら、これだけの誤解を生む可能性があるのだから、異なった歴史的・風土的・文化的・宗教的背景を有する外国人と話し合い(国家間の交渉・会社同士の交渉・個人同士の交流)をするときには、お互いの違いを予めよく理解した上で、相手の言っていることを聞かなければ、大きな誤解を生むことは火を見るより明らかである。最後に、私が小学生の頃、近所のガキ(お子さん)たちの間で、(思いっきり巻き舌で)「おんどれ(お前)、嘗めとったら承知せんでぇ。ガタガタぬかしとったら、しまいにどたま(頭)カチ割ったろうかぁ」などという、一見とても物騒な台詞を毎日のように聞いていたが、現実に「どたまカチ割られた」子供なんか一人もいなかったことは言うまでもない。


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