大閏年で景気回復
 
              
       00年 1月 9日
 
レルネット主幹 三宅善信     

▼赤穂浪士の討ち入りは1月末!

  今年のNHK大河ドラマは『葵―徳川三代―』である。昨今の大河ドラマは、自治体の地域興しとタイアップした(撮影が行われた大がかりなセットがそのまま「○○館」としてテーマパークとなっている)構成になっているが、そのためにも無理やりにでも話題を作らなければならない嫌いがある。そうの良い例が、今年の『葵』で、なんでも、西暦2000年は「関ヶ原合戦400周年」のアニバーサリーだそうである。地元、岐阜県関ヶ原町でも大いに盛り上がっているそうだ。そう言えば、30年程前、日本史の時間に「1600年関ヶ原合戦」と習った記憶がある。

 ここでいう「1600年」という年号はもちろん西暦(グレゴリオ暦)の1600 年ということだが、果たしてこの年号をそのまま信じてよいものだろうか? 確かに、わが国の歴史書に依れば、関ヶ原合戦は慶長5年9月15日に戦われたということになっている。そして、慶長5年=AD1600年ということになっている。当時、日本で使われていた旧暦(太陰太陽暦)では、1年は約354日であり、3年に1回くらいの割合で「閏(うるう)月」を設けていたことは周知の事実である。ということは、年によっては、丸1カ月程、太陽暦(グレゴリオ暦)とズレが生じることがある。これが夏場のことなら、年までズレが及ばないが、年末の12月や年初の1月頃のことなら、場合によっては年号が1年ズレるということが起こりうる。つまり、慶長5年と西暦1600年とはピッタリ一致しないのである。

 有名な赤穂浪士の討ち入りは、元禄15年(1702年)の12月14日ということになっているが、太陽暦に換算すると、既に年が明けて1703年(元禄16年?)の1月31日になってしまっているそうだ。どうりで、辺りは雪景色になっている(江戸=東京で12月に雪が降ることは稀である)。因みにこの日は、イスラム暦ではラマダンの真っ最中、ユダヤ暦ではサバト(安息日)に当たるので、寝込みを襲った刃傷沙汰など以ての外である。


▼「教義」は「風土」の産物

  昨日、イスラム教の断食月である「ラマダン」が終了した。いうまでもなく、「ラマダン」とは、全世界のイスラム教徒がコーランの教えに則って、ラマダン(イスラム暦の9月)の一ヶ月間は陽が昇っている間中は、飲み食いを禁止(老人・乳幼児や病人を除く)しているのである。今年(イスラム暦では1420年)のラマダンは、西暦1999年12月9日(新月)から2000年1月8日(新月)まで行われた(太陰暦の一種であるイスラム暦では、毎年、約1カ月づつ西暦とズレてゆく)。ということは、もし、コンピュータがイスラム暦を採用していたら「Y2K」騒ぎなどせずに済んだということである。

 話は少し逸れるが、これは、宗教を含めた文化がいかに風土の影響を受けているかという良い例である。イスラム教を創唱したマホメットはアラビア半島に住んでいたため、神(アラー)はラマダンのような制度を預言者(マホメット)に啓示したのである。低緯度地帯であるアラビア半島では、夏冬の日照時間にあまり差がなく、なおかつ、雨がほとんど降らない(晴天が多い)ので、月の満ち欠けを基本にした陰暦を用いても(ラマダンが陽暦の夏冬どちらになっても)あまり問題がない。これが、もし、マホメットがフィンランド辺りの出身だったらえらいことである。もし、冬場にラマダンが回ってくれば、ほとんど太陽の出ている時間帯がないので、昼間の断食そのものの意味がなくなってしまう。逆に、夏場にラマダンが回ってくれば、1日の内20時間くらいが昼間で、緯度によっては1週間連続の「白夜」にもなり、その間、ずっと飲食ができなければ生命の危険に関わってしまう。

 マホメットがスカンジナビア半島出身だったら、ラマダンの形態はまったく別のものになっていたであろう。そのことからしても、アラーの「唯一神性」というものの信憑性が怪しくなってくる。つまり、風土は宗教よりもより強い概念体系であるとも言える。もちろん、イスラム教だけでなく、仏教やキリスト教なども、気候・風土・言語・歴史等を異にする世界中の人々に広く信じられているが、それらとて、よく観察してみると、それぞれの地域で受容されるに際して、いろんな意味で「土着化」現象が見られるはずである。「先祖供養」が盛んな日本では(それ故にキリスト教があまり流行らないのであるが)、キリスト教のある教派では、現在の信者(クリスチャン)が、「真の教え(=キリスト教のこと)」を知らずに死んでいった(それ故に救済にあずかれない)先祖の霊魂のために、代わって洗礼を受けるという「身代わり洗礼」という儀式をお盆の時期に行っているところがあるそうだ。これなど、「世界宗教の土着化」そのものである。


▼織田信長の葬儀の日にグレゴリオ暦は制定された?

  さて、本題の「暦」に話題を戻そう。まず、現在、世界の広範囲で使われている「グレゴリオ暦」がいつ、どういう訳で制定されたかという話からしてゆくと、「グレゴリオ暦」はローマ教皇グレゴリウス13世の時代、AD1582年10月15日に採用された。1582年は、日本では天正10年に当たり、本能寺の変が起こった年である。学校で使われている歴史の教科書によると、天正10年10月15日の項目には「羽柴秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を行う(天下人の後継者宣言)」とある。なんと、洋の東西で大きな歴史的イベントが同時に起こったのか? と思われるが、実は、天正10年の10月15日は、グレゴリオ暦では11月10日に当たるので別の日だから、ややこしい。また、グレゴリウス13世は、日本人を最初に見たローマ教皇としても歴史に名を留める。この年、九州のキリシタン大名の命を受けた遣欧少年使節がローマに旅立ち、3年後グレゴリウス13世その人に謁見することになる。

  1年は365日、天文学的には365日と4分の1日ということはたいていの人が知っている。更に正確に観測すると365.24219879日だそうである。この観測に基づきグレゴリオ暦は平年を365日、閏(うるう)年を366日と定め、閏年を400年に97回置く(4年に1度ではない!)ことにした。閏年は普通、4で割り切れる西暦年(現在では夏季オリンピックが開催され、アメリカ合衆国の大統領選挙が行われる年に当たる)であるが、微調整を行うために400年に3回の例外を設けている。つまり、100で割り切れる年は閏年にしないというのである。近年では、1700(元禄13)年、1800(寛政12)年、1900(明治33)年が閏年ではなかった。今年2000年は400年に1度の大閏年である。日本史でいえば、慶長5年には関ヶ原合戦が戦われ、元禄13年には「水戸黄門」徳川光圀が73歳で没し、寛政12年には伊能忠敬が日本地図の測量を開始し、明治33年には清国の義和団鎮圧のため廈門へ派兵した年に当たる。

 グレゴリオ暦は閏年を的確に配することにより地球の動きを正確にとらえるようになった。1582年から400年後の1982年、グレゴリオ暦はようやく1巡し、現在は2巡目に入ったところである。このように正確に計算されたグレゴリオ暦は 3319年にわずか 1日の誤差を生ずるのみである。3000年先に人類がこの地球上で生き残っているかどうか判らないので、グレゴリオ暦に代わるもっと厳密な暦を制定する必要はない。グレゴリオ暦は1582月10月15日に制定されたと言ったが、それ以前に使われていた「ユリウス暦」では、この日は1582月10月5日だった(10日間進んだ)そうなので、BC(紀元前)46年に制定されたユリウス暦は、1627年間で10日の誤差が生じたことになる。

 「ユリウス暦」は、いうまでもなくローマ史上最大の英傑ユリウス・カエサル(シーザー)によりBC46年に採用された暦である。1年は365日で、閏年は4年に一度である。初期のローマ時代では、1年はいまでいう3月にはじまり、12月で終わる10ヶ月=304日間であった。後に2カ月を加え1年を355日とする太陰太陽暦にしたが、季節とのずれを調整する閏月の置き方に混乱をきたしたため、エジプトを占領したカエサルが、エジプトで採用していた太陽暦を天文学者ソシゲネスの建議によりBC46年に採用した。これがユリウス暦である。付け加えられた2ヶ月の名称は、後にユリウス(Julius=July=7月)と初代皇帝アウグストス(Augustus=August=8月)に因んだ名前に変更された。


▼閏年に景気は好転するか?

 そういう訳で、今年西暦2000年は、400年に一度の大閏年に当たる特別の年なのである。これで疑問が解決したかというと、まだまだ疑問が残っている。それは「うるう」年という名称そのものである。この日本語として極めて不自然な言葉の意味はいったい何なのであろう? 英語だと、「leap year」という。leap は jump over という意味だから、こちらのほうもピンと来ない。「閏(ジュン)」という漢字の意味は、「差し挟んだ」とか「正統でない」という意味である。日本の暦は古くは中国の暦をそのまま借用していたので、中国で使われていた太陰太陽暦で使われていた「閏月」の概念をそのまま導入したのである。

 それでは、この「閏」という元もと日本にはなかった概念をどうして「ジュン」ではなく「うるう」と読むようになったのであろうか? それは、意外なことに、あるとき、「閏」という漢字(訓読みはない)を「潤う」という字に書き間違えた人がいて、その訓読み「うるおう」から類推して「閏」という漢字を「うるう」と読むようになったそうだ。地球・月・太陽といった壮大な宇宙的リズムを正確に観察して記録した古代エジプト人・ローマ人・中国人らが作り上げた暦(calendar)の成果を、単なる漢字の読み間違えといったところに還元し、しかも「美味しい所どり」しているところがいかにも日本的ではないか。

 最後に、「閏年」が景気に与える好影響についてひとこと触れて筆を置きたい。「誰が後で膨大な国債費を償還するのか?」といった問題に目を瞑って、国家予算の40%をも赤字国債に頼った平成12年度予算が審議されているが、たとえ政府がなんら積極的な景気刺激策を採らなくても、放っておいても今年のわが国のGDP(国内総生産)は、約0.27%上昇する。というのは、幸運なことに、今年は大閏年のために1年が366日あるからである。つまり、経済発展がまるでなかったとしても、昨年比の総生産量は0.27%=366分の1増加するのである。わずか0.27%と侮ってはいけない。発展途上国のように、あるいはかつての高度経済成長期の日本のように、年間10%以上も経済成長が期待される国ならいざ知らず、経済的には成熟期に入っているG7各国では、年間経済成長率が3%もあれば恩の字であろう。

 事実、ここ数年間の日本の成長率なんて、3%どころか、0%を挟んでプラス・マイナスの攻防を繰り広げてきたではないか? それを、何もせずに放っておいてもその11分の1に当たる0.27%の成長が見込めるなんて、為政者にとってなんというラッキーな巡り合わせであろうか。これも、今を去ること418年も前に、グレゴリオ暦を決めておいてくれたおかげである。20世紀のコンピュータテクノロジーはY2K問題に右往左往したが、16世紀の天文技術によって経済危機は救われるかもしれないのである。閏年は文字通り、潤う年なのである。


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