速佐須良比賣(はやさすらひめ)のお仕事
 
              
       00年 1月 26日
 
レルネット主幹 三宅善信     

▼オウム信者はどこへゆく

『オウム新法』適用による保護観察処分決定だそうだが、ここ一両年のオウム真理教がらみの報道を見ていて大変気になることがある。それは、日本各地で繰り返される「地元」住民たちによる「オウム出て行け!」運動の扱い方である。ああいうことをしたんだから、地元住民たちが不安がって、結束して「オウムの連中」を自分たちの町から追い出そうとする心境はよく理解できる。なにも私は彼ら(住民運動)の側の活動を批判しようというのではない。これも、「安寧に暮らす権利」を有する住民の重要な意思表示のひとつである。少々度量が狭いと思うけれど…。

ところが、ここの騒ぎの影に大きな問題があることを「主幹の主観」の読者の皆さんなら既にお気づきであろう。「不特定多数の任意の個人」の集まりである住民運動は、それ自体、どのような主張を行なうことも自由である。曰く「原発反対」・「基地反対」・「可動堰反対」・「焼却施設反対」…。反対反対のオンパレードである。しかし、一旦これが「強制力」を有する公権力の執行となると、話は全く別問題である。日本国憲法には、思想・信教の自由はもちろんのこと「自由に居住地を選ぶことができる権利」や「児童が就学することのできる権利」というものが明白に規定されている。すなわち、市町村などの自治体は、管轄域内に転入の届け出があれば、手続き書類上の不備以外では、いかなる理由(たとえ殺人犯であったとしても)があっても、これを拒否できないはずである。ましてや、当該者の思想・信教をもってこれを「差別する」なんていうことは、近代民主主義法治国家なら許されるべくもないことは明白である。相手がいくら「無法者」であったとしても、権力を執行する側は、あくまでも「法に則って」粛々とこれ(行政行為)を進めなければならないはずである。

しかしながら、ことオウム真理教信者の居住(および麻原彰晃被告の子供たちの就学希望)の問題になると、話は全く別である。○○村の村長だの△△町の町長などが、多数派である住民の「受け」を狙ってか、堂々と「わが村(町)はオウム真理教信者の転入届の受理を拒否する」と憲法違反の発言しているし、程度の低いTVのワイドショーなどは「当然でしょう」と馬鹿なことを言っているのはしょうがないとしても、あろうことか、これを行政手続き的に指導監督する立場の中央官庁や政府の幹部まで「○○村(△△町)長の苦渋に満ちた選択は理解できる」などと宣(のた)まっておられる。空いた口が塞がらない。公務員たるもの(政治家も含めて)、最低、憲法に書いてあることは遵守しなければならないはずだ。もし、憲法の内容のほうが不都合であるなら、これを改正すればよい。さもなくば「悪法も法なり」で遵守義務がある。『大岡越前』じゃあるまいし、「江戸十里四方所払い」の刑なんてあろうはずもない。ましてや、身内の者が罪を犯したからといって、その罪状が六親眷族まで及ぶというのもおかしい。ところが、こういうことが現実に起こっているのがオウム真理教事件の特殊な状況である。日本の民主主義のレベルが問われるところである。

オウム真理教の信者たちを見事「追い出し」に成功したところでは、住民たちが勝利宣言を行なっている。連中に出ていってもらうためには、「宿敵」オウム信者と共に荷物の搬出の手伝いをした住民運動もあるくらいだ。しかし、よく考えてみると、たとえA町から彼らが出ていったところで、日本国内に「どこの自治体にも所属していない場所」などあろうはずもなく、彼らはなんらかの伝(つて)を頼ってまた別のB町へ移り住もうとするだけである。そして、新たにB町で「オウム出て行け!」運動が始まるのである。住民運動の目的は明確で、その上、中立であるべき自治体までも、ともかく「自分の目の前から見えなくなってしまえばそれでいい」という考えである。そこには、問題の根本的解決を探ろうというような感覚は微塵もない。ここに、日本文化を的確に表現する言葉のひとつとして「内と外」という概念が見えてくる。


▼フィリピンへ廃棄物を不法投棄

今回、私はこの文章をフィリピン海へ美しい夕陽が沈むのを一望できる北マリアナ連邦内のお気に入りのプライベートスポットで執筆している。衛星放送を通じて視る日本のニュースでは、日本は「この冬一番の寒気」だそうであるが、こちらは珊瑚礁の蒼い海だ。見渡す限り、泳いでいる人間は私だけである。夕陽を見た後も、満点の星空を楽しみながら漆黒の海で泳ぐ。いつまでもこの素晴らしい環境が維持されることを望む。

そういえば、先日、ある悪徳産業廃棄物処理業者が、関東一円で回収された(汚染された可能性がある)使用済みの医療機具などの産業廃棄物を、適切な処理をすることなしにコンテナに詰め、内容を偽ってフィリピンへ不法に輸出(投棄)したことが発覚し、国際問題化した。ところが、肝心の当該業者はどこかへ雲隠れしてしまったので、日本政府が国民の血税を使ってこれを日本へ持ち帰り、自治体の処分場に依頼(もちろん有料)してこれを処分したという事件があった。この問題には2つの背景がある。

ひとつ目は、ゴミの処理には非常に金と手間がかかるということである。人は、価値のあるものに金を投じることは惜しまないが、価値のなくなったもの(それゆえ「ゴミ」として処分された)に対して金と手間をかけることを本質的に嫌う。人類はその最初の段階からゴミを作り出してきた。考古学などでは、貝塚や土器の欠片などが古代人の生活を知る上でゴミが重要な手がかりになることが多い。しかし、こと20世紀に至るまで、ほとんどのゴミは有機物であってもなくても、暫くすると自然に分解して(消滅して)しまうようなものが大半であった。ところが、20世紀の産業社会は、大量の物資を創り出し、そのことは同時に、大量のゴミ(産業廃棄物)を造り出してしまった。しかも、それまでは地球上には存在しなかった化学合成物質を大量に産み出したので、これらの多くは放置するだけでは分解(消滅)しなくなってしまった。また、あるものは環境ホルモンとして生態系に思わぬ悪影響を与えることになった。

「大量生産大量消費」型社会についてよく考えてみると、大量生産のほうは、産業革命以来留まるところをしらない技術革新のおかげで、文字どおり大量に生産されるようになったけれども、「大量消費」のほうは、条件付きの概念である。先進国に住むわれわれは、一見豊かな消費生活を送っているように見えるが、厳密にいうと「消費」していない。消費の文字どおりの意味は「消えて費えること」であるが、物質的には決して「消えて費え」ていない。ゴミになっているだけである。われわれの「生活」という行為は、生産や流通によって価値を付与された物(製品)から、「その物が持っていた付加価値を消費した」だけのことであって、決して、「物質それ自体が消滅した」訳ではない。ここに、物本来が有する「モノ(animisticな価値)」と人間によって物に付加された価値(value)との違いがある。モノはなくならないが、価値は常に減少する。壊れた自動車や家電製品を見れば一目瞭然である。動かなくなっただけで体積はまったく変わらない。むしろ、かえって邪魔にすらなる。自分の目の前から一刻も早くこれを処分したい。


▼古代から変わらない精神構造

ここがふたつ目の背景である。廃棄物がこの地球上から「消えて無くなる」なんてことは不可能であることは解っていながら、一刻も早く自分の目の前からは「消えて無くなっ」てほしいと願うのである。日本人は、そのことによって自分のゴミ(自分にとって都合の悪いこと)が「消えて無くなった」と信じたいのである。ここに興味深い一文がある。8世紀の文献なので、少し読みづらいかもしれないが、該当すると思われる箇所を一部分記載する。

「…(前略)…祓(はら)へ給(たま)ひ清め給ふ事を 高山の末 短山(ひきやま)の末より 佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ。 速川(はやかわ)の瀬に坐(ま)す瀬織津比賣(せおりつひめ)と言ふ神 大海原に持ち出(い)でなむ。 此く持ち出で往(い)なば 荒潮の潮の八百道(やほぢ)の八潮道(やしほぢ)の八百會(やほあひ)に坐す速開都比賣(はやあきつひめ)と言ふ神 持ち加加呑(かかの)みてむ。 此く加加呑みてば 氣吹戸(いぶきど)に坐す氣吹戸主(いぶきどぬし)と言ふ神 根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐す速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言ふ神 持ち佐須良(さすら)ひ失ひてむ。 此く佐須良(さすら)ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在(あ)らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 国つ神 八百萬神等(やほよろづのかみたち)共に聞こし食(め)せと白(まを)す。」

ご存知、『中臣の大祓(おおはらい)』と呼ばれている資料である。この国に律令が制定された当時から、6月末(水無月の晦=つごもり)と12月末(大晦日)、朝廷に文武の百官を集めて彼らの「罪穢」を祓い清めた年中行事である。現在でも、各地の神社で盛んに「大祓」神事が行なわれている。ここに、日本人の産業廃棄物処理に対するいい加減な態度の源泉があるといってもよい。

「罪穢(廃棄物)」を山の斜面から放り捨てると、ころころと転がり落ちて(そこにいる瀬織津比賣というカミの働きで=持ち出る)川の流れに乗って大海原へ流れて行ってしまう。そうすると、(そこにいる速開都比賣というカミの働きで=飲み込む)潮の流れに乗って行って(そこにいる氣吹戸主というカミの働きで=吹き飛ばす)どこか深いところへ沈んで行ってしまう。そして、根国底国に着くと、(そこにいる速佐須良比賣というカミの働きで=流離(さすら)い失わす)どこかへ消えて費えてしまう…。なんという都合のよい理論であろう。速佐須良比賣なんて名前の神様をよく考え付いたものだ。自分の目の前から遠ざけて、濃度をどんどんどんどんと薄めていったら(検出できないくらいに薄くなったら)無いのと同じだ。という考え方である。

便利で快適なわれわれの日常生活を支えるための大量の消費物資=廃棄物をどうするか(不便で質素な生活に質を落とす?)という問題と、各地を流離うオウム真理教信者たちを社会としてどうして受け入れて行くか(Living Together in Diversity)という問題は、「内と外」の差別という日本文化の共通の根を持った問題なのである。さぁ、日本社会のお手並み拝見である。


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