レルネット主幹 三宅善信
▼小渕総理は、本当に青木官房長官に後事を託したのか?
総理大臣の突然の脳梗塞という思いがけない病気により、小渕内閣が昨日退陣し、今日、総理大臣以外の閣僚はそっくり同じという森内閣が誕生した。大臣の失言やキャリア官僚の相次ぐ失態、自身のNTTドコモ株不正取得疑惑、それに自由党の連立離脱問題と、内閣支持率の低下(「親分」の竹下政権末期の内閣支持率は、3%の消費税率よりも下回ったことから比べるとまだましかも…)にも関わらず、沖縄サミットという花道まではなんとか持ちこたえようとしていた小渕恵三首相が、無念の退陣を余儀なくされ、あっという間に、森喜朗「後継」政権が誕生したことに、私は少なからずショックを受けた。
小渕内閣の何人かの閣僚には面識があったが、将来のことを考えない公共事業バラマキ政策、介護保険制度、自自公連立等、私は基本政策の点で、小渕政権には否定的であった。しかしながら、今回の小渕首相退陣(の仕方=手続き)については、プロセス(手続き)を尊重するという民主主義法治国家の原則からして大いに疑問を(極論すれば、日本の民主主義の危機)を感じたので、病身の小渕氏に成り代わって、筆を取ることにした。 まず、4月2日朝の青木官房長官による総理大臣臨時代理就任である。1日夜11時28分から行われた青木官房長官の緊急記者会見が最初の疑惑である。それによると、「小渕総理は、同日午前1時頃に体調を崩して都内の病院へ緊急入院した。同日夕方に、私(青木官房長官)が総理を見舞った時は、小渕首相の意識はハッキリしていて『検査結果の思わしくないときは、官房長官が総理大臣臨時代理を務めるように』ということであった。その後、総理は昏睡状態に陥って、集中治療室で人工呼吸装置を装着している」という発表であった。それらの状況を受けて、翌2日朝、「治療に当たっている主治医チームの医者に聞くと、『(総理は)人の言うことを理解したり、自ら判断を下し、意志を表示する能力を失っている(臨床的脳死状態?)』とのことであったから、総理から依頼されたとおり、私(青木官房長官)が、内閣法の指定する総理大臣理事代理職に就任した」という発表であった。
本当に、官房長官が言うように、彼が最初に見舞ったとき(4月1日の夕方)には、小渕総理の意識があった(臨時代理者を指名した)のであろうか? それとも、その時(順天堂医院へ担ぎ込まれた時)既に、小渕総理の意識レベルは「昏睡状態」に陥っていたのではないのだろうか? 近代民主主義国における最高権力者が緊急入院しながらも、その事実が、国民一般やマスコミはおろか総理大臣経験者(事実、この国政の重大時に、同じ派閥の橋本龍太郎前総理ですら、のこのこと杉良太郎の結婚披露宴でスピーチをしていた)を含む多くの与党政治家にすら、22時間半も隠されていたことは、国家権力の中枢にいるごく一部の人々によって、思いもかけない事態の処理に対する筋書きの作成と口裏合わせのための時間であったと考えるほうが自然ではないか…。
▼核のボタンは私が握っている
しかし、そのような推察をすることが今回の私の目的ではない。私が関心があるのは、あくまで手続きの問題である。日本では、内閣法でいうところの「副総理」を予め決めていない(後継者を初めから決めておけば、それだけ最高権力者に対する求心力が減り、結果として首相のフリーハンドを制約するから)場合が多い。総理大臣が外遊などで国を空ける際には、その都度、総理大臣臨時代理(官房長官が就任する場合が多い)を指名することになっている。もちろん、外遊などは、予め日程が決まっているので準備が出来るが、不慮の事故・暗殺、その他の事由によって総理大臣が職務を執行できなくなった場合の規定が余りにもお粗末である。 アメリカ合衆国の場合は、言うまでもなく、大統領の次は副大統領、その次は、下院議長(上院議長は副大統領が兼務)…。と決まっている。レーガン大統領が狙撃された時、地方に出かけていたブッシュ副大統領が急遽ワシントンDCへの帰途についたが、記者団から「現在、誰が最終責任(核兵器の発射ボタンを含む)をもって政府をコントロールしているのか?」と質問されたヘイグ国務長官(実際には、緊急避難的に彼が指示を出していたと思われる)は、「私(ヘイグ)がコントロールしている」と答え、憲法の規定違反(正副大統領が欠けている時は、下院議長ということになっている)を指摘されて、辞任する羽目になった。実際の下院議長であったオニール氏は野党民主党の議員であり、国務長官として政権の中心にいたヘイグ氏と比べて、政策の一貫性・継続性は期待されないにもかかわらず…。 また、ロシアのエリツィン大統領も、心臓の外科手術を受けるために、麻酔をする(一時的に意識がなくなる)直前に、核兵器の発射権限を含む全ての大統領権限をプリマコフ首相に一時的に譲渡する文書に署名した。そして、手術を無事終えたエリツィン大統領の手には、全ての権限が戻された。しかも、そのプリマコフ首相は、その何カ月が後に、大統領から解任されている。それでも、もし、大統領の手術中に何か起これば、全ての決定権限はプリマコフ氏の独断で決められたはずである。一国の最高指導者の権限とは、本来、そういうものであるはずである。それがまた、政治の責任でもある。
それを、事が起こってから、慌てて何人かの「有力者」が相談して、対処してしまってから、事後発表で経緯を説明するなんて…。近代民主主義国家のすることではない。どこかの県警の本部長と変わりはしないではないか。これが、小渕総理大臣の急病という、いわば個人的な突発事態だからまだいいものの、大規模な天災や事件、あるいは、第三国による日本に対する宣戦布告(いくらこちらが「平和主義」というお題目を唱えていても、攻めてくるのは相手国の自由である)であったりしたら、いったい、どうするつもりなのであろうか? 誰が責任を取るつもりなのか。
▼内閣総辞職の手続きには瑕疵が… 次に、おかしいのが、内閣総辞職である。憲法第70条によると、「内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない」ことになっている。ここでいう「内閣総理大臣が欠けたとき」というのは、総理大臣が死亡したとき、もしくは、総理大臣が選挙違反などで、議員資格を失った(総理大臣は衆議院議員でなければならない)とき、という意味である。総理大臣が、一時的に意識を失っているような状態は「総理大臣が欠けたとき」という条件を満たしてはいないはずである。万が一、小渕氏の意識が回復して、「俺は総理を辞めるなんて言っていない」と言ったらどうするつもりなのか? それとも、口では「一日も早いご回復を祈っています」などと言いながら、心の中では「このまま逝ってしまえばいい」などと、罰当たりなことを思っているのであろうか?
内閣総理大臣に限らず、法律用語で一般に言う「代務者」とは、新規のことや既成の方針を大きく変えたりすることはできず、本来その職にある者がするであろうように、日常的継続的な業務を本人が復帰する、もしくは、前任者の職に該当する新任者が着任するまでの「つなぎ」的な業務を行うことだけが許されていることであるはずである。したがって、日々の行政行為などは行えても、衆議院の解散や内閣の総辞職といった、日常的継続的行政業務以外の重要事項は行えないはずである。もし、国権の最高機関である国会から正式の付託を受けていない総理大臣臨時代理にそのような権限があるのであれば、医者と組んで総理大臣を薬で眠らせて、その間に、自分が「首相から頼まれたから代理に就任した」と言えば、権力の簒奪も可能になるではないか。
そこで、今回の小渕内閣の総辞職は、法的に無効とまではいかなくても、手続きに大いに瑕疵があると私は考える。閣僚たちには、「新内閣で、もう一度あなたがたを閣僚に再任してあげるから」と言って、安心させて、全員に辞表を提出させたと勘ぐられても仕方あるまい。「昏睡状態である」という今回事態は、憲法第70条でいうところの「総理大臣が欠けたとき」の条件を十分に満たしているとは考えられないからである。まったくの私人が脳死臓器移植を受けた場合ですら、主治医が記者会見して所見を公表するのに、公人中の公人である総理大臣が、しかも、その職を離れなければならないか否なの瀬戸際に、主治医が一度も記者会見せず、「官房長官の発表することをそのまま信じろ」というのでは、多くの国民は納得できないであろう。
したがって、今回の場合、内閣総辞職は不可能である(ということは、森新総理大臣の指名も無効である)と私は考える。しかしながら、いかに突発的な予想もしていなかったような出来事であったとしても、有珠山の噴火や日露交渉・日朝交渉など、問題は山積しており、一刻の権力の空白も許されないのが現実の政治状況である。そこで、これらの政治を取り巻く状況と小渕氏の健康状態を鑑みる時、私なら以下のようにする。
主権者である国民から正当な選挙によって選ばれた国民の代表である国会から首班として指名を受けた唯一の最高権力者である内閣総理大臣がその職を解かれるのは、以下の3つの場合しかない。@死亡する。A総辞職する。B国会で内閣不信任案が可決(信任案が否決)される。しかしながら、@については、いかに「臨床医学的所見からみても昏睡状態の回復が難しい」とは言っても、そのことと「死亡した」とは、まったく別の次元の話である。Aについては、既述したように条件を満たしているとは考えられない(現実の青木総理大臣臨時代理内閣は、「満たしている」と解釈して、総辞職した)。そこで、最後の手段として、Bの「国会で内閣不信任案が可決する」という方法があったはずである。病身の小渕首相に対しては心苦しいことであるが、国会で執行能力を失った小渕内閣の不信任案を可決し(それに対して、解散総選挙には打って出られないから)、自動的に総辞職ということになり、あらためて、国会で首班指名を行えば良いのである。そうすれば、これまでの法解釈を少しも変えることなく、今回の難局を乗り切ることができたはずである。
▼小渕総理が突きつけてくれた多くの課題
私がこんなことを書くと、「誰がそんな憎まれ役(必死に闘病している小渕首相に不信任案を突きつける)を引き受けるものか」という声が、どこかから聞こえてきそうであるが、私の狙いはそこにある。つまり、現在の日本の法制度には数々の不備があるということを指摘したかったのと、もっと踏み込んで言えば、そもそも、情実や談合で成り立っているこの国(クニ)の社会(ムラ)の現状に対して、欧米からの借り物である (責任を持つ「個」というものが確立していることが前提である) 議会制民主主義というものがいかに機能していないかということを示したかったのである。 さらに、この国では、「一国の最高権力者の進退を医者が決めているのか?」ということを指摘したい。青木官房長官は、総理大臣臨時代理就任にあたって、「小渕総理の回復はほとんど不可能であると主治医に言われた(から臨時代理に就任した)」と言った。とんでもない民主主義に対する冒涜である。総理大臣の進退は、本人自身(総辞職)か、もしくは国会の総意(内閣不信任)で決められるべきものである。医者が決めるのでもなければ、官房長官が決めるのでもない。ライフスペースによる「ミイラ化事件」の時もそうであった。「年老いた病身の父親の最期を決定する(畳の上で死ぬか病院のベッドで死ぬか)権利は、息子ではなく医者が決めるべきだ」と検察当局は決めつけ、病院から病身の父親を連れ出し(結果的には死亡させ)た長男を保護責任者遺棄致死罪の咎で、また、それを唆(そそのか)したグル高橋をそれより重い殺人罪で起訴したことからも、医者の所見を唯一の真理として最優先する(宗教家の説は無視あるいは忌避する)といった困った風潮がこの国に蔓延してきているのは嘆かわしいことである(もちろん、私はグル高橋なる奇人のいうことを肯定しているつもりまったくはない)。
就任当時、「冷めたピザ」とオルブライト米国務長官から揶揄された小渕恵三氏は、自らのいのちを懸けて、日本の議会制民主主義の盲点を検証し、危機管理体制の脆弱さ白日の下に晒らけ出させ、しかも、小渕氏が入院した日(4月1日)から施行された介護保険の適用者(たとえ一命は取り留めたとしても、重大な後遺症が予想される)になり、また、場合によっては、脳死臓器移植のあり方(植物人間=冷めたピザ?)に一石を投じることになりうる可能性すらある。介護保険法も脳死臓器移植法も小渕内閣の成果であるから、有言実行のたいした総理であったということもできる。小渕氏の「奇跡的な回復」を祈り、今回の総理交代の法的瑕疵についても、ぜひ一石を投じてもらいたいと願うものである。
|