ヤポネシア:日本人はどこから来たのか
       00年 4月 24日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼大東亜共栄圏?

ニウエ、ツバル、ナウル、バヌアツ、キリバス、パラオ、サモア、トンガ、フィジー、パプアニューギニア、ソロモン諸島、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、ニュージーランド、オーストラリア…。あなたは何番目まで読んで、これらの名前が太平洋に浮かぶ島国の名前だと気づいただろうか? 現在、宮崎県で行われている「太平洋・島サミット(South Pacific Federation)」に参加している国々の名前である。独立国の名称であるということすら気づかない人に、一応「先進国」である末尾の2カ国を除けば、「地図上でどの辺りにあるか?」とか、「大統領や首相の名前を挙げよ」という質問すら空しいであろう。中には、ナカムラ大統領(フジモリ大統領じゃないよ)という日系人の大統領のいる国(太平洋戦争の激戦地パラオ)まであるが、日本ではほとんど知られていない。

 1945年、大日本帝国の敗戦によって終結した第二次世界大戦(太平洋戦争)であったが、それは、それ以前の数十年間にわたって明治国家が営々として築いてきた大東亜共栄圏(当該国から見れば侵略戦争)の崩壊をも意味した。しかしながら、興味深いことがある。戦後55年間を経てなお、中国をはじめ朝鮮半島やインドシナ半島等のアジア大陸に陸続きの国々が、先の大戦での日本軍(民間人も)の行為および現在の日本政府の歴史認識を厳しく糾弾しているにもかかわらず、同じ日本軍が占領していた太平洋上の島嶼諸国の政府や人々は、日本のことをほとんど悪く言わない。いったいこれはなぜなんだろう? 大陸に派遣された軍人はみな「悪い奴」で、南洋に派遣された軍人はみな「いいひと」だったんだろうか? そんなバカなことはない。日本国中から無作為に選ばれた(徴兵された)幾十万の軍人たちの思考ならびに行動様式が、配属地域によって異なるとは、統計学的にも考えられない。

 合理的に考えられる答えはひとつである。それはすなわち、日本軍が占領した現地の人々の文化や行動様式が、その土地その土地によって大きく異なり、その結果が、日本に対するその後のレスポンスの善し悪しになって現れたと考えるのが妥当であろう。日本軍が働いたとされる残虐行為(そもそも戦争というものは残虐なものであるが)を非難されるのならまだしらず、鉄道や学校・病院などの社会資本の整備など、日本側から見れば「良かれ」と思ってした行為まで非難されているのは、日本人としては心外の極みだ。これなど、その原因の多くが文化・思考様式の違いから生じていることはいうまでもない。これまで、とかく「日本人論」というと、欧米人と比較したり、あるいは、せいぜい中国人や韓国人との比較で論ぜられることが多かったが、今回、私は、太平洋地域との関連において、日本文化について考察を進めてみたいと思う。

▼「石切(イシキリ)」に秘められたメッセージ

 久しぶりに、生きた宗教社会学的資料の宝庫『生駒の神々』で有名な石切(東大阪市)を訪れる機会があった。石切界隈の考現学的な観察については、わがレルネット社のホープ宇根希英の『宗教ことはじめ』で報告されている(しかも、最近、宇根希英レポートの人気が急上昇している)ので、危機感を抱く元祖「主幹」としては、考古学・神話学・言語学・人類学・政治学的要素を総動員して、壮大なスケールで日本文化論についての考察を試みたい。

 『古事記』・『日本書紀』(以下、『記紀』と略す)神話について少しでも知識のある人なら誰でも、その昔、カムヤマト・イワレヒコ(後の神武天皇)が、その本拠地九州地方から瀬戸内海を通って大阪湾から河内地方に上陸。大和盆地へ入ろう(神武天皇は、大和盆地の橿原宮で初代の天皇=ハツクニ・シラス・スメラミコトに即位したことになっている)としたということをご存知だが、地図を見れば判るように、神話の中で神武天皇は、大阪平野と奈良盆地の間には生駒山が遮っていて、その山腹の登る(東向き)ときに先住民族であるナガスネヒコ(長髓彦)の攻撃を受け、敢えなく退却し、紀州側から迂回して、最終的には大和盆地へ侵入することに成功した。この辺の経緯(つまり、古代大和政権の成立)については、萬遜樹氏の二人のハツクニ・シラス・スメラミコト:邪馬台国と大和朝廷』に詳しく考察されているので、省略する。

 さて、その大阪(河内)平野から生駒山へ駆け上がろうとするその場所こそが、現在、石切神社(正しくは、延喜式内社「石切剣箭(いはきりつるぎや)神社」)の鎮座する辺りと考えられている。この「イシキリ」という地名については、以前から、アイヌ語の「ishikir(長い・足)」すなわち、ナガスネヒコという意味になるということは知っていた。そして、石切神社に関係する神々(石切剣箭神社=饒速日尊と可美真手命。登美霊社=三炊屋姫。石切祖霊殿=石切大神)には皆、それぞれに相応するアイヌ語があり、弥生(大陸)系の人々が日本列島に拡散する以前の縄文系(どこから来た?)先住民と弥生系入植者の攻防の歴史の神話化されたもの(特に「逆賊」ナガスネヒコは隠され、石切大神となった)という解釈がなされてきた。たぶん、映画『もののけ姫』に出てきた蝦夷(えみし)の青年アシタカヒコ(可美真手→アジスキタカ彦)も同系であろう。石切神社とアイヌ語の関係についての考察は、Gen氏の『石切神社祭神は長髓彦?』が興味深い。同氏は、この他にも『記紀』神話をアイヌ語の語彙を用いて解釈するというユニークな研究をされている。「石切」に関する限り、Gen氏の見解に私も同感である。今後、この手法による古代史の一層の解明が期待される。


▼興味深いポリネシア語の世界

 ところが、最近、もっとラディカルな意見を側聞した。曰く、「古代の日本の地名および神名の多くはポリネシア語で解ける」と井上夢間氏は言うのだ。そもそも古代日本語とポリネシア語をつなぐキーは、豊富な畳語(「わくわく」、「どきどき」等の繰り返し語)の語彙(ボキャブラリー)にあるという。確かに、印欧語はもとより、日本語と親戚関係にあるアルタイ語系(朝鮮語・満州語・モンゴル語・トルコ語等)の諸言語においても、畳語の語彙は限られている。その点、南方系のポリネシア語(ハワイ語・マオリ語等)には、畳語が数多くある。言語としては、素朴な感情を表すような語彙は、後から作られた(日本語の場合、漢字として導入された)概念語よりは遥かに「長生き」しそうであるから、原日本人(縄文人?)が、これらポリネシア系の人々と近い関係にあったという説もまんざらではない。

 井上夢間氏の『夢間草廬(むけんのこや):ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源』によると、「…石切剣箭(いはきりつるぎや)命神社)があります。この「いわきり」、「つるぎや」は、マオリ語の「イ・ウアキ(またはハキ)・リ」、I-UAKI(HAKI)-RI  (i = beside; uaki = launch, push endwise (haki = cast away); ri = screen, protect)、「(前に押し出されて)立っている(放り出されている)衝立(のような山)の傍ら」+「ツ・ルキ・イア」、TU-RUKI-IA (tu = stand, settle; ruki = dark; ia = indeed)、「実に暗いところに鎮座している()」の転訛と解します…」と読める、というのだ。実に興味深い「目から鱗の落ちる」ような解釈ではないか…。

 石切大神が祀られているという前方後円墳の上に屋根を付けたようなユニークなデザインの上之社の中は本当に真っ暗で、それなりの雰囲気が醸し出されていた。 

 同氏のポリネシア語を使った解釈によると、石切神社のすぐ近くにある河内国一宮の式内社枚岡(ひらおか)神社については、「…この「ひらおか」は、マオリ語の「ヒ・ラホ・カ」、HI-RAHO-KA (hi = raise, rise; raho = platform, floor; ka = take fire, be lighted)、「高台にある居住地」の転訛と解し…」ということになっており、実に、地形との整合性がある。

 さらに、「瓜生堂(うりゅうどう)」については、「…枚岡神社の南西、瓜生堂及び若江西新町一帯に弥生時代の方形周溝墓や、使用中と思われる完全な形の石器や木製の農工具が出土した集落遺跡の瓜生堂遺跡があります。遺跡は、旧大和川によって運ばれた土砂に覆われて、地表下34メートルに埋れていました。この「うりゅうどう」は、マオリ語の「ウ・リウ・トウ」、U-RIU-TOU (u = breast of a female, be firm; riu = disappear; tou = dip into a liquid, wet)、「(洪水によって元の集落が)完全に消えてしまった湿地」の転訛と解します…」となっている。

 井上氏のサイトには、日本中の由緒のありそうな地名について、すべてポリネシア語を用いた解釈がなされているので、皆さんも、それぞれの地元や関心のある地名について調べてみれば、きっと興味深い結果が得られると思う。もちろん、私は、ポリネシア語に関する知識がまったくないので、言語学的な証明はようしないが…。


▼垂直軸か水平軸か

 ここ23年、オフは太平洋上の島々で過ごすことが多いが、その島々(インドネシア東部地域も含む)の人々(先住民)の生活を観察していて、日本文化との共通性を感ぜずにはいられない。火山列島。山の斜面に所狭しと開墾された千枚田(豊葦原の瑞穂の国)。高温多湿を想定した高床式の住宅(伊勢神宮に似ている)。庭先に設けられた精霊棚のような祠。褌(ふんどし)や腰蓑(みの)や入れ墨。母系社会。半農半漁の生活…。何か懐かしさを感じる。そういえば、サモア系の横綱武蔵丸関の顔なんて、西郷隆盛にそっくりではないか…。

 そういえば、大陸系の騎馬民族といわれる「天孫族」の神話や儒教のコスモロジーなどは、「天←→地」あるいは「北←→南」といった垂直軸を中心に論理構造が展開され(北辰→天帝→天子→南面)ている。一方、太平洋の島国同様、日本でも稀人(まれびと)は海の彼方からやって来た。常世(とこよ)国や琉球のニナイカナイ。『記紀』神話に登場する事代主(コトシロヌシ)、少名彦名命(スクナヒコナノミコト)、蛭子(ヱビス)らは皆、海の彼方からやって来る。赤道付近の海域では、季節による変化は少なく、大陸で考えられたような世界の統一原理(中心)としての北極星(南十字星)はあまり意識されなかったと思う。それよりもむしろ、毎朝東から登って、夕方には西へ沈む強烈な太陽のほうが、世界を動かしている原動力と考えられたであろう。東西軸というか水平軸が、島々では意識されたに違いない。

 琉球神話の「太陽の洞窟(テダ・ガ・ガマ)」に見られるように、毎夕、太陽は死んで、洞窟を通り抜けて、翌朝、東の空に再生するのである。あたかも、天照大神が天の岩戸(洞窟)にいったんお隠れになられたように…。人類の歴史が救済史(創造→終末)であるというよりは、日々、神饌物を神々に供し、永遠に続く日々の繰り返しのほうを尊重するのである。この軸を狭く捉えれば、誕生を象徴する東の三輪山→人々が生活する中央の大和盆地→死を象徴する西の二上山。本州全体に当てはめて、広く捉えれば、誕生を象徴する東の鹿島・香取神宮→中央の畿内→死後を象徴する西の出雲大社。

▼日本列島は原モンゴロイドの海上拡散ルート?

 おそらく、このような類推は太平洋上のどの島々にもあるかと思う。太古の昔、太平洋の島々を島づたいにやって来た一団の人々(原日本人)が住み着いたと考えられる地域(海域)は、以外に広いと考えられる。南は南西諸島(琉球列島他)から九州・本州・北海道と連なって、北はクリル(千島)諸島までの数千キロにわたる。あるいは、まったく反対に、原モンゴロイドが、氷河期に米・露間のベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸の南端(2万キロ)にまで達したのと同様に、カムチャツカ半島からクリル諸島を通って、先程とは反対のルートで、琉球から、台湾、フィリピン、ニューギニア、そしてポリネシアの島々へ拡散していったかもしれない。まさに、その意味で、日本列島は「ヤポネシア(Japonesia)」と言える。

 日本政府(マスコミも)が気付いているかどうかは知らないけれども、今回の「太平洋・島サミット」の意義は大きい。邪馬台国の卑弥呼以来現代に至るまで、日本人は、大陸にばかり目を向けてきた(最初に述べたように「労多くして益が少ない」と思われる)が、ここらで一度、考え直す時期だと思う。「天孫降臨」神話の故郷、高千穂の峰を頂く日向(ひむか)の国宮崎県が、太平洋・島サミットの開催地になったのも、何かの縁であろう。

 そういえば、数年前、この地に、イースター島のモアイ像を設置して開設された「サンメッセ日南」というテーマパークがある。その一番高い場所に、古代人の石器(ナイフとして用いられた)で有名なサヌカイト(香川県原産の玻璃質安山岩)を加工して造られた『地球感謝の鐘』がある。その鐘を取り囲むようにして、20世紀に生きた世界中の主な精神的指導者のメッセージが刻み込まれている。もちろん、亡祖父三宅歳雄の「天地に生かされ、天地に生きる」も収録されている。



■おまけ:今回の「太平洋・島サミット」の参加首脳名簿(何人知っていますか?)

▽パラオ、ナカムラ大統領▽キリバス、シト大統領▽ナウル、ハリス大統領▽ミクロネシア連邦、ファルカム大統領▽マーシャル諸島、ノート大統領▽サモア、マリエレガオイ首相▽ニウエ、ラカタニ首相▽ツバル、イオナタナ首相▽フィジー、チョ―ドリー首相▽パプアニューギニア、モラウタ首相▽クック諸島、マオアテ首相▽バヌアツ、ソぺ首相▽トンガ、アタ首相▽オーストラリア、ダウナー外相▽ソロモン諸島、オティ外相▽ニュージーランド、ゴフ外相▽日本の森嘉朗首相。


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