南海道:太陽と海の道
       00年 05月04日
 
レルネット主幹 三宅善信
           
▼平成神道研究会

 427日、平成神道研究会の例会に久しぶりに参加し、和歌山に行った。平成神道研究会(以下、平成会と略す)は、1989(平成元)年に結成された医学・法学・工学他、神道とは直接関係ない学問を大学時代に勉強した後に神職になった人々を中心に構成された団体である。一般読者の皆さんはご存知ないかもしれないが、東京の國學院大学と伊勢の皇學館大学には神道学科という課程があり、全国のほとんどの宮司さんはこのどちらかの大学を卒業して神職の資格を得ているのである。これら両大学のOBを業界では「院友」・「館友」と称して、官公庁や大企業における東大閥や京大閥などよりも遥かに大きな影響(なにせ2閥しかないのだから)を全国の神社に及ぼしているのである。

 神主なんて世襲でなるんだろ」と思っておられた読者の皆さんには、驚きの事実であろう。それどころか、世間一般の常識では、医学部を卒業した人はたいてい医者(研究医か開業医)になるものと思い込んでおられるが、宗教界には、医学部を卒業したのに医者にならずに(あるいは医者を辞して)「聖職」に就いている人物が結構多い。パッと思い当たるだけでも、春日大社の葉室ョ昭宮司、石切剣箭神社の木積一仁宮司、和宗総本山四天王寺の森田禅朗前管長…。皆メジャーな社寺のトップである。そして、平成会の代表幹事、新宿花園神社宮司の片山文彦師も公衆衛生学を東京女子医大で講じている。しかし、神社界一般から見れば、平成会は「毛色の変わった連中」と思われていると思う。その中でも、神職もでないのにメンバーである私は、毛色だけでなく「膚の色まで変わった奴」と思われているに違いない。

 その平成会が今回(2カ月に1回の割で、どこかの宗教施設を訪問する)訪れたのが、和歌山市の日前(にちぜん)宮と淡島(あわしま)神社であった。時間が取れずに例会にはほとんど参加したことがない不良会員の私であるが、この日(27)は、ちょうど亡祖母の命日で墓参をすることになっていたので、例会に立ち寄ることにした。亡祖父が和歌山市出身(三宅家は、紀伊中之島の志摩神社の神職家(=志摩氏) や「不平等条約改正」で有名な明治の元勲陸奥宗光とは親類だそうだ)なので、三宅家奥城(おくつき=墓所)は和歌山市内にある。その道中(阪和自動車道の和歌山ICを出てすぐ)に、町中にもかかわらず鬱蒼と木の繁った場所があり、以前から気に掛かっていた。それが日前宮である。県道は日前宮の裏側(北側)を通っており、通行するドライバーからはそこが由緒正しい神社の鎮守の森であることなどはほとんど判らない。


▼明治維新という文化破壊

 かくいう私も、今回初めて日前宮を訪れる機会を得た。日前宮の正式名称は紀伊国一之宮「日前(ひのくま)國懸(くにかがす)神宮」である。神宮の所在地は、4世紀の前期古墳で有名な秋月遺跡である。いつのころからか太陽神の神座(カミクラ)が置かれていたのであろう。紀俊武宮司の説明に依れば、「ご祭神の日前國懸大神は天照大神の前霊(さきみたま)」だそうである。御鎮座略記には、「太古天照大神が素盞嗚尊の行いを嘆き、天岩窟に幽居ましてしまい、世界が闇となってしまった時は、思兼命の教えに従い種々の幣帛を備え、大御心を慰め和しめし奉るに当たり、石凝姥命が、天の香山の金を採って大御神の御像を鋳造」られました。『日本書紀』第一の書に、「時に高産霊の息思兼神といふ者有り。思慮の智あり。乃ち思ひて白して日さく、『彼の神の象を図し造りて招壽ぎ奉らむ』とまうす。故、即ち石凝姥を似て冶工として、天香山の金を彩りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天の羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前なり」とあり、この時鋳造されたのが、伊勢神宮奉祀の八咫の鏡、日前神宮奉祀の日像鏡、國縣神宮奉祀の日矛鏡だそうである。

 紀宮司のご案内で、日前神宮と國懸神宮(二社が並列して祀られている)に正式参拝した。興味深いことに、この二社の間には摂社として天道根神社と中言神社が祀られいるが、それ以外にも、多数の末社の跡が遺されている。紀宮司に尋ねると、「江戸時代までは、日前・國懸両神宮の周りを取り囲むように円形に末社が配置されていた」そうである。それを「明治維新後に官弊大社の列せられ、大正15年までかかった境内整備で、ご本殿を(伊勢)神宮風に並列南面して建て替えられ、記紀神話に関係ない庶民信仰によって後年付け加えられたと思われる戎や稲荷等の末社は整理された」そうである。なんという文化破壊であろうか…。しかし、「社殿は外から見ると南面してますが、中のご神体は密かに東向いています」という宮司の解説を聞いて、救われたような気がした。

 日本の宗教史上、2度の大きな変革期があるとすれば、それは巷間言われるような「鎌倉新仏教の成立」と「幕末維新期の世直し系教派神道」あるいは「第二次大戦後の新宗教ブーム」のいずれでもない。もっと大規模に、徹底的に国家権力によって強制的にもたらされた2度の宗教改革(文化大革命)期があった。1度目は、天武・持統朝による「律令国家体制確立と記紀の編纂」である。この革命は、ほんの数十年前まで行われていた大陸への朝貢の歴史を抹消し、そのくせ、儀式・服装・官制等をすべて中国風に改め、それまでの土着の自然宗教(原神道)に儒教・道教・仏教等の舶来の宗教の衣を着せて「神道」という<宗教>を創り出した(伊勢神宮もこの時、建造された)。その証拠に、それまで日本各地で広く行われていた古墳などでの伝統神事がまったく失われてしまった。もちろん、形成されつつあった「大和国家」を、大陸や半島などの先進諸国と互してゆくための必要悪であったのであるが…。

 そして、2度目の宗教改革は、明治維新期の「近代集権国家体制の確立と国家神道の創設」であった。それまで、700年間にわたってこの国の常識であった公武の二重支配と地方分権体制を葬り去り、儀式・服装・官制等をすべて欧米風に改め、廃仏毀釈や庶民の間に急速に拡大しつつあった天理教をはじめとするいわゆる「世直し系新宗教」を弾圧し、埃を被っていた記紀神話を持ち出してきて、「国家神道(命名は戦後のGHQによる)」という欧州のキリスト教国教会制度を真似たような装置を創り出した。しかも、この<宗教>は、それまで1200年続いてきた「神社神道」の歴史すら破壊したのである。

 国家神道と神社神道は、外見上の服装や儀式がほとんど同じように見えるために、混同されがちであるが、全く性質を異にするものである。もちろん、律令国家の成立期と同様、欧米列強による東アジア植民地化に互して行くための必要悪であったので、しょうがないことではあったが、問題は、神社関係者の中に、戦後55年を経過してなお、この明治期に人工的に創出された<宗教>を、わが国古来の伝統宗教(神道)だと思っている人たちが多すぎることにある。明治維新までは、各地の神社で、それぞれに違った服装・儀式あるいは社殿があったのが、一色に塗り固められてしまった。これは、生態学でいうところの「多様性の喪失」であり、滅亡への第一歩である。南方熊楠が南紀において、国や県が推進した「一町村一社政策(村社・郷社の統廃合)」に反対運動を起こしたのは、博物学者としての見識である。


▼「紀伊の国」和歌山

 日前國懸神宮は、明治期に大きく改造されたとはいえ、古代の雰囲気の残る神社ある。「東向きのご祭神」の話は、前作『ヤポネシア:日本人はどこから来た』で論じた「古代(天武・持統朝以前)の日本は東西(水平)軸」という説の物証を見つけたような気がして嬉しかった。森厳な雰囲気の境内を歩きながら、あることに気がついた。先程から、お話を伺っている宮司の名前が紀俊武師ではないか…。この紀氏って、「ひょっとすると紀州の紀ですよね」と宮司に尋ねると、笑われて「國造(こくぞう)家の紀()です」と答えられた。和歌山県のことを紀州というのは誰でも知っているが、この紀州という地名は、紀氏の本拠地だったからである。國造(くにのみやつこ)とは、大和政権の地方官(大化改新以後は郡司)であるが、ほとんどは、はるか以前からその地を治めていた豪族が就いた。

 カムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇)が九州から本拠地を大和盆地に遷す際に、河内国から直行せずに紀伊国を迂回したことになっているが、ということは、初代神武天皇が紀伊国に来るよりも以前から、この地に住んでいたということになる。もちろん、記紀神話は、天武・持統朝に有利なように、各地の諸豪族を肇国(ちょうこく=くにのはじめ)の昔に遡って、天皇中心に秩序立てられ(柵封する)ているので、「神武天皇が紀氏の先祖である天道根命を紀伊國造となし、第11代垂仁天皇の世に、同国名草郡の地に(天照大神と同体の)日前國懸神宮を鎮座し、紀氏歴代神職として奉仕し…」ということになっているが、史実はその逆(紀氏の神話を天皇家側が取り込んだの)であろう。その意味でも、「紀州は紀()の国」である。以来、連綿と続いて、今日の紀俊武宮司に至っている。



紀俊武宮司とご令息紀俊崇権禰宜と共に

 それでは、この「紀」氏の先祖は、いったいどこから来たのであろうか? 『紀伊の国古代史街道』によると、一番大胆な意見では、三千数百年前に、大陸で殷(いん)王朝を立てた「箕()氏こそ紀氏の先祖だ」という。そこまで極端でなくとも、同様の説は、紀元前1050年に、「周王朝の初代武王が(朝鮮)半島に殷族の箕子を封じた」というのがある。また、紀元前770年に、「夏王朝の姫()氏の末裔太伯が呉を起こす」というのもある。紀元前473に、越が呉を滅ぼし多数の呉人が渡来(来日)。紀元前333には、越が滅び多数の越人が渡来したという。天皇家の姓は、祖神が天照大神なので「姫」氏であるという説もある。西暦304年「五胡十六国の乱」の年に、(後の日前國懸神宮の鎮座地である)秋月1号墳が築かれた。また、391年、高句麗の広開土王碑が建てられた年に紀角宿彌が朝鮮半島に攻め込み、5世紀末には、紀小弓とその子紀生磐宿彌が新羅を攻めたという記録もあるそうだ。ともかく、紀氏は大陸(半島)と関係がありそうだ。わが国での千数百年の歴史の前に、さらに千数百年の前史があるとは…。なんというロマンチックな伝説だろうか。


▼ダイナミックな日本列島形成神話

 日前國懸神宮を辞した私は、三宅家奥城へ参拝した後、紀伊半島の最西端(淡路島の対岸)加太岬を訪問した。この地は、私の曾祖父三宅房之助が晩年を過ごしたところらしい。加太より北側の海は大阪湾(内海)であり、南側の海は太平洋(外海)である。数キロ先には友ヶ島(地ノ島と沖ノ島の2)、さらにその数キロ先には淡路島(この海峡を紀淡海峡という)が見える。さらにその先は、四国(徳島県)である。日本列島を東西に分かつ糸魚川(新潟県)から天竜川(静岡県)に及ぶ「フォッサマグナ(中央構造線)」は、遠州灘に出る直前に西へ急カーブする。ランドサットの衛星写真を見れば一目瞭然であるが、この中央構造線は、渥美半島から伊勢湾を渡り、紀伊半島を横断し、紀伊水道(紀淡海峡・鳴門海峡)を渡り、四国を東西に貫く四国山脈となり、豊後水道を渡って大分県から九州山地へ続いている。まさに、地質学的にも、日本列島が形成されるダイナミックなプロセスの証拠である。

 その紀淡海峡に面した加太に淡島(あわしま)神社は鎮座している。「淡島」とは、いうまでもなく、『古事記』に出てくるカミの名前である。イザナギ・イザナミが結婚の儀式(SEX)を行った後、最初に生まれた子供が生後3年を経ても育たなかった蛭子(ヒルコ)であり、その次が淡島であった。実の親からも生まれて来たことを祝福されなかったこれらのカミ(「これらは子の数に入れない」と記述される)は葦船に乗せられて海へ流された。そういえば、預言者モーゼも生後直ぐに葦船に乗せられてナイル川へ流され、ファラオの妃に拾われエジプトの王子として育てられた。将来、大物になるかもしれない。

 これで、流されっぱなしであれば、単なる「ひどい話」であるが、「捨てる神あれば拾う神あり」の俚諺のとおり、これらのカミは、流れ着いた先では霊力を持った「稀人(まれびと)」として歓待され、神として祀られることになる。摂津国西宮浜に流れ着いた蛭子は、戎(恵比須)神として西宮神社(全国の「えべっさん」の総本宮)のご祭神となり、友ヶ島に流れ着いた淡島は、女性の下の病に霊験あらたかな淡島神社のご祭神(後に、対岸の加太に遷座)となった。その後、結婚の儀式(SEX)をやり直したイザナギ・イザナミは、次々と神々=日本列島の島々を生み出した。いわゆる「国生み」神話である。今日の大阪湾・瀬戸内海の島々(大和朝廷の支配地域)が中心である。日本列島の雅称を「大八州(おおやしま)」と呼ぶが、まさにこの国は島々から成り立っているのである。



社殿の内外は「供養」を待つ人形で埋め尽くされいた

 淡島神社は、いつの頃からか「雛流し」供養が行われるようになった。女性の下の病の神様に多くの参拝者が全国から訪れ、また、紀淡海峡という恰好の漁場という立地もあり、漁師町で遊女も多く、いずれも「女性絡み」からの連想か、人形がたくさん奉納されるようになった。日本人は、元来が「針供養」まで行うアニミズムの民族性を有しているため、特に、人の形をした(それ故、持ち主の感情が移入された)人形を、「不要になったから」といってゴミとして捨てるのは気が引ける。そこで、全国から大量の人形が寄せられるようになった。毎年「三月三日」の雛祭りの日には、供養(仏教用語であるが違和感はない)を済ませた雛人形を小舟に乗せて、海へ流す祭事が催される。私が淡島神社を訪れた時は、まだ、今年の「雛流し」神事から数十日しか経過していないのに、社殿の縁側や床下等は、立錐の余地もないほど、供養を待つ人形たちで埋め尽くされていた。しかも、律儀なことに、雛人形は雛人形で、招き猫は招き猫で…。という具合に、人形の種類別に分類されていた。これらをよく見ると、皆、同じ顔(デザイン)であり、大量生産大量消費の現代社会の悪弊がこういうところにも現出しており、そちらのほうが気にかかった。


▼南海道とは何か?

 淡島神社の社殿も、紀淡海峡に面しているため、当然のことながら西を向いている。淡島の神様は、思いを自分が巡ってきたを海(島々)へ向けておられるのであろう。太陽の神を祀る日前國懸神宮といい、淡島神社といい、紀伊国和歌山には、私の「古代日本=縄文人ポリネシア起源説」を裏付ける証拠が目白押しだ。読者の皆さんは、律令国家成立以来、明治維新の廃藩置県に至るまで、日本の地方区分であった六十余州と七街道をご存知であろうか? 王城の地である五畿内(摂津国・河内国・和泉国・大和国・山城国=現在の大阪府(と兵庫県の東部)・奈良県・京都府の南部)と、そこから発する街道別に、東海道(伊賀国=三重県から常陸国=茨城県まで)・東山道(近江国=滋賀県から陸奥国=青森県まで)・北陸道(若狭国=福井県から越後国=新潟県)・山陰道(丹波国=京都府の西部から石見国=島根県まで)・山陽道(播磨国=兵庫県の西部から長門国=山口県まで)・南海道(紀伊国=和歌山県から伊予国=愛媛県まで)・西海道(筑前国=福岡県東部から薩摩国=鹿児島県西部)の七道と壱岐・対馬・隠岐・佐渡等の日本海に浮かぶ島々から成り立っていた。もちろん、朝廷の支配の及んでいなかった現在の北海道(名前だけは古代律令体制風)は数に入っていなかった。また、五畿内に直接接していない西海道(現在の九州)には、朝廷の出先機関として大宰府が置かれていた。

 これらの七街道(地域)の中でも、特に興味深いのが「南海道」である。東海道や山陽道は今でも、新幹線や高速道路にも名前が付いているほどの「国土軸」あるいは大都市が連なっているメガロポリスである。山陰道や北陸道でも、天気予報の時には、その地方として括(くく)られている。西海道は名前を九州と変えたが、やはり一括りの地域概念である。その点、ユニークなのは、滋賀県から青森県までという広大な地域を一括りにしている「東山道」と、今回、話題にする「南海道」である。朝廷が、先住民である蝦夷(えみし)を追い払っていった歴史である(「征夷大将軍」の呼称の由来)東山道については、また別の機会に譲るが、今回は、紀州の所属する南海道の独自性について、さらに考察を進めたい。

 南海道が何よりもユニークなのは、本州の一部である紀伊国(和歌山県と三重県の西部)と淡路島(現在は兵庫県の一部)と四国4(阿波国・讃岐国・土佐国・伊予国)6カ国より成っているところである。淡路島など、現在は兵庫県の付属物扱いであるが、明治までは淡路国として一国をなしていた。現在「淡路花博」などという官制のつまらん集客イベントを行っているが、『古事記』の創世神話によると、大八洲の中で最初にできた重要な地であるはずである。伊弉諾(いざなぎ)神社もあれば、「オノコロ愛ランド」などというテーマパークもあるくらいだ。六千数百名の犠牲者を出した1995年の阪神淡路大震災の震源地は、この島の北端にある北淡町(野島断層が有名)である。あの地震は、堕落する社会を憂い、日本再生を願って、イザナギ・イザナミが三度目の結婚の儀式(SEX)の際の振動かも知れない。いずれにしても、「淡路」とは、文字通り「阿波国への路」という意味であり、淡島の故地であろう。

 黒潮の洗う四国と紀伊半島、それに渦潮の逆巻く鳴門海峡をはじめ潮流の激しい(小舟では通行が危険)明石海峡と紀淡海峡。いずれも古代の海上交通の要所であった。紀州人や土佐人の豪放磊落な反骨精神。阿波国に縁のある越智(おち)氏など、古代のベトナム()人との繋がりがあるのであろう。黒潮に乗ってポリネシアや東南アジアの国々からやってきた(あるいは出ていった)古代の人々(縄文人?)の血を受け継いでいるのかもしれない。その意味で、まさに「南海道は太陽と海の道」なのである。


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