レルネット主幹 三宅善信 ▼怨霊の利用法 またまた政治家の放言である。しかも今回は、こともあろうに総理大臣の失言である。いかに巷間「蜃気楼(森嘉朗)総理」と言われているからとは言え…。「綸言(りんげん)汗の如し」である。自公政権の影の実力者たちは、「せっかく国民の間に小渕同情ムードが盛り上がった(総選挙に勝てそうな)のに、あの○○がぶち壊しやがって!」と言ったとか言わなかったとか…。この国では、政治的な決定(学校でも会社でも同様だ)をするときに、論理的なディベートよりも何よりも、言霊が幸はう(優先する)国だというのに…。 中でも、最も強力なパワーを秘めた言霊は、非業の死を遂げた政治家(大国主命、聖徳太子、菅原道真、平将門、後醍醐天皇、西郷隆盛等)たちについて語るときの言霊(怨霊)であることはいうまでもない。この国の素晴らしい歴史的建造物のいくつかは鎮魂の目的で造られた程だ。しかも、これらの人(=後に神として祀られる)を誅殺することに加担しておきながら、次の時代の政権を担った人物たちは、これらの犠牲者(政争の敗者)を手篤く「祀る」ことによって「残党」からのテロ攻撃を巧みにかわし、自らの政権基盤を確保してきたのである。その意味では、沖縄サミットに執念を抱いていた故小渕「前」総理の「無念の死」は、政権与党にとって絶好の言霊だったはずである。野中広務自民党幹事長など、鳩山由紀夫民主党代表に対して「国会での(あなたの小渕総理に対する)質問があまりに執拗だったので、(そのことを小渕総理は)気に病んで、脳梗塞に倒れた」などという、議会制民主主義の根本(野党が与党をこき下ろすのは当然)も分からない言いがかりをつけてまで、「怨霊」を味方につけようとしたくらいである。 総理大臣の失言とは、もちろん、例の「神の国」発言のことである。5月15日の夜、小渕「前」総理のお通夜(密葬)の帰り、森総理は、都内のホテルで開催された神道政治連盟国会議員懇談会結成30周年パーティに顔を出した。この祝儀・不祝儀の混同ひとつをもってしても、森総理が、死の穢れを最も嫌う「神道」という宗教についてよく理解されていないことが明白であるが…。まぁ、常にポケットに白ネクタイと黒ネクタイを忍ばせている(選挙区内であれば「知らない人」の葬儀にも平気で顔を出す)のが政治家という人種の感性であるからいたしかたないことかもしれないが…。 ▼神道政治連盟とは何か 神道政治連盟という団体は、全国の神社の大半が所属する宗教法人「神社本庁」の外郭団体のひとつである。そもそも「神道政治連盟」という聞き慣れない団体について、ご存知ではない一般読者のために、自身が神政連の会員であるという私の友人に、どのような目的で結成され、これまでどのような活動をしてきた団体なのかを尋ねてみたので、その典型的な性格を以下に記す。なぜなら、今回の森発言は、その神道政治連盟の国会議員懇談会の過去の活動を回想する場面で生じたからだ。 神道政治連盟は、国政の基礎に、神道から生ずる道義国家の理念を置くことを基本目的として、約40年前に結成された。過去の主な運動は、紀元節復活(建国記念の日として実現)。剣璽ご動座(天皇が移動する時に三種の神器のレプリカを常に持参すること)。元号法制化(実現)。靖国神社国家護持ならびに公式参拝実現運動(当初は国家護持だったが、それは靖国から神道色を除くことになると判ってからは、総理大臣等公職者の公式参拝実現に取り組むように変化)。忠魂碑訴訟や地鎮祭訴訟等の政教分離訴訟への勝訴対策(最高裁判決で完敗)。(昭和)天皇在位五十年奉祝、同六十年奉祝行事の実施。(天皇の代替わりに行われる)大嘗祭の国家行事化。教育正常化(日教組撲滅運動)。教育勅語の復活。歴史教科書是正運動(大東亜戦争が植民地解放の聖戦であること。南京大虐殺や従軍慰安婦は当時の敵国のでっち上げであること。日本の国は世界に類のない万世一系の天皇を戴く神国であること等を記載した国定教科書を使用するように求める)。夫婦別姓反対。国旗国歌法制化(実現)。そして、憲法の改正(天皇を中心に戴く大日本帝国憲法に近い憲法を目指す)などである。 これらをみれば一目瞭然、戦前の国家神道時代の復活を夢想してきたのであるが、そこには、戦後の日本が左翼思想にシフトしすぎたので、奇妙に高度経済成長後の新保守主義と連動し、今では「日本会議」という保守勢力の中核となっている。神政連の学者たちがつくり出す情報が、多くの場合、保守系の国会議員の失言・放言等の原因となっていると考えられる。長年、神政連国会議員懇談会の会員であった森総理も、そこら辺のところを聞きかじって、「天皇は神主の中の大神主。日本は神仏があまねく存在する国であり、その中心が天皇である」という神社界の考え方に影響され、件の発言になったものと思われる。なお、神政連国会議員懇談会の世話役は、自身が富山県のとある八幡宮の宮司でもある「旧」小渕派会長の綿貫民輔氏(総選挙後は、衆議院議長に就任するとの下馬評あり)である。 ▼政治と宗教の関わり方 もちろん私は、ある宗教団体が、その信条に応じて政治活動をすることを否定するものではない。いや、むしろ、宗教の一面として「世直し(社会変革)」を目指す要素がある以上、積極的に政治活動をすべきであるとすら思っている。その意味でも、創価学会が公明党を作って政治参加していることを評価すらしている。曹洞宗・真言宗・浄土宗・東西本願寺や天理教、立正佼成会などの巨大教団も自ら(あるいは連合して)政党を作ったらいいと思っている。たとえ「法の華三法行」であったとしても、政党を作る(立候補する)ことも自由だし(選挙資金はタップリあるはずだ)、あるいは既存の政治家を推薦することも可能である。その人物が当選するかしないかは、選挙民の良識にかかっているだけだ…。 宗教的「真理」は、たとえ百人の内、九十九人が反対しても、その人が真実だと思えば、その人にとってはそれが「真理」になるが、政治的「真理」は、百人の内、五十一人が賛成すれば、たとえそれがまったくの事実誤認であったとしても、それが真実となる。明らかに「質」の問題ではなくて「数」の問題である。すなわち、物事を「質」に還元するか「量」に還元するかという方法論の違いがある。したがって、個々人の「質(悟りの境地等)」よりも教団全体としての信者の「量」に重きを置く宗教のほうが政治にはコミットしやすいことは言うまでもない。 私は、宗教団体が積極的に政治にコミットすることには賛成する(私自身、今回の総選挙で、既に8人の立候補予定者に推薦状を書いた)が、逆に、政治(公権力)が宗教にコミットすることには反対である。特に、公権力の行使を伴う政権与党側のコミットは厳禁である。近代民主主義諸国家の基本理念であり、日本国憲法の定める「信教の自由」に大いに抵触するからである。「政教分離(Separation of Church and State)」とは、「公権力が特定の教団を擁護したり、逆に、抑圧したりしてはいけない」ということである。その意味で、今回の森総理の「…天皇を中心とする神の国であり、そのことを国民の皆さんに承知していただく…」という発言の後半部分については、大いに問題がある。森氏自身が天皇陛下についてどう思おうと、また、「神」についてどう思おうと森氏の自由である。しかし、内閣総理大臣という公権力の最高の地位にいる者が、「そのことを国民の皆さんに承知していただく」とは、明らかに越権行為である。 ▼誰に「承知していただく」つもりなのか? 問題発言があってからは、森総理本人だけでなく、自民党の亀井静香政調会長などが、「(あの文脈でいう)神とは、特定の宗教(神社本庁)を指したものではなくて、日本的伝統に則った神仏や山川草木を含めた広い意味での神である」と釈明し、森総理自身も本日の記者会見で「…『神の国』という表現は、特定の宗教について述べたものではございません。わが国には、昔から、その土地土地の山や川や海などの自然の中に、人間を超えるものを見るという考え方があったことを申し上げたものであります。日本には、食べ物などの自然の恵みに感謝をしたり、自然に対する畏敬の念を抱いたりといった生活文化があると思います。私は、このことを申し上げたかったのであります。決して、天皇を神と結びつけようという、そういう趣旨で発言したものではありません…」と釈明したが、それでも、なお不十分である。 この天地自然をカミ自身、あるいはカミの働きと見る「神観」については、アニミズム論者の私のそれと大きく違わない。たぶん、大多数の日本人もそれに近いであろう。しかし、国民の中には、少数ではあるが、唯一絶対神を仰ぐキリスト教徒やイスラム教徒もいるし、唯物論者や無神論者もかなりいるであろう。彼らにまで、総理大臣が「承知していただく」とは言えない(言ってはいけない)のである。
私は、「神の国」発言が大きく報道された翌17日に、ロシア正教会総主教アレクセイ2世の歓迎レセプションの席上、鳩山民主党代表と話をする機会があった。(仏教やキリスト教関係者ならいざ知らず)私が教派神道の流れに身を置いていることを承知の鳩山氏は、初めのうちは(「神の国」発言批判を)遠慮していたが、「神道・仏教・新宗教を問わず、今回の森発言には、真面目な宗教家の大半は迷惑している。ご外遊を目前に天皇陛下も困惑されているでしょう。終盤国会(の争点としてしっかり)頑張って下さい」という私の言葉を聞いて鳩山氏は、「宗教界の皆さんも、やはりそう思われていますか」と答え、翌18日の国会内での森総理(野中幹事長が陪席)との「立ったまま会見(羽田孜幹事長が同行)」へと繋がったと見ている。 ▼雄弁は銀、沈黙は金? 一方、亀井氏などは、「無神論者や共産主義者などは人でなし」のごとく言い切っている。森総理は、国会での答弁で「(発言の)真意が伝わらなかった」と言い、野中氏などは、総理の釈明会見を受けて、「…これ以上、いつまでも(神の国という)『言葉』に関わっておらずに、(不況対策など現実の)政治課題に…」などと、平気で記者に答えていた。呆れた話である。政治家の仕事など十の内、九までが口(言葉での説明と討論)ではないか! 自分の心の中で思っていることを(みんなの解る)言葉として表現できない政治家なんて、そもそも政治家としての適性を欠いているとしか言いようがない。
もっとも、早稲田大学「雄弁会」出身の政治家で「雄弁」だった人物は誰もいなかった。歴代の総理大臣経験者でも、極めて有能ではあるが「何を言っているのか解らない」人や、「ペラペラしゃべるが中味がない」人ばかりであった。もっとも、プロレスラーや相撲取りでも国会議員になれる国だから…。この国の国会議員は体力勝負なのかもしれない。強行採決やピケの時には頼りになるし、GWの9日間に7カ国の首脳と「個人的信頼関係」を築いて廻ってきたラグビー部出身の総理大臣もいるくらいだから…。 もちろん、わがレルネットは、与野党どちらの勢力の味方でもない。私個人の推薦状も、あくまで「人物本位」で5つの政党の候補者に分かれている。しかし、良きにつけ悪しきにつけ、「宗教」に関する話題が、国政の表舞台やメディアを賑わせてくれればくれるほど、レルネットのサイトに立ち寄ってくださる人が増えるから、それだけでもありがたい。「神の国」と聞いて、真っ先に頭に浮かんだのは、5世紀前半に相次いで大作を著したローマ帝国随一の神学者聖アウグスチヌスの『神国論(The City of God)』である。この大著は、教会と国家の関係について厳密に考証されており、一連の著作『告白』、『三位一体論』と並んで、ローマ帝国がキリスト教化した時代の古代ラテン神学の金字塔である。わが国の政治家やメディア関係者も、せめてこの1,500年前の賢人の如く、宗教と国家の関わり合いについて本気に考えてもらいたいものだと思う。聖アウグスチヌス曰く「不合理なるが故に、われ信ず」と…。今回の「神の国」騒動など、まさに「森(総理の失言)を見て、木(問題の基本的な構成要素)を見ず」のお粗末である。 |