この国のかたち
       00年 06月12日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼日本国憲法の中心テーマは天皇制

  森総理の「神の国」発言以来、「国体」論争が政治のテーマのひとつとして取り沙汰されているが、私から言わせていただけば、与党・野党の政治家あるいはマスコミ・評論家に至るまで、ほとんどこの問題の本質(この国の「かたち」について)を理解していないように思われる。なぜなら、この森発言を批判するほうも擁護するほうも、その無条件の前提として「明治維新以来、太平洋戦争の敗戦まで七十数年間続いた天皇中心の国家体制(国体)」に戻ろうとする企みに対する批判であったり、擁護であったりであるからである。両者とも、「この国のかたち(国体)」に対する根本的な理解ができていない。

  1945(昭和20)年、大日本帝国の無条件降服が前提である『ポツダム宣言』の受諾に際して、当時の日本政府が唯一「条件付け」を行ったのが、「国体護持」の一点であった。この文脈でいうところの「国体護持」とは、万世一系の統治システムの維持などといった抽象論ではなく、他でもない「玉体保全(昭和天皇の身の安全の保証)」のことである。日本を占領した連合国軍も、効率的な日本統治を行うために最も有効な方法は、天皇を人質(実質的に自分たちの管理下に)して、日本人をGHQの命令に逆らえないようにすることであることに気付き、それを実行した。その後、帝国議会において行われた憲法改正作業の中心的課題が「国体護持(天皇を中心とした国家体制の維持)」であったことは言うまでもない。これら、GHQならびに日本政府の奇妙な関心の一致が、日本国憲法制定の骨子になっている。

  中学生の頃、公民(嫌なネーミングだ)の授業で、「日本国憲法の3大要点」として、「国民主権」・「平和主義」・「基本的人権の尊重」という風に習ったが、こんなものインチキである。日本国憲法の本文99カ条、補足4カ条の合計103カ条の内、第1条から8条までが「天皇」に関する要項であり、戦争放棄を謳った要項は第9条だけ、国民の権利と義務についての条文が第10条から40条まで。第41条以後が、国会・内閣・司法・財政・地方自治・憲法改正手続きへと続いている。昨春、拙論『談合3兄弟:憲法十七条の謎』で論証したように、誰が憲法を作っても、最も関心の深いことを第1条に持ってくるのが自然(『十七条の憲法』の場合、談合・仏教・天皇の順)であるから、誰の目にも「天皇」が究極的関心事であることは明白である。

  聖徳太子の古(いにしえ)から現代に至るまで、この国においては、「確立した個々人が普遍的原理を奉じて責任を負いつつ契約社会を形成する」ということが一度たりとも行われたことがない。どだい、このことが大前提である民主主義など、この国の風土で育つはずはないのである。良い意味でも、悪い意味でも、この国特有の「無責任体制」を創り出している大本は天皇制なのである。逆を言うと、天皇制はこの国の歴史上、最大の発明と言える。


▼徳川慶喜の素晴らしい歴史認識

  さて、先の大戦の敗戦によって、その天皇制が存亡の危機に曝されたとき、貞明皇太后が「江戸時代以前にもどるだけだ。心配するな」と語ったというエピソードはあまり知られていないが、よく「この国のかたち」について理解されている言葉である。希有な才能を有しながら、国力を消耗する内戦によってこの国が欧米列強の食い物にされることを避けるため、自らの名誉を放棄し、明治維新という何のレジティマシー(正統性)もないクーデターによって政権を追われることに甘んじた徳川慶喜は「この国のかたち」について、実に適切な歴史観を有している。以下、少し長いが、1867(慶應3)年10月14日に朝廷に提出された有名な『大政奉還の上表文』を引用する。いわゆる『王政復古の大号令』よりも、はるかに格調が高い。よく味わって読んでいただきたい。

「臣慶喜、謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二、昔シ王網紐ヲ解テ、相家権ヲ執テ、保平之乱、政権武門二移テヨリ祖宗二至リ、更二寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト難モ、政刑当ヲ失フコト不少、今日ノ形成二至候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候。況ヤ当今外国ノ交際日二盛ナルニヨリ、愈朝権一途二出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷二奉帰、広ク天下ノ公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共二皇国ヲ保護仕候ハ、必ス海外万国ト可並立候。臣慶喜、国家二尽ス所、是二不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸候へ相達置候。依之此段謹テ奏聞仕候。以上。詢。 十月十四日  慶喜」

  この上表文において、徳川慶喜は「この国の歴史を振り返ってみると、王権のほうが勝手に乱れたので、大臣家(藤原氏)が権力を執った(相家権ヲ執テ)。その後、保元・平治の乱以後は、政権が武家に移った。家康以後は、徳川家が代々大政をお預かりすることになったけれども、自分の代に至って国際交流が盛んになって(海外列強の圧力が増して)きたので、これに対抗できる挙国一致政権を作るため、政権を返上します」と述べている。一国の指導者として、素晴らしい歴史認識であり、また、確かな国際感覚である。森首相も、せめてこれくらいの歴史認識と国際感覚を持って貰いたいものである。国内法よりも国際条約のほうが優先順位が高いことを慶喜は認識していた。この慶喜の大政奉還の上表に対し、朝廷は「確かに受けとった」と返事をしたのである。


▼正統性に欠ける薩長野合の明治政府

  しかし、不思議なことに、慶喜が大政奉還をしたにもかかわらず、朝廷は「大事なことは諸大名の会議で決めるが日常的なことはこれまで通りにせよ」と言った。慶喜は日常業務を8カ条にわたって列挙して「すべてこれまでの通りでいいのですか?」と尋ねたら、朝廷は「その通りだ」と答えている。当然のことである。朝廷には、日本国を統治するための実行能力は何もないからである。では、非日常的な問題の方はどうするのか? 対外的には誰が日本を代表するのか? 朝廷では「外交・内政共に平常の業務はこれまで通り(関東=幕府が執行しなさい)」という返事と同時に、慶喜の出した征夷将軍職の辞表を却下し「将軍職についてもこれまで通り」と言った。こうして、大政奉還後も政権は慶喜の手元に保持されていたのである。徳川家と朝廷の関係は最後の最後まで悪くなかったのである。

  慶喜に大政奉還されて計算の狂った(倒幕の名目を失った)薩長の武力討幕派は作戦を立て直した。兵力を京に入れ「王政復古クーデター(同年12月9日)」を起こし、勝手に天皇の名前で「幕府の廃止・摂政関白の廃止を宣言し、天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を置く」と発表したのである。慶喜はこの日から天皇に任命された征夷大将軍ではなくなった。クーデター側はさらに慶喜の領地没収も決めた。翌年1月に行われた「鳥羽伏見の戦い」に破れた幕府軍の最高指揮官に仕立てられた慶喜は、「天皇の新政府」に戦いを挑んで敗北したことになった。薩摩が一挙にそれだけの政治工作をしてしまったのである。具体的な「天皇の新政府」などありはしなかったのだが、徳川方が敗れた瞬間に突然姿を現した。「慶喜は天皇の政府を攻めた(賊軍である)」という解釈に誰も反対できなかったのである。

  その結果生じた薩長野合政権(明治政府)の胡散臭さは、当の本人たちも大いに自覚していたであろう。そのことの裏返しが、自分たちの担いだ天皇(徳川慶喜に信頼を置いていた「孝明天皇を毒殺し、幼君=明治天皇をでっち上げた」という説すらある)の神格化(疑念や批判を封じるため)であり、欧州各国の国教会制度(国王を国民教会の首長にする)をモデルにして創設した国家神道(本来の神社神道とは何の連続性もない)システムである。「王政復古」と言いながら、本当に歴史的伝統に根ざしたものなどほとんどなく、ほとんどは後世の創作である。「天皇親政」なんぞ、この国の長い歴史の中で、壬申の乱の後(天武天皇)と建武中興の直後(後醍醐天皇)の数年間しかないと言っても過言ではない。天皇親政の理想的時代と言われる醍醐・村上両帝の時代も、一方では、藤原氏の摂関就任体制が確立した時代でもあった。


▼代務者が政権を壟断することこそこの国の伝統

  これらのほんの僅かな例外を除いて、徳川慶喜が分析したように、この国では、ずーっと摂関家(公家)や将軍家(武家)が、政治大権を握ってきたのである。明治政府のあり方(帝王が実権を握る)は、単なる欧米列強の真似であり、本来の「この国のかたち」とは相容れないものであった。明治維新以来、太平洋戦争の敗戦まで七十数年間続いた天皇中心の国家体制をして「この国のあるべきかたち」というのは、1917年のボルシェビキ革命から1990年のソビエト連邦崩壊までの七十年間の共産主義政権の歴史だけをもって千年以上におよぶロシアの歴史を代表させるようなもので、まったく当を得ていない。したがって、森総理が理想としている「神の国」・「国体」・「教育勅語」など、皆、この国の歴史にしっかりと根ざしたものとは言い難い。こうしてみると、『武家諸法度』と並んで江戸幕府の基本法とも言える『禁中並公家諸法度』(共に、1615年制定)の表現が実によくできている。

一、 天子御学芸の事、第一御学問也。
一、 摂家為(た)りと雖(いえど)も、その器用無き者は三公摂関に任ぜらるべからず。況(いわん)やその外をや。
一、 改元は漢朝の年号の内、吉例を以て相定むべし。
一、 諸家昇進の次第は、その家家旧例を守り申上ぐべし。
一、 紫衣の寺は、住持職先規希有の事也。近年猥(みだり)に勅許の事、…甚だ然るべからず。

  すなわち、「天子様はご学芸(arts and sciences)をなさっていればいい(政治に口を出すな)」と…。現在の天皇制でも、新年の「歌会始」や「御講始(当代一流の学者から講義をお受けになられる)」などまさに、「天子御学芸の事、第一御学問也」である。千数百年の歴史を持つ和歌や雅楽といった伝統が、奇跡的に今日まで続いているのは、ある意味で、ご学芸を第一にされた天皇制のおかげである。この項目は、『武家諸法度』の第1条「文武弓馬の道、専ら相嗜(あいたしな)むべきこと」と見事に対をなしている。その他、「大名は参勤交代しなければならない」とか、「勝手に築城してはいけない」とか、「大名諸家同士勝手に婚を通じてはいけない」等の項目も、公家と武家でだいたい相応している。

  9世紀の中頃に確立した藤原氏による摂関政治が約350年間、12世紀末から19 世紀中頃までの武家政治が約750年間、併せて約1,100年間に及ばんとする「代務者政治」、すなわち、当代実力ナンバーワンの権力者に勝手に政権を壟断(ろうだん)させつつも、一旦、制度疲労が生じるや、これをあっさりと入れ替えてしまう日本型政治システムの伝統というものを、現代人はもっと学ぶ必要がある。天皇制というシステムは、その際(政権交代)に、中国の易姓革命や欧州の社会革命のような多大なエネルギー(大量の流血とインフラ破壊といった犠牲)を必要とせずに、最小限の社会的負担でそれを成し得るための日本人の画期的発明品という意味で、私は「代務者のもとにある天皇制」を支持しているのである。たとえ、そのことが、日本人から「責任を持った個の確立」という社会概念形成を妨げているという弊害を有しているということを知っていたとしても…。


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