レルネット主幹 三宅善信 ▼公安調査庁からのお尋ね ほぼ2カ月のご無沙汰である。「主幹の主観」ファンの皆様には、たいへんご心配をおかけした。私があまりに公然と政権党の執行部を批判するので「消さ(圧力をかけら)れた」と思ったという人もあったぐらいだ。実のところ、最初の3分の1くらいは、公職選挙法に基づく「総選挙期間中」のため、具体的な政治活動は自粛、しかも、レルネット社のプロバイダー変更に基づく接続不可期間が何日かあったので、ある意味では「消されて」いた。また、後半の3分の2くらいの期間は、昨夏に死去した亡祖父(三宅歳雄)の記念出版(『泉わき出づる』320ページ)の執筆に忙殺されていたが、たった今、軟禁状態にされていた出版社から解放されてレルネットに戻ったところだ。 考えてみれば、小学生の時からいつもそうであったが、「夏休みの宿題はすべて8月31日にまとめてやる」という性格が抜けないらしく。原稿類に着手するのは、いつも締め切りが来てからだ。その間、「主幹の主観」のネタになりそうな事件・出来事が、毎週のように起こったが、ジッと我慢していた。書きたいことは山ほどあれど、復帰第一線は、まず、軽いジャブから…。 5月のある日、公安調査庁から「沖縄サミットに関心を抱いているNGO(非政府組織)をご存じないですか?」と電子メイルが届いた。私が「昨年秋のシアトルでのWTO(世界貿易機構)総会や今春のワシントンDCでの世界銀行総会の際に、問題(暴力的なアピール)を起こしたようなNGOのことですか? ジュビリー2000(途上国の債務帳消しアピール)や環境問題・基地問題等に関心のある団体に関する情報を提供してほしいのですか?」と返信すると、「そのとおりです。早速お伺いに参上します」ということであった。 ▼主権国家・多国籍企業・NGOは国際社会の3要素 私はこれまで70回以上、海外での各種国際会議に参加した経験があるが、特に、国連関係の会議の際には、必ずといっていいほど、大規模なNGOの活動が同時に展開される。1992年の国連環境サミット(リオ・デ・ジャネイロ)や1995年の国連社会開発サミット(コペンハーゲン)のときなど、百カ国以上の首脳が参加したが、NGO関係者の参加は万単位の人数であった。それらの会議で日常的に見られた光景は、各国の政府代表に対してNGOは積極的にロビー活動を行うし、政府側もNGOへの情報提供を怠らなかった。 「国連」の意味を文字通りに解釈すれば、「United Nations」すなわち「諸国家の連合体」ということになる。ここでいう「国家」とは、いうまでもなく近代的な国民国家や主権国家を指している。したがって、本来の国連の構成員(総会における議決権を有する法人格)は、独立した主権国家のはずである。 しかし、世界中のほとんどの国家は民主主義を建前としている関係上、「民意」というものを尊重しなければならない。そこで、NGOが登場することになる。地球規模での情報化時代において、国家や民族や宗教の壁を超えて活動を展開するNGOの中には、人材や予算の面において、アフリカ諸国や太平洋島嶼諸国などを遥かに凌ぐ規模を有するものも少なくない。その意味で、国際社会を形成する国家、多国籍企業に次ぐ第三の構成要素となっている。 しかも、NGO団体の多くは「一点主義」である。ある特定の問題に関心を持つ人たちの地球的規模での集合体である。国家としての総合政策を行う百貨店的な政府に比べて、個別の関心事だけに取り組む専門店的なNGOは、当然のことながら、特定の問題に関しては政府より勝れている。さらに、自分がどの国民になる(どの国に生まれる)かは、通常、自分の意志で選ぶことができないが、どのNGOに所属するかは、あくまで自己決定である。したがって、特定の関心事に対してモチベーションが高くなるのは当然である。極端なことを言えば、「一頭の鯨のいのちを助けるためなら、人命の犠牲なんて問題じゃない」というNGOがあってもおかしくないし、現に、そういう団体がたくさんある。それらの団体に対し各国政府は、論議の中で民意を反映した政策を磨いているのである。 ▼わが国のお寒いNPO法 阪神淡路大震災でのボランティアの活躍以後、民間の非営利団体の活動を促進するために、一昨年春、わが国においても、「特定非営利団体活動促進法(NPO法)」が施行されたが、その実態は、これまで「任意団体」として自由に活動をしてきた諸団体を当局の監督下に置こうとしたことにしか思えない。私も、長年活動を行ってきた慈善団体の「法人としての設立」に関わり、中央官庁の事務次官や官房長といった高級官僚への陳情を手伝ったりもした。そこで、NPO法のいろんな不条理を学んだ。現行法では、NPO法人の情報(役員人事や会計)を一方的に所轄庁(中央官庁か都道府県)に報告させられるのに、補助金の交付どころか、諸外国では当たり前な寄付金の税控除すら受けられない。 この国では、「税金」という形で、一旦、「お上(政府・自治体)」という名の大泥棒が全ての金を巻き上げて、それらの配分の権限を役人(政治家も)が一方的に握って、本来、主権者であるはずの国民は、役人が恣意的に決めた再配分比率に基づいて、それらの「おこぼれ」にあずかるだけ。という構造になっている。政治家には、まだ公職選挙法に基づく「選挙」という定期的な国民による採点評価があるからまだいいものの、役人(公務員)に至っては、いったい、いつ誰が、彼らに公権力を行使する権利を認めたというのだ。 もちろん、彼らは公務員試験に合格して、公務員(国家・地方)として採用されたというであろうが、私はそもそも公務員試験そのものの有効性を疑っている。「科挙制度(公務員試験)」の非日本性については、半年前に上梓した『検査に手心加えます:悪いのは政治家?』で述べた通りである。しかも、一旦、役人に採用されたら、彼らは退官するまでの一度も、主権者である国民から採点を受けることはないのだ。こんなバカな話はない。古代ギリシャでは、2,500年も前から「オストラシズム」といって、オストラコン(陶片)を投票用紙として用い、毎年一定以上の得票(不信任)のあった公人をアテネ(の公職)より10年間追放するという制度が存在していたのに…。 その上、日本のNPO法では、「NPO法人は、政治的活動や宗教的活動を行ってはいけない」などという、訳の分からない制限まである。本来、企業は収益事業(金儲け)を前提としており、政治や宗教(文字通り「まつりごと」)は非営利性が前提のはずであるのに…。もっとも、「斡旋利得」という金儲けに熱心な政治屋も「霊感商法」という金儲けに熱心な宗教屋も数多いることは認めるが…。それにしても、政治家や宗教家の責務は「非営利」ということになっていたのではなかったのか? NGO団体が「世直し」に熱心になればなるほど、その活動は政治的・宗教的にならざるを得ないのではないか…。役所が、宗教はおろか政治まで全く信用していない証拠である。 沖縄サミットでも、「言うことを聞く与党NGO」だけを大事にして、「言うことを聞かない野党NGO」を疎外した日本政府の姿勢が、グローバル化した今日的諸課題の解決にどこまで有効であるか疑わざるを得ない。株主総会で、個人株主からの質問を恐れる経営陣と同じ態度だ。わが国においても、民主主義の成熟のためにも、政府機関とNGOが対等な条件でわたりあえる日が一刻も早く訪れることを望んでいる。 |