中東和平を疎外しているのは… 
       00年 10月31日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼三教の"聖地"であること自体が紛争の種ではない

  パレスチナ地域におけるイスラエル軍とパレスチナ民衆との衝突が混迷を期し、「今世紀起こったことの今世紀中の解決」は、いよいよ難しくなってきた。世間一般に「聖地エルサレムの問題は、宗教と民族の問題が絡んでいるために解決が困難だ」とか「2000年来、この地(パレスチナ)を巡ってユダヤ教とキリスト教、さらにはイスラム教の抗争が続いているので、一朝一夕の解決は不可能だ」とか言われているが、果たして問題の本質はそうなのであろうか? 確かに、"聖地"エルサレムは、世界の主要宗教であるユダヤ・キリスト・イスラム三教の"聖地"であるには違いない。しかし、そんなことを言ったら、エルサレムが三教の"聖地"になってからでも、千数百年の歴史が経過するが、その間、ずーっと、エルサレムが血で血を洗う抗争の地であったことになるが…。 答えは、もちろん「否」である。

  宗教に関心のあるレルネットの読者諸兄に、エルサレムの歴史について、今さら詳細を述べるまでもないであろう。旧約聖書に書かれてある遥か神話的時代に、アブラハムの子孫(ユダヤ人)が住み着いて以来、パレスチナ地方はユダヤ人の"約束の地"となったが、モーセの"出エジプト"の故事に見られるように、ユダヤ人がパレスチナの地にいなかったことも、しばしばある。"歴史"という言い方をすれば、紀元前数世紀頃の「バビロン補囚」によって、ユダヤ人たち(王侯貴族や技術者たち)が大挙して、東方の新興国家カルディア(新バビロニア)に連れ去られたこともあった。実は、この時の歴史状況(奴隷の身のユダヤ人をいつか誰かが救い出してくれて「カナンの地=現在のパレスチナ」に連れ帰ってくれるという希望的観測)を元に、後から創作された話が『出エジプト記』である。ともかく、ユダヤ人たちは、エルサレム(エルサレム自体は、後のダビデ王の時代に都となった)を中心とするパレスチナ地方に定住した。

  その後、ローマ帝国の侵攻に遭い、ユダヤ人は"約束の地"から放縦されてしまう。その放縦は、なんと20世紀に至るまで続き、世界中に散らばらされた(ディアスポラという)ユダヤ人たちは「領土を持たない民」として、各地で「日陰者」の生活を2000年間にわたって続けるはめとなった。この辺の話(ローマ帝国への抵抗)を採り上げたのが、有名な超大作映画『ベン・ハー』の話であり、その時代を生きた宗教家がイエス・キリストであった。超人的な奇跡を起こしたイエスに、民族独立運動の指導者(メシア)像を投影した一部の熱狂的な民族主義者(ゼーロタイ)たちの動きを恐れたローマ帝国(の「代官」であったユダヤ人のヘロデ王)によって、"宗教家"イエスは、"政治犯"として処刑(十字架刑)されたのだった。

  しかし、仮に「戦争がない状態」を"平和"の定義とすると、ローマ帝国による支配は、各地にいわゆる"Pax Romana"(ローマによる平和)をもたらした。その後も、イスラム勢力(ウマイヤ朝やアッバース朝やオスマン帝国)による"聖地"エルサレムの支配が千年以上も続き、途中、西欧キリスト教国からの「十字軍」による「お騒がせ」期間が若干あったが、基本的には、20世紀に至るまで、"聖地"の平和は、ある程度、保たれてきた。すなわち、その間、千数百年間にわたって、エルサレムはずーっと三教の"聖地"であり続けてきたが、そのこと自体は、それほど紛争の種ではなかった。


▼「約束の地」には、既に先住民がいた

  そもそも、有史以来、まったく民族抗争のなかったような地域を探すことのほうが難しいくらい、人類の歴史と共に民族の興亡は繰り広げられてきた。この千数百年間、欧州地域に住んでいる「白人(ゲルマン系)」は、5世紀頃のゲルマン民族の大移動によって、アジアから欧州へ移動してきた。白人(ゲルマン系)は、人類学的には「コーカソロイド」と呼ばれるように、その故地は、旧ソ連邦に属する中央アジアのコーカサス地方、すなわち、現在のアルメニアとかアゼルバイジャンの辺りである。旧約聖書の「神(ヤハウェ)」によって、「約束の地カナン(パレスチナ)」を与えられたアブラハム(紀元前2000年頃?)にしろ、もともとは、メソポタミア地方のユーフラテス川沿いの古代都市ウルの辺りにいた。それが、数々の遍歴のあげく、「約束の地カナン」に辿り着いた(実際には、辿り着いた後からもっともらしい「預言」が創られた)のだが、全能の神が指示した地であるにもかかわらず、あろうことか、そこには既に先住民たちが平和に暮らしていた。

  しかし、なにしろ、人類共通の「普遍的人権」や「民族自決権」などという概念は、想定すらされていない時代のこと、アブラハムは全能の神(ヤハウェ)の力を借りて、先住民たちを悉く滅ぼしてしまう(『創世記』19章)。なにせ、「性道徳の荒廃した多神教の輩の街」という理由だけで、巨大都市ソドムは灰燼に帰されてしまうのだ。自らの信仰の基準から見て、相手が「邪教」だと思えば、相手の民族を皆殺しにすることぐらい平気な神を彼らは戴いているのだ。しかも、その神こそ、現在、世界人類の過半数を占めるユダヤ・キリスト・イスラム三教に共通する「神(ヤハウェ=God=アッラー)」なのだから、考えてみれば恐ろしい話だ。


▼オスマントルコ帝国VS欧米列強

  さて、実際の歴史の話に戻るが、聖地エルサレムを含むパレスチナの地は、ともかく、20世紀になってオスマントルコ帝国が滅亡するまでは、一応の平安が保たれていた。それを、植民地主義的な領土的野心に満ちた英仏独露などの列強が、オスマントルコ帝国を弱体化させるために、その属国であった中近東諸国の族長連中を焚き付け(その代表格がアラビアのサウド家=その辺の経緯は、映画『アラビアのローレンス』に詳しい)、サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国を「独立(実は、欧州列強の傀儡政権化)」させた。オスマントルコ帝国が滅亡した後、この辺りで、由緒正しい王室は、「メッカの太守」として千年続くハーシム家(現在のヨルダンの王室)くらいのもので、あとは皆、せいぜい3代目くらいの成り上がり者である。実は、現在のバルカン半島諸国(旧ユーゴスラビア)の民族紛争の種も、この時、列強がオスマントルコを弱体化させるためにセルビアをはじめ、トルコに隣接するこの地域の諸民族にチャチャを入れたことが遠因となっている。

  いよいよ話は20世紀の話になるが、ドイツと戦争をしていた英米両国は、国内のユダヤ人資本家に対して戦争協力をさせるため(都合のよいことに、ナチ政権はユダヤ人を迫害していた)、「ドイツとの戦争に勝ったら、お前たち(ユダヤ人)の国を創ってやる」と持ちかけることによって彼らの物心両面にわたる全面協力(たとえば、ユダヤ系ドイツ人でアメリカに亡命したアインシュタインは核兵器開発に協力した)を得ることに成功した。また、かつてオスマントルコ帝国を苦しめた中東諸国民族紛争と同様の方法で、当時、ドイツの影響が強かった中東地域で、パレスチナ人たちにも「ドイツとの戦争に勝ったら、お前たち(パレスチナ人)の国を創ってやる」と持ちかけることによって彼らの物心両面にわたる全面協力を得ようとした。ひとことで言えば、無責任な「ダブルブッキング(二重約束)」をした。しかも、2000年間ディアスポラ状態であったユダヤ人たちに、彼らの国(イスラエル)を創ってやることは、欧米社会における"異分子"であるユダヤ人たちを追い払う正当な理由ができるという意味で、一石二鳥の策であった。


▼パレスチナ問題は20世紀の問題

  オスマントルコ領だったパレスチナを第1次世界大戦以後、委任統治していた英国は、1948年に委任統治期限が切れると共にパレスチナの扱いを国連に委譲。東地中海に集結したアメリカ艦隊は、パレスチナ地域に向かって一斉に艦砲射撃をし、現地に住んでいたパレスチナ人たちを追っ払い、現代の"ノアの方舟"とも言える大型輸送船に積んできたユダヤ人たちに「約束の地カナン」を与え、そこに"イスラエル"を建国させた(「建国宣言」そのものは1948年5月)のであった。この時、"聖地"エルサレムは、東西に分割され、西側(新市街)はイスラエル領に、東側(旧市街)はヨルダン領とされた。当然、パレスチナの地に住んでいた人々(主としてアラブ人)たちは、難民となって周辺国(エジプト・ヨルダン・シリア等)へ脱出。周辺国は、これらのパレスチナ人たちを支持して「第1次中東戦争」が勃発した。すなわち、"聖地"エルサレムを巡る紛争の火種は、ここに始まると言ってもよい。聖書の時代からの悠久の歴史とは「切れて」いる問題なのである。

  つまり、20世紀中頃における欧米の二重約束と、実際には、論功行賞としてユダヤ人たちだけに約束を果たしたことに起因しているのである。そこへ、宗教だの民族だのというような盛時以外の問題を持ち出して、話をややこしくしているのは、米英両国が、自分たちの不誠実をあからさまにしないための誤魔化しの論理に過ぎない。もし、特定の地域の不安定の要因が民族や宗教の違いによってだけ形成されるというのなら、他ならぬアメリカ自身"人種の坩堝(るつぼ)"だし、宗教だってほとんど一通り、すべて揃っているではないか…。


▼アメリカはいつも自分勝手

  ここに、国際政治に対するアメリカの自分勝手なダブルスタンダードを現すよい例がある。1948年12月、国連はパレスチナ人の帰還権を認めた決議(194号)を採択したが、1950年4月、イスラエルは、1947年11月の国連決議181号(パレスチナのユダヤ人とアラブ人による分割)に反して、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムを武力で併合した。以後、1956年10月のエジプトによるスエズ運河国有化宣言に端を発する第2次中東戦争。1967年6月の第3次中東戦争では、イスラエルはさらに、エジプト領であったガザ地区とシリア領のゴラン高原の一部を占領。同年11月には、アラブ諸国の反対を押し切って、国連はイスラエルの生存権を認める代わりに占領地からのイスラエル軍の撤退を求める決議242号を採択。その都度、アメリカは、影に日向にイスラエルを支持してきたが、これはおかしいではないか? 第3次中東戦争の結果、イスラエルによって占領された状態(イスラエルは「エルサレムをイスラエルの不可分の首都である」と宣言)を国際社会は承認していないがために、主な国々の駐イスラエル大使館が、エルサレムではなくテルアビブに置かれているのは、各国がエルサレムのイスラエル占領を国際法違反とみなしているためである。



イスラエル軍によって射殺された
パレスチナ人の子供の葬儀
 湾岸戦争の時、国連での「イラク非難決議」を錦の御旗として、米英を中心とする多国籍軍はフセイン政権のイラクを攻撃したのではなかったのか。また、コソボ内戦の時も、国連の「セルビア非難決議」を錦の御旗として、ミロシェビッチ政権のユーゴを空爆したのではないか。この論理からすると、パレスチナ問題に関しても、国連では、度々、「イスラエル撤退決議」や「イスラエル非難決議」が採択されたし、また、昨今のイスラエルとパレスチナ衝突に関しても、同様の決議が採択されているにもかかわらず、アメリカはイスラエルを空爆するどころか、かえってその逆である。「人道に反する行い」をしたフセイン政権やミロシェビッチ政権に"懲罰"を加えるために空爆をしたのなら、いくら投石行為によって、街の治安を乱しているからといって、パレスチナ人に軍用ヘリや装甲車から銃口を向け、少年たちを何十人も射殺した過剰防衛の"非人道"イスラエルをこそ空爆すべきではないのか! もし、アメリカがイスラエルを空爆しないのなら、イラクやユーゴに対する空爆も正当化される由もない。ただ単に、「アメリカの敵」に対しては、体よく国連決議を用いて、自分たちの軍事行為を正当化し、「アメリカの味方」に対しては、国連決議なぞ糞食らえである。そんなアメリカに唯々諾々としている日本政府なんて、まるで、ジャイアンの横暴の片棒を担ぐスネ夫である。国際社会から信頼される国になんかなれっこない。



▼悲惨なパレスチナ"難民"の生活

  私は、実際に(イスラエルによって占領された)ヨルダン川西岸地区のパレスチナ難民の生活を見たことがある。1994年2月に、当時、WCRP(世界宗教者平和会議)の国際委員長をしていた祖父三宅歳雄(1903-99)と共に、"聖地"を訪れ、ユダヤ・キリスト・イスラム三教の最高指導者と会談。パレスチナ難民キャンプを訪問。イスラエルの閣僚とも意見の交換をしたことがある。私は主に、ドイツ大使館差し向けの自動車で各地を回ったが、途中、パレスチナの少年の投石による抵抗行為(「インティファーダ」という)で、車のフロントガラスが割れたことを覚えている。UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業寄稿)の所長の案内で、西岸地区のキャンプを訪れた。エルサレムからキャンプへ向かう道路には、途中、何カ所か検問所があったが、ユダヤ人の車はなんのチェックもなく通過するのに、パレスチナ人の車はその都度、止められていた。



UNRWA所長にパレスチナ人難民キャンプから見たユダヤ人入植地についての説明を受ける三宅主幹

  難民キャンプでの生活は、一応、食は確保はされていたが、かなりみすぼらしいものであった。その日、一日だけしか滞在していなかった私ですら、見ていて腹が立ったことは、フェンスの向こう側にあるユダヤ人"入植地"(西岸地区は、イスラエルが"占領"しているのであって、本来の領有者はパレスチナ人のはずなのに)には、白い壁のきれいな鉄筋コンクリート造りの住宅が次々と建てられ、また、彼ら(ユダヤ人)の農園には、中東では貴重な水がスプリンクラーでふんだんに撒かれている。一方、こちらはと言えば、ボロボロのスラム街のようなところで、飲み水すら十分に確保されていない。同じ人間なのに、子供の頃からこんな「差別」を見せられたら、誰だって投石行為くらいするだろうし、人によっては、ヒズボラのような原理主義のテロ組織のメンバーに加入したっておかしくはない。しかも、イスラエルは、ロシアをはじめとする外国に住んでいたユダヤ人たちを次々と"帰還"させ、パレスチナ人や隣国ヨルダン等からぶん取った占領地を、彼らに"入植地"として与え、既成事実を次々と積み上げて行っている。こんな非道が通る道理がない。


▼"譲れない聖地"エルサレム

  また、"聖地"についても、興味深い体験をした。東エルサレムは現在、国際法上はヨルダン領だが、実質的にはイスラエルが占領・支配している。中でも、東エルサレムは、約1km四方の城壁に囲まれた旧市街地を含み、ローマ帝国軍によって2000年前に破壊されたユダヤ教の至高の聖地である"神殿"の跡地でる「神殿の丘」がある。また、その神殿の一部だった場所は、その後「嘆きの壁」(西の壁)と呼ばれ、現在のユダヤ教徒にとって、最も重要な場所である。



嘆きの壁のラビと意見を交換する三宅主幹

  一方のイスラム教側は、「神殿の丘」を「ハラム・アッシャリーフ(高貴な聖域) 」という名で呼び、メッカ、メディナに続く、3番目に重要な"聖地"としている。なかでも、神殿の丘の上に建つ「岩のドーム」と「アル・アクサ」の2つのモスクは、「ムハンマド(マホメット)の魂の昇天の地」と伝えられる場所に建てられており、これも譲れないところである。東エルサレムの旧市街にはさらに、イエス・キリストが十字架刑にかけられた「ゴルゴダの丘」に建つ聖墳墓教会もある。まさに、ユダヤ・キリスト・イスラムの三教にとって、"譲れない聖地"なのである。

  もちろん、自動車などという交通手段のことを考えずに造られた旧市街地であるので、入り組んだ小径や階段だらけの石造りの街である。壁一枚隔てただけで、アラブ人地区とかアルメニア人地区とか、複雑に入り組んでいる街である。ユダヤ・キリスト・イスラムの三教のどれにも関係のないわれわれは、当時、既に92歳の高齢であった祖父には歩き回らせることになるので申し訳なかったが、その中をドンドンと突き進んで、行きたいところへ自由に行った。「嘆きの壁」のラビにも意見を交換したし、東方(ギリシャ)正教会の総主教にも会談したし、イスラム教のグランド・ムフティ(最高指導者)とも遭った。



東方正教会の総主教に招かれた三宅歳雄師と三宅主幹とベンドレイWCRP事務総長

▼「聖墳墓教会」での祈り

  なかでも、一番興味深かったのは、「聖墳墓教会」での出来事であった。イエスが十字架にかけられた場所というキリスト教徒にとって最も重要な場所(聖地)である所に建てられた聖墳墓教会は、たいへん興味深い施設である。キリストの墓や十字架のあった考古学上の正確な位置にあるかどうか? などという質問は、この際、どうでもよい。少なくとも、十字軍以後だけでも、千年近い間、この場所にその教会は建っているのである。十字架の場所に相応しく、この教会の聖堂の中には、目に見えない「十字架(4つに分けられたゾーン)」がある。それは、教会の所有者(管理権)を巡って、4つの教派が同居しているのである。すなわち、ギリシャ正教会とフランシスコ会(ローマ・カトリック教会傘下の一修道会)とアルメニア正教会とコプト教会(エチオピア系の古いキリスト教の一派)によって、それぞれ「管理区域」が分けられているのである。同じキリスト教といっても、歴史的文化的背景はまったく異なり、それぞれの司祭たちの衣装もまったく異なっている。しかも、この教会はアラブ人地区に建っているので、門番の男はイスラム教徒である。



聖墳墓教会を管理する各教派の司祭たちを祝福する三宅歳雄師

  「嘆きの壁」と「岩のドーム」で立て続けにお祈りをした祖父(当然、そんな細かい歴史的経緯は知らない)は、「聖墳墓教会」においても、自分が「ここだ!」と感じる場所では、お構いなしにドンドンとお祈りを行った。すると、それぞれの教派の管理者たちが(最初は「困るじゃないか」と注意しようと思って)出てくるのであるが、「勢い(気迫)」に負けたのか、何も言わずに後に着いてくる。こんな調子で、すべての教派の管理地区を回って、最後には、すべての教派の司祭やユダヤ教のラビまで祖父の後に続く結果となった。聖墳墓教会を出たところで、たまたま取材に来ていた欧米のテレビ局からインタビューを受けた程である。祖父は、イスラエルからの帰途、バチカンに立ち寄り、教皇ヨハネ・パウロ2世と単独で会見、エルサレムでの体験について話をしていたのが、昨日のことのように思い起こされる。事実、この年の11月に、WCRP第6回世界大会の開会式がバチカンで開催され、千数百年に及ぶカトリック教会の歴史上初めて、『コーラン(イスラム教の聖典)』の祈りが、朗々とバチカンのシノドス・ホール(重要な司教会議が行われる場所)に響いた。



WCRP第6回世界大会の開会式で「祈り」を行う三宅歳雄師

▼宗教や民族を争いの種にするな

  これらの体験から導き出される結論は、かなりア・プリオリなものと考えられる宗教や民族の違いそのものは、人それぞれ、顔かたちが異なる(これも、かなりア・プリオリである)ように、交換しがたいものであるので、かえって人々が思っているほど争いの種にはなりにくいということである。むしろ、隣接する人々の間の政治上の権利の差別や経済上の貧富の格差のほうが、ア・ポステリオリなものであるだけに、交換可能であり、実際の争いの種になり易いということである。しかしながら、政治家や資本家たちは、自らの不当行為(怠慢)に対する民衆の不満を逸らし、自らの既得権益を守るために、問題の本質を宗教や民族といったア・プリオリなテーマ(それだけに、解決が困難)にすり替えているように思えてならない。したがって、パレスチナ問題も、何千年もの歴史的背景を持った解決困難な問題ではなく、今世紀に起こった、極めて政治的・経済的な問題であり、それだけに、米英やユダヤ人たちの不当な既得権益さえ放棄すれば解決可能な問題であることを肝に銘じなければならない。


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