日本人の条件
       00年 12月21日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼ グローバル化社会における国民とは

  私は、前作『匙は投げられた:日本国不信任決議』において、従前からの「定住外国人参政権付与論者」であることを表明した。しかも、その理由を、民族(国粋)主義の逆であるコスモポリタニズムや観念的な啓蒙思想などからではなく、単純に、「参政権なきところに課税なし(No taxation without representation)の原則を尊重するから」という理由まで明記した。したがって、たとえ日本人であっても、「税金(直接税)を納めていない人には参政権は不要である」とまで言い切った。何ごとも"受益者負担"の原則が大切だからだ。

  ところが、私のこの意見に対して「選挙権を得たいのなら、そんなこむずかしいことをえらそうに言ってないで、日本国籍とれ! そんなに日本を侵略したいんですか?(原文ママ)」などという反対意見が、何通か寄せられた。しかし、これらの意見を表明された人々の中には、無意識のうちに以下のような思い込みがあるように思われる。すなわち、1)日本人として生まれたら、自動的に日本国籍が付与される。2)取ろうと思えば(正式の法的手続きを踏みさえすれば)誰でも、(容易に)日本国籍を取得することができる。3)長年、日本に在住しながら日本国籍を得ようとしない連中は、日本に対する忠誠心(積極的に社会に貢献してゆこうという気持ち)がないのだから、彼らに国籍を与える必要はない。(註:「永住外国人の参政権問題」への一般的なスタンスは、『日本会議』のサイトに分かり易く解説されているので、関心のある人は一読されたい)

  たしかに、「ある国の"国民"が、その国の参政権を有している」ということは、近代"国民"国家(Nation State)における基本的な理念のひとつであることはいうまでもない。あるいは、その基本理念を体現するために、20世紀の後半において、多くのアジア・アフリカ諸国が「民族自決」の原理に基づいて、欧米の旧宗主国からの「独立」を果たした。しかしながら、旧ソビエト連邦や旧ユーゴ連邦の例を持ち出すまでもなく、ひとつの国家に複数の民族が混在しているのが現状であり、厳密な意味では、民族毎の政治的見解の集約が難しいことは、これを強行実施するために行われた五十数年前のナチによるホロコーストや数年前のユーゴでの民族浄化の悲劇をみれば明らかである。まして、20世紀末において人類が到達した社会は、人・物・金・情報が国境を越えて自由に行き来するグローバル化社会である。特定の地域(国家)に暮らす人々の政治的意志を決定するための条件として、「その人が特定の"国民(国籍)"を有することが絶対条件である」とは、必ずしも言い難いものがある。


▼大統領選と在外投票

  私は、研究生活のため米国のマサチューセッツ州に住んだことがあるが、当時、レーガン大統領(現職・共和党)とマサチューセッツ州のデュカキス知事(民主党)が大統領選挙を争っていた。ケネディ家(アイルランド系)の地元でもある同州は、伝統的に民主党の強い地域で、全米レベルではコテンパンにやられた(レーガン氏が圧勝で再選された) デュカキス氏(ギリシャ系)であったが、さすがに地元では善戦していた印象があった。慎ましやかな研究生活とたった1年間の滞在ということで、ほとんど経済活動(消費生活)を行っていなかったにもっかかわらず、私も極めて小額とはいえ、IRS(内国歳入庁)から課税通知を受け取っていたので、合衆国の市民権は有していないにもかかわらず、「納税している自分の政治的意志表明(参政権)ができない」ことを疑問に思ったことがある。なにしろ、ボストンの観光名所にひとつにもなっている「Tea Party Ship」は、当時(18世紀後半)、英国の植民地であったニューイングランド地方(アメリカ北東部諸州)に住む人々が、紅茶の葉に課けられた税金に反対して、「参政権なきところに課税なし!」を標榜し、甲板から紅茶の葉の入った箱を海へ放り投げ(納税拒否の意志表示)、その事件がきっかけとなって、独立戦争にまで発展したという土地柄である。

  一方、現地の日本総領事館には、「在留邦人届け」を出していたが、当然、日本国籍を有していたにもかかわらず、当時の制度では、日本で行われた(国政)選挙に対して、不在者投票をすることはできなかった。なんでも、2000年の総選挙から、国政(衆参両院)選挙の比例区だけは、「在留邦人届け」を提出している日本人は、現地の公館(大使館・領事館等)において、参政権を行使することができるようになったそうなので、一歩前進である。しかし、その頃(1984〜85年当時)、アメリカでは、既に全世界中で暮らす合衆国国民は、郵便によって不在者投票ができる仕組みとなっていたことに感心したものだ。合衆国史上、稀にみる接戦となった今回のゴア副大統領対ブッシュ知事の大統領選挙の際にも、フロリダ州に"籍"を置く、海外在住者(各国に駐留している米軍関係者の自宅がフロリダ州にあることが多い)からの不在者投票の行く先が大きな関心を集めたことから、合衆国国民の海外からの不在者投票システムについては日本でも有名になったが…。もっとも、米国の場合は、たとえ国内に在住していても、日本みたいに20歳になったら「自動的に」選挙権が付与される(選挙前になれば、勝手に投票所のお知らせの葉書が送られてくる)のではなく、事前に、各々「有権者登録」を行った者だけが投票者資格を得られるそうである。ここら辺りが、民主主義に対する彼我の意識の差であると言ってしまえばそれまでのことであるが…。


▼両親が日本人なら自動的に日本人?

  さて、ここで、最初に論じた「日本人である」ことの無意識の前提のひとつひとつについて検証してみたい。まず、「1)日本人として生まれたら、自動的に日本国籍が付与される」という項目であるが、この「日本人として生まれたら」ということ自体が、そう単純なことではない。当該人物が、日本国内に在住している日本人の両親から生まれた場合は、(市区町村役場に)出生届を提出(法律では、出生届けは14日以内に提出しなければならない)した瞬間に日本国籍を取得したことになるので問題はないが、日本人である両親から海外で生まれた場合には、近くに在外公館がない場合は、手続きが面倒である。南米の奥地に移民した人の子女や終戦の混乱期に満州(現在の中華人民共和国東北地方)などに置き去りにされた子女などの場合は、面倒な話になる。本人が、「自分は日本人の子である」と自覚していればまだいいが、そうでない場合、大変であることは毎年繰り返されている中国残留孤児の身元確認作業などからも明らかだ。本人は、日本語がまったく理解できないケースが多く、確たる物的証拠がないと難しい。

  しかし、日本の感覚では、やはり「(世界中のどこで生まれようとも)日本人の子として生まれる」ことが、「彼(もしくは彼女)が日本人である」ということが最も確かである。日本滞在中に大統領職を投げ出したペルーのアルベルト・フジモリ前大統領に対しても、同氏の「(両親が日本人である)私は、はじめから日本人だった」という主張を日本国政府はあっさりと認めたことからも、明らかである。その間、出入国管理を行っている法務省と外務省との間で、どのような「調整」が行われたのかは定かではないが、ともかく、フジモリ前ペルー大統領の日本国籍問題は12月12日、政府が異例の「日本国籍の保有確認」を発表、決着した。政府は「(同氏が大統領であったということからの特別の)政治的配慮を加えず、淡々と(同氏が生まれた時から日本国籍を保有し続けていたという)事実確認を行った」と強調しているが、フジモリ氏の日本国籍確認は「他国の国家元首が実は在任中から日本人だった」という、国際常識からは信じがたい前代未聞の事態を日本国政府が容認したことを意味する。もっとも、国家元首については、外遊の際にもパスポートの携帯が不必要であるから、政権が崩壊する際に、第三国へ亡命するようなケースが多々あるが、それにしても、フジモリ前大統領のようなケースは聞いたことがない。

  逆に、"移民の国"アメリカでは、たとえ両親の国籍が何人であろうとも、「その人がアメリカで誕生したら、その人は合衆国の市民権を有する」ということになっている。事実、中南米の貧しい国から不法入国した身重の女性が、アメリカ国内で出産し、子供に合衆国の市民権を得るという事例が後を絶たない。母親は当局に見つかれば、即、強制送還処分になるが、その子は立派な合衆国市民として認められる。法律用語では、国籍に関して、日本方式を「属人主義」と呼び、アメリカ方式を「属地主義」と呼ぶ。だから、アメリカ国内で日本人の両親から生まれた子供は「二重国籍」ということになり、成人した時点で、自分の意志でどちらかの国籍を選択しなければならない。逆に、日本国内でアメリカ人の両親から生まれた子供は「無国籍」になってしまう恐れがある。もちろん、このような状態(無国籍)を避けるため、実際には、きちんと届け出れば、このようなケースはアメリカ国籍が認められることになっているが…。

  ただし、両親の国籍が異なる場合は、話はもっと複雑になる。母親が日本人で父親が米国人のケースで、日本国内で出産した場合は、その子には日本国籍が与えられるが、母親が米国人で父親が日本人のケースで、日本国内で出産しても、父親がその子を認知しなかったりしたら、その子は無国籍になってしまう。それ以外にも、片親が外国人の場合には、いろいろなケースが考えられ得るが、逆に、両親の"日本人性"が証明されうる限り、たとえ海外で十世代を経たとしても「その人は日本人である」という「純血主義」を日本の属人主義は採用しているようだ。


▼日本国籍取得はほとんど不可能

  次に、「2)取ろうと思えば(正式の法的手続きを踏みさえすれば)誰でも、(容易に)日本国籍を取得することができる」という項目であるが、これはまさにインチキである。日本ほど、外国人が日本国籍を取得するのが難しい国を私は知らない。これは、「純血主義」の逆の要素である。「親が日本人である」と主張した場合、(中国残留孤児や南米移民のUターン組のように)たとえその科学的根拠が曖昧であったとしても、比較的容易に日本国籍が認められるが、「紅毛碧眼」や「アフリカ系」の人々のように、見た目が明らかに日本人と異なっている場合には、日本国籍の取得は容易ではない。二十数年前、ベトナムからのアメリカ軍の撤退の結果、大量にインドシナ難民(いわゆる「ボートピープル」)が発生した際、日本はベトナムに最も近い先進国として、相当数のインドシナ難民を(人道的措置として)一旦は引き受けたものの、「帰る国」のない彼らに日本国籍を与えることなく、そのほとんどを、また、米・加・豪などの第三国へ「再出国」させたことは、読者の皆さんもご存知であろう。

  しかも、当時の日本政府は、一旦でも国の施設がこれらの難民を受け入れると、既成事実として日本政府が難民を受け入れたことになるのを恐れて、実際にほとんどのインドシナ難民を受け入れたのは、立正佼成会・天理教・カトリック教会他の宗教団体であり、政府は彼らの「賄(まかな)い費」を出費しただけに過ぎなかった。わが家にも、私が高校生の頃、何人かの難民の方が暫く滞在されていたが、父が法務省や外務省と日本国籍取得についていろいろ交渉したが、結局、全員、第三国へ再出国ということになった。その後、1980年9月、カンボジアのソン・サン首相が「その際にはお世話になりました」とわが家に来られたことを思い出す。

  読者の中には、「難民は特殊なケース」と思われる向きもあるかもしれないが、日本人なら誰でも知っている「在日外国人」で、しかも、その人物が、日本の文化・社会に相当の継続的貢献をしているにも関わらず、なかなかその人に日本国籍が与えられなかったケースを紹介しよう。それは、大相撲の高見山関(現東関親方)と小錦関(現KONISHIKI氏)の場合だ。高見山関の場合は、最初の外国人力士ということで大変であったとしても、小錦関の場合は、長年大関まで務めながら、晩年には十両まで陥落しつつも晩節を汚し(普通は大関から陥落したら引退する)続けたのは、「外国人の力士は認めるが、外国人の親方(年寄株取得)は認めない」という(財)日本相撲協会の「国籍条項」が存在したからである。辞めたくても辞められなかったのである。結局、彼らが選んだ道は、日本人女性を結婚することで日本国籍を得るという方法だった。日本中の誰もが知っている人気力士で逃げも隠れもできない人物の日本国籍取得についてですら、それだけでは不十分なのである。もはや、相撲協会に籍を置く必要がなくなったKONISHIKI氏が、日本人妻と離婚してもなんの不思議もないのである。いわんや、「只の外人さん」など、何十年日本に暮らそうと、日本国籍取得は不可能に近い。


▼国家に対する忠誠心?

  さらに、「3)長年、日本に在住しながら日本国籍を得ようとしない連中は、日本に対する忠誠心(積極的に社会に貢献してゆこうという気持ち)がないのだから、彼らに国籍を与える必要はない」という項目であるが、これもほとんど合理性を持たない。日本人であっても、日本に対する忠誠心の欠片もない連中は山ほどいる。北朝鮮に亡命している「よど号」ハイジャック犯や、長年、中東でゲリラ活動をして、先頃、逮捕された日本赤軍の重信房子容疑者などはまだましなほうである。彼らの手段は間違っているとしても、少なくとも、彼らは日本の社会のあるべき姿について真剣に考えているが、現在の若者の多くは「日本社会などどうなってもいい」と思っている。考えようによっては、彼らのほうがよほど、国家に対する「忠誠心」に欠けている。

  だいいち、最初に紹介した『日本会議』のサイトには、「そもそも、国家とは政治的運命共同体であり、国家の運命に責任を持たない外国人に国の舵取りを任せてしまって良いのかということが、外国人参政権問題の本質です。また外国人に参政権を付与した場合、本国への忠誠義務と矛盾しないか、日本国と本国との間で国益上の対立や衝突が生じた場合どうするのか、といったことなども当然問題となります」などと、"忠誠義務"などという概念を持ち出しているが、そんなもの『日本国憲法』のどこにも書いていないし、「(前略)諸国民の正義と公正を信じる(後略)」ことになっっている『日本国憲法』は、そもそも、外国との戦争などという事態は、それ自体想定していない。そんなもの、国籍に関係なく、たとえ日本生まれの日本人であったとしても、裏切る奴は裏切るし、日本国籍を取得した元外国人であったとしても、良心に殉じる人は殉じるものである。

  『日本国憲法』が規定している「国民の義務」とは、a) 勤労の義務、b) 納税の義務、c) 就学年齢の子女に教育を受けさせる義務、の三点のみであったはずである。「国家への忠誠の義務」などどこにも書いていないし、「戦争はしない」ことになっているのだから「兵役の義務」もない。しかも、三大義務の内、「勤労の義務」については、「勤労」の概念そのものが曖昧である。1年間の休日がわずか5日間程しかなく、週平均115時間も働く私の感覚からすれば、サラリーマンの99%は「勤労」しているうちに入らない。また、いわゆる「義務教育」については、当該年齢の子女を養育していない人にとっては関係のないことである。したがって、日本国民一般にとって、最も重要な義務は「納税の義務」のみであると言えよう。

  したがって、たとえその人物の国籍がいかなるものであったとしても、国民としての最大の義務である「納税」行為を継続的に果たしているとすれば、その人物の参政権を認めるのは当然のことであると結論づけざるを得ないのである。ただ、ここでいう「日本国民」という意味は、統治機構としての近代国民国家における"国民"という意味であって、人類学的な意味での「日本人」や、文化史的な意味での「日本人」とは、あくまでも別物であることを自覚しておく必要があることは言うまでもない。


▼日蓮の「国家」観

  そもそも、わが国においては、一般国民はいうまでもなく、政治家・官僚・経済人・マスコミ関係者にいたるまで、地理的・自然的な概念(country)としての「日本」と、民族的・言語的な概念(nation)としての「日本」と、政治的統治機構(state)としての「日本」の区別がつかずに議論を行っているケースがほとんどである。たしかに、日本においては、これらの3つの異なった概念が、ほぼ同心円上に重なり合う期間が長かったために、それらの差異を意識する必要がなかった(逆のケースはユダヤ人)。したがって、日本の長い歴史のある時期、たとえば明治後半から昭和前半の「大日本帝国」の時代には、朝鮮半島や台湾など、本来の「日本」とは異質な要素を大日本帝国の中身に含んでしまったために、これらの異なる3つの概念を統合するためのイデオロギーとしての「天皇制」あるいは「国家神道」などというものを無理やり創らなければならなかったのである。同じ類型は、70年間における共産党支配下のソ連においても見られる。

  ところが、日本の歴史において、何人かの傑出した人物が、この3種類の「日本」概念の差異に気づいていた。聖徳太子や日蓮などである。いずれのケースも、随帝国や蒙古帝国という巨大な帝国が東アジアに出現し、それまでの諸国家間の関係を根底から覆し、日本の安全保障に大いなる危機を生じたときに、必要があってその差異が垣間見えたのである。聖徳太子については、『談合3兄弟:憲法十七条の謎』で詳しく述べたので、今回は、日蓮の場合について少し触れておきたい。



日蓮真筆の『立正安国論』より

  日蓮は、「蒙古襲来」という未曾有の国難際して、若き執権(実際には、前執権であるが、幕府の最高権力者であった)北条時宗に『立正安国論』を献上する。同書の中で、日蓮は「くに」という漢字を71回も用いている。現在、日本で一般に使われている「くに」という漢字は、クニ囲いにギョクという"国"という漢字であるが、中国や韓国では、クニ囲いにワクという"國"という漢字を当てている。つまり、日本では、中央に玉=天皇がいる国家を意味しているが、中国や韓国では、「或=戈(ほこ)を手にして国境と土地を守る(の意)」としての國家を意味しているのである。ところが、日蓮は、全71回の内の約8割にあたる56回の「くに」について、クニ囲いに"民"という漢字(この文字のフォントがないので表記できないが)を当てて「くに」と読ましている。つまり、peopleを眼目に置いたnationを意識していたということである。もちろん、同書において、頻度は少ないものの「国」も「國」も使っているので、明らかに、日蓮は、country=国土領域、nation=国民、state=統治機構、のそれぞれの違いというものを意識して同書を執筆したと推定できる。その意味で、2001年度のNHK
大河ドラマ『北条時宗』を注目したい。俳優の奥田瑛二が日蓮を演じるそうである。


戻る