東山道:もうひとつの「国譲り」
01年 5月06日


レルネット主幹 三宅善信


▼縄文への旅は木曽路を越えて

 皆さんは、当『主幹の主観』シリーズの記念すべき第1作をご記憶であろうか? 1998年4月6日に上梓した『神道と柱』と題する小論である。青森県の三内丸山遺跡(縄文)から佐賀県の吉野ヶ里遺跡(弥生)果ては伊勢の神宮に至るまで、日本人の"柱"に対する宗教的情念というものに焦点を当てて、日本人にとっての"カミ"の正体を探ろうとした。カミや霊魂を数える数詞は「1柱2柱3柱…」だ。このシリーズは、同年6月17日付で上梓された『続「神道と柱」:「ソシモリ」考』では、祇園祭で有名な京都八坂神社のご祭神が、古代の朝鮮半島由来のカミであり、そのカミもやはり「天から高い柱の上に降りてきた」という構造を傍証した。

 2年後の2000年4月24日には、『ヤポネシア:日本人はどこから来たのか』で、大阪平野を見下ろす生駒山の麓に鎮座する石切剣箭神社に関連して、神武東征神話に登場する先住民族ナガスネヒコ(長髓彦)がアイヌであったこと。さらには、彼ら(原日本人=縄文人)とポリネシア人が人類学的にも大変、近縁である可能性について考察した。また、同年5月4日には、『南海道:太陽と海の道』を上梓したが、ここでは、近代国家の国土軸から切り離されて、「開発」が遅れた故に古の気風が残っている「南海道(和歌山県+淡路島+四国4県)」という記紀の「国産み」神話とは縁の深い地域を紹介し、なおかつ、黒潮洗う豪放磊落な気風を持つこの地域について、実は、三千数百年前に、大陸で殷(いん)王朝を立てた「箕(き)氏こそ紀氏(紀伊国一の宮、日前國懸神宮の神職家)の先祖だ」という説や、紀元前333年には、越が滅び多数の越人(ベトナム系)が渡来したという説。さらには、天皇家の姓は、祖神が天照大神なので「姫(き)」氏であるという説など、日本の古代史を、東アジアと太平洋島嶼文化に開かれた"ヤポネシア"の視点から論じた。


雪なお深き信濃路の旅

 今回の作品『東山道』は、これら3年越しの4作品を継承する作品である。私は、第1作の発表からちょうど3年目に当たるこの4月6〜7日、初めて中央本線に乗って木曽路を越えて、春なお浅い信州諏訪地方を訪れた。この地に見える山々は、われわれ近畿地方に暮らす者には馴染みのない急峻な峰々が連なっており、まさに「日本アルプス」とはよく言ったものだ。私が子供の頃から"山"という言葉でイメージした(描いてきた)山は、頂上まで樹木が生い茂ったオッパイのような形の山であり、決して、岩肌が剥き出しになった三角形のような山ではない。もちろん、尾根に雪が残っているという風景もない。今回の旅行の目的は、平成神道研究会の会員として、縄文遺跡や諏訪地方の伝承(神話)について学ぶためである。諏訪滞在中、われわれの案内は手長神社の宮坂清宮司がして下さった。諏訪に行ったら真っ先に見てみたいと思ったのが諏訪大社(諏訪湖を挟んで上社と下社がある)の「御柱(おんばしら)」であることは言うまでもない。

 私が諏訪の「御柱」に興味を持つようになったのは、十代の最後の年に、週間『少年ジャンプ』という漫画雑誌に短期連載(1977年末〜78年初)された諸星大二郎の『孔子暗黒伝』という作品を読んでからといってよい。巨匠手塚治虫の『火の鳥』のように、人生の各段階において何回か読む機会があった長編大作ではなく、マイナーな作家(失礼)の短編だったので、たった1回だけしか読んだことがないはずだのに、どういう訳か同作品のストーリーと独特の下手と言えば下手な絵(失礼)を、二十数年経った今もハッキリと覚えている。真理(古の聖天子の道)を求めて中原を旅していた孔子とその弟子たちの話である。東方の海の彼方にあると信じられていた蓬莱(日本)へ旅だった顔回(だったと思う)が、周の武王の生まれ変わりと日本(諏訪地方)で巡り会い、なおかつ、遙か南西方角のクシナガラで入滅したはずのブッダとも出会い、宇宙の真理(『リグ・ベーダ』の叙情詩でシンボライズ)への疑問を投げかけて終わる。という粗筋だったと記憶している。日本での主な舞台は、どういう訳か一般に古代文明の"中心地"である認識されていた大和地方(近畿地方)や筑紫地方(北部九州)ではなく、諏訪地方であり、馴染みのない出雲族や守矢族などが登場していた。


▼神話と縄文文化が過小評価された時代

  ここで、私の世代が受けた学校での歴史教育について概略せねばなるまい。1970年代に中学・高校時代を過ごしたわれわれは、現在から見ると、とんでもない「日本史」を習っていた。まず、基本的なスタンスは、戦後一貫してあった"皇国史観"の否定である。神話や伝承といった要素はすべて「作り事」として無視された。なおかつ、現在ほど日本各地で考古学的な発掘が行われておらず、われわれが学んだ歴史はミッシングリングだらけであった。当時、極彩色の婦人画を有する高松塚古墳や四神や星宿図で有名なキトラ古墳などが次々と"発見"されつつあったが、まだ教科書には採用されていなかった。当時の"歴史観"を一言でいえば、神話を否定し、日本独自の文化である縄文文化を過小評価するものであった。例えば、「狩猟・採取生活を送っていた縄文人たちは、大きな集落を作らずに家族単位で横穴式住居で暮らしていた」といった類のもの…。これじゃ数十万年前の北京原人と変わりはしない。


諏訪地方で大量に発掘された縄文土器を見学して

 稲作が大陸から伝わったとされる弥生文化でも、静岡の登呂遺跡の復元図などでは、人々は竪穴式住居に棲んでいたことになる。考古学者と文部省は、つくづく"穴"が好きだったらいしい。高温多湿で雨の多いわが国の風土を考えれば、いくら古代人だとはいえ、"穴"になんか棲んでいるはずはないことは明らかだ。自然に考えれば、ポリネシアや東南アジア各地のような木製の「高床式」住居に住んでいたであろうことは容易に想像がつくはずだ。しかし、高床式といえば、伊勢の神宮をはじめとする神社建築が想起され、皇国史観を忌避する立場からは排除されたのであろう。ともかく、太古からこの日本列島に存在していた人々の文化を過小評価し、すべて立派なものは大陸(朝鮮半島を含む)から伝播したという歴史観である。この列島に成立した最初のクニの認定ですら、この国の人々自身の記録(伝承)ではなく、中国の歴史書である『漢書』の「東夷伝」や『魏史』の「倭人伝」といった、この国のことを実際に見たこともない人が書いた間接話法(○○伝)の記録のほうを尊重したくらいだ。

 しかし、人口数千人規模の環壕集落(クニ)を形成していた佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、黄河文明に先立つこと二千年、日本列島の北の端である青森県に既に成立していた青森県の三内丸山遺跡などが次々と発見されるにおよんで、これまで想像されていたよりも遙かに豊かな独自の古代文化がこの列島上に展開していたことが明らかになり、戦後の歴史学者が展開してきた「文明の中心は大陸であり、日本はあくまで周縁にすぎず、常に、大陸から教えてもらう立場であった」という歴史観は完全に崩壊した。


▼民族移動のドミノ理論


手長神社本殿と御柱「一の柱」

 話は諏訪に戻る。われわれは最初に諏訪湖を見下ろす茶臼山の斜面に建てられた手長神社を訪れた。日本各地にあるごく一般的な神社である。しかしそこで、いきなり私の先入観が間違っていたことを知らされた。「御柱」というのは、有名な(上下)諏訪大社だけのものかと思っていたが、ここ(手長神社)でも、境内の杉木立に混じって電柱くらいの「御柱」が立っていた。御柱とは、諏訪地方の風習で、神社のご神体(本殿?)の外側四隅に"神域"を結界するかのように立てられたポールであり、樅の木の枝を打ち払って樹皮を剥いた長さのそれぞれ異なる4本の立柱のことである。このポールの上端は、「冠落し」といって、三角錐型に切り落とし(先を尖らせる)、逆に下端は地面に穴を掘って突き立ててある。よく見ると、手長神社のご本殿だけでなく、付属するいくつもの社殿(と言っても、小さなものは30cm角くらいの祠まである)のすべてに、その周りを取り囲むように「御柱」が立ててある。だから、「御柱」といっても、小さいものは菜箸くらいの大きさである。この日(4月6日)、近在の何カ所かの神社・祠の類を見学したが、いずれも同様の「御柱」が立てられていた。諏訪地方では、「神を祀るところ=御柱で囲まれたところ」という公式が完全に成り立っていた。中には、一応、申し訳程度の「社殿」のようなものが建てられているけれど、どう見たって、本当の崇拝対象はその社殿の背後や手前にある「磐坐(いはくら=巨石)」だったと思われるところがかなりあった。


磐坐のあった場所に社殿が造られ、磐坐そのものは公園に

 この日、手長神社の宮坂宮司から大変興味深い話を伺った。諏訪大社(上社)の祭神である諏訪大明神というのは、出雲系の建御名方(タケミナカタ)神であるということは有名である。高天原にいた天照大神(天孫族の首長)の命を受け、建御雷(タケミカズチ)命と経津主(フツヌシ)命が出雲国を訪れ、この国(日本列島)を営々と築いてきた大国主(オオクニヌシ)命に、「勅命であるからこの国を譲り渡せ」と迫る。大国主の2人の息子の内、事代主(コトシロヌシ)神は、父神大国主命に、国土の譲渡を奨めて自らも隠遁する。労せずして広大な国土と人民を譲り受けた天孫族(大和朝廷の先祖)は、お礼として、大国主命のために日本一の大神殿(出雲大社)を建立し、顕界(この世)の大王を譲り、冥界(あの世)の大王となった大国主命を祀ると約束した。しかし、もうひとりの息子である建御名方神は、天孫族の侵略の理不尽を父神に説き、徹底抗戦を試みるが、遂にはこれに破れて、遠く信濃国の諏訪の地に隠遁した。

 もちろん、この物語は、先住民のいるところへ後から進入してきたより高度な技術や強力な軍事力を持った集団が、先住民を"駆逐"して設立した政権の正統性を主張するために、「(私利私欲ではなく)天命に従った行為だ」とか、「先住民の代表と話し合った挙げ句、双方合意の下に、平和的に譲渡を受けた」とかという話を創作しただけのことである。インディアンから土地を奪った白人が、「アメリカの建国は"新しいイスラエル"として神から祝福されたものだ」と自らの行為を正当化したように…。第三者からは見えないテーブルの下ではピストルを相手に突きつけながら、テーブルの上で握手してみせるようなものである。このようなことは、世界中で行われてきたであろうし、また、21世紀の現在でも行われつつある。出雲に日本一の大神殿を建てたのは、「お礼のしるし」ではなくて、葬り去った大国主命一族の祟りを畏れて、これを鎮魂するため建立したに違いない。このあたりの経緯は、1999年4月30日に上梓した『談合3兄弟:憲法十七条の謎』に詳しく論じているので参考にしてほしい。

 この大陸・半島へ向けて開かれた(当時は日本海側こそ「表日本」だった)出雲の地を追われた建御名方(個人の名前というよりは、出雲から諏訪へ移住した集団の名前)が、どこをどう通ったか定かでないが(たぶん若狭湾まで海岸沿いに東進し、そこから上陸し→近江国→美濃国→信濃国というルート)日本列島の背骨ともいえる信州諏訪の地に辿り着いた。若狭は出雲路とも呼ばれ、琵琶湖に注ぐ安曇(あど)川や、信州安曇(あずみ)野などといった出雲族由来の地名が、これらの足跡を歴史に記しているのだと思う。しかし、この建御名方の話の面白い(恐い)ところは、故郷出雲の地を天孫族に追われた建御名方一行が、諏訪というおよそ外部の世界からは切り離されたような山の中の辺境の地で、天孫族が出雲で自分たちに対して振る舞ったのと同じ簒奪を、縄文人の血を引く先住民(?)「守矢(もりや)族」に対して行ったことである。元々、出雲は先進国であった上に、朝鮮半島(九州を経由?)から渡来したと思われる天孫族と戦ううちに彼らの軍事技術も拾得したであろう建御名方たちの侵略に、諏訪地方の先住民たちのある者は殺され、ある者はさらなる僻地(関東地方)へ逃げ込み、またある者は出雲族支配の中に組み込まれていったであろう。まさに、民族移動の"ドミノ理論"である。

 以前にも紹介したことのある井上夢間氏の興味深いサイト『夢間草廬(むけんのこや):ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源』によると、ポリネシア語系のマオリ語では、建御雷命の意味は、「タケ・ミヒ・イカ・ツチカ」、TAKE-MIHI-IKA-TUTIKA (take=stump, chief; mihi=greet, admire; ika=warrior, lie in a heap; tutika=uplight)、「尊敬すべき氏族の首長である真っ直ぐに立ちはだかっている戦士」という意味で、経津主命の意味は、「フ・ツ・ヌイ・チ」、HU-TU-NUI-TI (hu=silent, secret; tu=stand; nui=large, many; ti=cast, throw, overcome)、「静かに座っているだけで他(の多くの人々)を圧倒する(神)」 の転訛だそうだ。また、 戦いに敗れた建御名方神の意味は、「タケ・ミナカ・タ」、TAKE-MINAKA-TA (take=stump, chief; minaka=desire; ta=dash, strike, overcome)、「希望を打ち砕かれた氏族の首長(神)」という意味で、信濃は、「チナ・ナウ」、TINA-NAU (tina=fixed, satisfied, overcome; nau=come, go)、「打倒されて移住した(土地)」または「移住して満足した(土地)」だそうである。また、諏訪の意味は、「ツ・ワ」、TU-WA(WHA) (tu=stand, settle; wa=place, be far advanced)、「(本国から)遠く離れた定住地(移住地)(の湖)」の転訛だそうである。伝説のストーリーと比べても興味深い内容ではないか。


▼「神長官」守矢家の謎

野兎や蛙の串刺しや鹿肉と脳味噌の和え物。右)毎年、神に供せられた多数の鹿の頭

 不思議なことに、諏訪大社は勝者であるはずの建御名方神を祀るといいながら、神長官(祭祀長)として千数百年の長きにわたって現在まで連綿とこの社の祭祀を仕えてきたのは、先住民代表の守矢家であった。神長官館のあったところに建てられている「神長官守矢資料館」や守矢家の裏手の古墳や正体不明の縄文の神「ミシャグジ」を祀った祠(諏訪大社の神紋である「梶」の木が生えていた)を見学した。守矢家資料館では、諏訪大社で毎年行なわれる大がかりで神秘的な祭事「御頭祭(おんとうさい)」の神饌物(お供え物)を見て驚いた。一般に神社の神饌といえば、米と米から造られた神酒と鏡餅、それに干物と魚貝類や野菜、菓子等である。たまに山鳥・水鳥などを供えることもあるが、「四ッ足(獣類)」となると稀である。ところが、諏訪大社では、毎年、75頭もの鹿の頭と野兎や蛙の串刺し、鹿の赤身の肉と脳味噌(白く見える)と混ぜ合わせたものを神饌物(贄物)として供えているそうだ。現在の日本人の神道に関する一般的な常識からは理解しにくいものがあった。天孫族の"歴史"である記紀神話が描き出す日本の原風景である「豊葦原の瑞穂国」というイメージからは程遠い。


守矢家の裏手には「ミシャグジ」を祀った祠と古墳が…

 それから、興味深かったのが、守矢家の裏手の小高い丘である。この丘は、明らかに古墳である。頂には玄室まで暴露されてしまっている所があるし、近・現代の守矢家の人々の墓石もある。なかでも、「ミシャグジ」を祀った祠が興味深かった。現在の社殿には、佐奈伎(さなぎ)の鈴と鉄鈴と陰陽石が三種の神器として奉られているそうだ。この聞いたこともないような縄文のカミの正体はいったい何なんであろう。一説には「蛇信仰」だとも言われている。そう言えば、東京に石神井(しゃくじい)という地名があるが、この地名はたぶん、「ミシャグジ」に関係しているとみて間違いあるまい。なにしろ、建御名方たちの諏訪侵略に曝されたれた先住民のある者はさらなる僻地(関東地方)へ逃げ込んだのだから…。


▼諏訪大明神の正体は蛇?

  いよいよ本来の目的地である諏訪大社(上社)である。諏訪湖の南側に鎮座する上社の社殿(拝殿)は、少し不自然な向き(西向き)を向いている。明治初年の廃仏毀釈以前は、現在の上社の東隣に壮大な神宮寺があった。中世以後、本殿を通して人々が拝んでいたのは神仏習合のこのお寺だったのかもしれない。今でも、その名残の「鉄塔」が神域内に残されている。しかし、五重塔をはじめとするこれらの伽藍は、廃仏毀釈で完膚無きまでに破壊され尽くした。また、諏訪大社に奉仕する神長官守矢家以下の神職は全員辞職させられ、これに代わって、東京で任命された神職が赴任した。明治初年の一連の動きを見ていると、"文明開化"というよりはむしろ、イスラム原理主義政権タリバンによるバーミヤン大仏破壊よりも酷い、まるで、毛沢東に煽動された"文化大革命"である。「王政復古」といいながら、この時(明治維新期)、日本は多くの大切な伝統を失った。


現在の上社の拝殿。左後ろ側に「二の柱」が見える

 それにしても、この上社の「向き」は不自然である。「御神渡(おみわた)り」の諏訪湖から上がってくる(南向き)の北参道を上り詰めたところに、山の斜面を切り開いた上社の境内があり、これは手前から、下檀・中壇・上壇の三段に配置されている。当然のことながら、諏訪地方で最も大きい4本の「御柱」が「神域」を結界しているはずなのであるが、諏訪地方の神社に共通の、社殿に向かって右手前が一番高い「一の柱」、そしてそれから時計回りに、左手前が「二の柱」、その次が、左奥側の「三の柱」、最後に、右奥側の「四の柱」という基本構造が守られいないのである。もし、現在(中世以後)の拝殿とその背後(かつてはその後ろに神宮寺があった)の御神座(鉄塔に象徴される)の方向に諏訪大明神が鎮座しているのなら、4本の御柱の配置は、90度半時計回りに変更しなければならない。すなわち、現在の四の柱の位置に「一の柱」を、以下、一の柱の位置に「二の柱」、二の柱の位置に「三の柱」を、三の柱の位置に「四の柱」を立てなければ、われわれは「横を向いた神様」を拝んでいることになる。このような「横向きの神様」を拝んでいる例は、他にも、出雲大社や紀伊国の日前國懸神宮などがそうである。みなそれなりの"いわく"がある。




南宝殿と北宝殿の合間から磐坐が見える。磐坐の上に覆い被さって見えるのは、拝殿正面の唐破風

 しかし、この不思議を解決するヒントが見つかった。現在の拝殿の向かって右側の一段高くなったところに、「硯石」と称される磐坐があった。これが古代の「ご神体」だ。この磐坐に諏訪大明神が鎮座しているとすると、4本の御柱の位置関係は納得がいく。そして、御神渡りの諏訪湖から、参道を上がってきて、真正面に鎮座している磐坐を拝し、しかも、その遙か後方に借景として守矢の神体山がある。これで、位置関係は完璧である。ふと振り返ると、拝殿に正対して新築された参集殿の入口に、出雲大社を思わせる太い注連(しめ)縄が架けられており、その下には、あたかも大蛇が蜷局(とぐろ)を巻いたような大縄が祀られていた。やはり、諏訪地方に残されていた縄文神「ミシャグジ」の正体は「蛇神」だったんだ。なにしろ、古代における蛇信仰は世界共通だから…。


参集殿の大注連縄は、どう見ても大蛇が蜷局を巻いている姿に見える

 元日の「御頭祭」においても、祝詞に出てくるのは、建御名方神よりもこの「ミシャグジ」神が中心である。正月早々、神域を流れる小川の土手を掘り起こして、冬眠中の蛙(ニホンアカガエルらしい)を掘り起こし、それを串刺しにして神饌物として諏訪大明神に供えるそうだ。贄物として蛙を捧げてもらって喜ぶのは蛇くらいのものだ。おかげで、この小川は将来にわたってコンクリートによる護岸工事ができないらしい。御柱の先端が、「冠落し」といって尖っている理由は、恐らく、カミに何か(古代においては、たぶん8才の童子=「大祝(おおほふり)」)を生け贄として、串刺しにした名残かもしれない。「主幹の主観」シリーズの記念すべき第1作『神道と柱』において私は、「この国のカミは"柱"に宿る」と説いたはずだ。


御柱祭の際に、山から切り出された巨木を断崖絶壁から引きづり落とすポイントに立って

▼"日本"を形成した桓武天皇

  諏訪大社のことについて、中央(京都)で書かれた最も古い資料と言えば、足利尊氏らの活躍した延文元(1356)年に作られた『諏方大明神画詞』という絵巻物である。「諏訪」の字は、古くは「諏方」と書いた。建御名方神の末裔、諏訪氏は、日本最古の神社と言われる大和の大神(おおみわ)神社の神(みわ)氏と同族である。『諏方大明神画詞』は、諏訪出身の室町幕府の役人の発案で、尊氏や夢窓国師ら当代一流の人々が関わって作成され、天皇をはじめ公家たちの間でも広く読まれたそうである。その『画詞』に「御柱は桓武天皇の時代に始まる」というふうに書かれている。そこには既に、「寅(とら)申(さる)の干支に当社造営あり」と書かれてある。現在でも、御柱祭は寅と申の干支の年に行われるので、既に200回の回数を重ねてきたことになる。しかも、それは、単なる「立柱祭」というよりは、もっと大規模な「造営」であると、こう書いてあるわけです。そして、その造営のために「信濃一国の貢税、永代の課役を充当せよ」と書いてあります。常識的には考えられない、中央への納税よりも、わずか一社(上下諏訪大社)の造営のために、信濃一国から税金や課役を全部使っても良いとは、朝廷や幕府が、諏訪大明神に相当、気を使っていることの証明である。

  "日本"史における桓武天皇の最大の業績といえば、平城京からの遷都(784年の長岡京造営と794年の平安京遷都)と、蝦夷(えみし)の征討の2点である。桓武天皇が造営した平安京は、1868年の明治維新に至るまで1100年の長きにわたり、この国の「都」として栄えた。また、"征夷"大将軍坂上田村麻呂で有名な蝦夷征伐は、この国の中央政府の統治権が及ぶ範囲を飛躍的に広めた。これに匹敵する「領土拡大」は、おそらく19世紀後半の「大日本帝国」による"大東亜"進出まで待たねばなるまい。その意味で、桓武天皇はこの国の骨格を作った天皇と言っても過言ではない。桓武天皇は気力・体力ともに優れ、また壮年に至るまでの官人としての豊富な体験を持ち、治世の間、左大臣(内閣総理大臣に相当)を置くことなく、自ら強力に政治を指導し、独裁的権力を行使した。この点、極めて中華皇帝的で、わが国の歴代天皇の中では異色の存在である。平安時代末期に、独裁政権を確立した平清盛一門や、鎌倉時代に権力を壟断した北条氏などは、桓武天皇の子孫(桓武平氏)ということになっている。

  坂上田村麻呂は、それまでの蝦夷征伐(大伴家持や紀古佐美らの蝦夷征伐軍)が、蝦夷の名将阿弖流為(あてるい)のために相次いで失敗した後を受けて、桓武天皇から抜擢されて征夷大将軍として遠征に出かけ、数々の策略を用いてこれを破り、延暦20(801)年、ついに最果ての地、陸奥国の胆沢地方(岩手県)まで平定した。その遠征路がまさに「東山道」なのである。平安京を出発して、東へ東へと山の中をかき分け、近江国→美濃国→飛弾国→信濃国へと達した時に、征夷大将軍坂上田村麻呂は諏訪大社に参拝した。『画詞』によると、その時「伊那の大田切の辺で藍摺の梶の葉紋(神長官守矢氏の家紋)を着た武将が現れて、『これから先導し、お供します』と言って将軍に付いて行った。そうして流鏑馬の術をもって安倍高丸を射てとった」と…。そして、帰路では「将軍に先行して帰ってくる途中、佐久・諏訪の境の大泊というとこらへんに来ると『私は諏訪明神の使いだ』と言って姿を消した」とある。

  信濃国というのは、朝廷側から見て、まさに、蝦夷地の入口だったのである。ここから先は、上野(こうづけ)国と下野(しもつけ)国(元は、大和朝廷とは別の古代国家「毛野(けぬ)」国)、そして、出羽国と陸奥国(後世になって、陸前・陸中・陸後の三国に分かれたが、当時は、東北地方は十把一絡げだった)である。それにしても、この「東山道」という地域区分は興味深い。ちょうど1年前に上梓した『南海道:太陽と海の道』で指摘したように、「五畿七街道」のうち、東海道や山陽道などは、現在でも国土軸として通用する概念であるが、この列島に棲む民族の遠い祖先がポリネシアの人々に繋がっていることを示唆する「南海道」と、その先住民(縄文人→蝦夷・アイヌ)を朝廷勢力(天孫族の子孫)が駆逐していった歴史そのものである「東山道」の両者は、特異な存在と言える。ちょうど、天孫族によって出雲から追われた建御名方神が、こんどは諏訪の先住民守矢族を駆逐したことの繰り返しとして、坂上田村麻呂(桓武天皇政権)によってさらに奥地(「陸奥国」という地名からして、これ以上の先はないというイメージがある)へと追いやられた蝦夷の人々の身に起きた悲劇とも言うべき、もうひとつの「国譲り」神話と言えよう。


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