レルネット主幹 三宅善信
▼"憂国の士?"最後のご奉公
まもなく参議院選挙である。政権成立から3カ月も経過したというのに、未だに支持率80%台という小泉"お化け"政権が、国民から受ける最初の審判である。わずか数カ月前の森前政権の頃は「自民党アレルギー」で必敗と思われていた――それ故に、比例区で「自民党」と書かなくてもよい(非拘束名簿式)ようにゲリマンダー的制度改正をした――自民党が、今度は小泉人気の「追い風」選挙で損をしている。前々作の『祀られるべきはA級戦犯?』で指摘したように、相当予想されうる「小泉純一郎」や「田中眞紀子」と記された無効票が大量に出るのと対照的に、「大橋巨泉」と記された民主党票に喰われることであろう。
大橋巨泉氏は、ここ数年間、雑誌『週刊現代』の連載エッセイ『内遊外歓』を通じて、自民党政治を徹底的に批判してきた。日本中が小泉政権誕生(経世会支配の終焉)に沸き立った時点から、同氏は、「日本の沈没はいよいよ確定的になった」と批判した数少ない一人である。長年私は、『週刊現代』出版元の講談社編集部から毎週、同雑誌を寄贈してもらっているので、大橋巨泉氏の主張については、概ね把握しているつもりだ。ニュージーランドで悠々自適のセミ・リタイア生活(一種の「me-ism」)を楽しんでいるはずの巨泉氏が、これまでにも、いろんな政党からの「立候補」要請を何度も断ってきたのに、今回に限って、"憂国の士(?)"根性を発揮して(本人の弁によると、長年支持してもらった日本国民に「最後のご奉公」らしい)、小泉異常人気に「待った!」をかける役を引き受けたのである。今回、私は、小泉純一郎と大橋巨泉という両"憂国の士(?)"を取り上げて、両者の危うさについて考察を進めてみたい。
▼『ガリバー旅行記』の謎
皆さんの中で、『ガリバー旅行記(Gulliver's Travels)』の話を知らない人はいないであろう。1726年に、アイルランド人ジョナサン・スウィフトによって出版された文明批評小説である。しかし、人間不信が原点のようなこの本は、どういう訳か、後に「童話」として高く評価され、日本人のわれわれでもよく知っている物語となった。中でも、船乗りガリバーが難破して辿り着いた島が、なんと「小人=こびと(この言葉は"差別"用語になるらしく、パソコンのキーを叩いても出てこない! そういえば、洞窟に棲む甲虫類で「メクラチビゴミムシ」というのがいたけれど、この昆虫なんか「言葉狩り」によって存在そのものが抹殺されてしまうのだろうか?)の国」だった…。という話は、私も子供の頃、童話で読んだことがある。ゴジラのように町並みを見下ろしてノッシノッシ歩き回るガリバーの周りで逃げまどう小人たち…。そういうイメージでこの物語の場面を想像したものだった。狡猾な小人たちの他にも、「小人の国」の逆バージョンである「巨人(といっても、わがままやりたい放題のプロ野球チームじゃない)の国」の話もあった。因みに、経済学用語で、ある分野を寡占している企業のことを「ガリバー企業」と呼ぶ。
しかし、どう考えても、パッと内容を思い出すのこの2つの話だけで、これじゃまるで社会風刺にもなっていないし、単なる童話である。しかし、『広辞苑』で「ガリヴァー旅行記」の項目を引いてみたら、「スウィフトの小説。1726年刊。ガリヴァーの小人国・大人国などの遍歴紀行に託し、当時の堕落・腐敗した社会や人間を痛烈に風刺したもの」と書いてある。原作では、もっといろいろな国を遍歴した風刺"小説"のはずである。たしか「変人の国(?)」とか「馬の国」とかの話があったはずである。そこで、もう少し詳しい資料で調べてみると、ガリバーが旅行した国(厳密には「島」)は、7つもあった! それにしても、懲りない男であるこのガリバーは…。普通、「死にそうな恐い目」に遭ったら、もう二度と旅になんか出ないものだが、彼は何者かに"憑かれた"ように、不思議な島への旅を繰り返す。そこで、まず、それらの「島」のひとつひとつを取り上げて、概略を記す。
まず、最初は、最も有名な『小人の国渡航記(Voyage Lilliput)』である。日本へ本格的に『ガリバー旅行記』を風刺小説として紹介した人は、なんとあの明治の文豪夏目漱石である。そういえば、漱石の代表作『我輩は猫である』も同じような感じのする小説である。アイルランド愛国者であったスウィフトは、この「小人の国」の話を通して、当時の英国政治(権謀術数、奴隷制度、植民地主義、宗教対立等)への皮肉を込めた。スウィフトは、若い頃にイングランドへ出て、政治家の秘書と勤めた後、神学校で学び、英国国教会の司祭になった。因みに、この「小人国」は産業革命を経験した工業国であった。
次に、『巨人の国渡航記(Voyage Brobdingnag)』である。巨人の国は、農業で成り立ち、宮廷でも農夫でも家庭がきちんと存在し人々が温かく親切である。英国社会の縮図として諷刺した小人の国と対照的で、この巨人の国にユートピアに近いイメージを持っていたのかもしれない。スウィフトはここで、小さき者(弱者)にとって、大きな者(強者)の存在が、存在していることそれ自体がいかに潜在的恐怖を与えていることか、また、いかに弱者のことが理解されないか、配慮されないかを訴えようとした。当時のアイルランドとイングランドの力関係が想定される話である。
▼『天空の城ラピュタ』と、ピュタゴラスと売春婦
ここからが、問題の「変わり者の国々」シリーズである。第3編『空飛ぶ島渡航記(Voyage A Laputa)』に登場する国々は皆変わっている。この航海でガリバーは、まず、「空飛ぶ島Laputa」とその地上での反映である「Balnibarbi」を訪れる。そう、あの宮崎駿監督作品の映画『天空の城ラピュタ』のLaputaは、『ガリバー旅行記』の3番目の話から取られているのである。因みに『風の谷のナウシカ』のNausicaaは、ホメロスの『オデッセイ』に登場する4姉妹のうちのひとりである。この4姉妹には、あの『サンダーバード』に登場したペネロープという女性もいる。もちろん、アーサー・クラーク原作、スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作『2001年宇宙の旅(2001
A Space Odyssey)』もこの『オデッセイ』から取られているのはいうまでもない。
このラピュタ(空飛ぶ島)は、ピュタゴラス学派(古代ギリシャにおいては、数学と天文学と音楽の宇宙的調和を説くピュタゴラス学派は、一大宗教・政治勢力ともいえる集団であった)のインテリたちが支配する世界で、常に天体の動きを観測し、数学や音楽の理論的整合性や幾何学的美しさ、アルゴリズムの簡潔性などを議論していて、理論的整合性のとれない現実問題は、切り捨てられ、初めからなかったことにされてしまう。また、このラピュタでの出来事は、バルニバーニ(地上の島)に影響を与え、合理主義の理念に基づいた現実の改革が求められ、現実の苦悩を「あるべき姿」への過渡期と考える風潮が支配し、市民に「痛みに耐える」ことを強要する。しかし、"現在"を"未来"の手段としてしか考えないため、庶民の心は荒廃している。また、バルニバーニでは、情報処理の方法論や言語の単純化といった興味深い「実験」が行われているが、本件についての論考は、また機会に改めて行いたい。私は、このLaputaは、「ピュタゴラス(Pythagoras)の国」という感じの造語(欧州語では、国名は女性名詞)と解釈しているが、これがもし、スペイン語だったらお笑いだ。La(女性名詞の定冠詞)+putaは「ザ・売春婦(puta)」になるからだ。
▼歴史と個人を相対化する視座
次にガリバーが立ち寄ったのが、「死者を蘇(黄泉帰え)らす国(Glubbdubdrib)」である。"現在"は、"過去"から連綿と続く死者との連続性の中にあり、歴史は、死者たちとともに作られる永くて広大な世界である。しかし、"過去"は、常に現在に生きているものに都合の良いように改編されるのが常である。もし、死者が蘇って、"事実"を洗いざらい暴露したら、えらいことになる為政者はたくさんいるであろう。そう、現在まで残っている歴史とは、ほとんど"勝者"に都合の良い歴史のみである。何も、半世紀前の「極東軍事法廷(東京裁判)」を持ち出すまでもない。現在ハーグで、まさに進行中のミロシェビッチ前ユーゴスラビア連邦大統領の「人道に対する罪」を裁く戦争犯罪人法廷しかりである。日本人は、この裁判の行方をもっと注意深く見てゆく必要がある。ベオグラードの空爆で家族を殺されたセルビアの一般市民が、当時の米国の最高責任者であったクリントン大統領を訴えても無視されるであろう。立場を逆転させてみれば、物事の背景がよく見えてくる。スウィフトは、死者を蘇らせることで"現在"を相対化しようとしたのである。
その次にガリバーが立ち寄ったのは「不死の国(Luggnagg)」である。人間誰しも"永遠のいのち"を願うものであるが、よく考えてみれば、「死ぬことができない」のも悲劇だ。永遠の若さと富を保って長生きできるのなら、それはそれなりの意味があるかもしれないが、それでも、自分の周りにいる親しい人々がどんどと年齢をとってゆき、自分だけが取り残されるのは辛いことだと思う。また、自分の加齢現象が進行しながら「死ねない」のなら、見苦しく不気味な存在になるだけだ。科学技術の進歩と、それに追いついて行けない倫理がもたらす問題として、生命維持装置によって「生きながらえ」させられている人が実際、大勢いる。あるいは、痴呆老人となって徘徊し、「いったい、うちの婆(爺)さんいつになったら死ぬんや」と思われている年寄りも多い。スウィフトは、300年も前に、今日のポスト・モダン社会を予言していたかのようにも思われて興味深い。
▼『ガリバー旅行記』に登場する江戸時代の日本
そして、いよいよ、『ガリバー旅行記』に登場する国(島)の中で、唯一実在する国「日本(Japan)」の話でである。スウィフトは、いつどこで日本に関する情報を手に入れたのであろうか? 英国における最初の日本研究の出版物といえば、ケンペルの『日本誌』が真っ先に思い浮かぶが、この本が出版されたのは、『ガリバー旅行記』が出版された翌年の1727年のことである。つまり、ネタ本として使うのは物理的に不可能なのである。ただ、1690年にオランダ船(鎖国政策により、欧州諸国で日本と交易できたのはオランダのみ)の船医として日本に渡来し、2年間滞在したケンペルの体験談は、当時、結構、その手の関心のある人々の間では有名だったのかもしれない。ラピュタの指導者たちも、江戸の徳川将軍とコンタクトを取っていたそうだ。
ここで面白いのは、ガリバーは江戸に上陸して(紅毛人は長崎の出島のみ滞在を許されていたにもかかわらず)いたことだ。ガリバーは、日本に来る前に立ち寄ったLuggnagg(不死の国)の国王の親書を徳川将軍に奉呈しようとしている。ところが、日本人は、ガリバーに対して、「切支丹でない証を示せ」と"踏み絵"を強要してくる。ガリバーはこれを嫌がって問題を起こしたので、オランダ人に化けてそそくさと帰国してしまった。当時の欧州人にとっての日本のイメージが現されているのかもしれない。空想で物語を作った13世紀のマルコ・ポーロと異なり、スウィフトが生きた時代は、既に百年以上にわたって欧州と日本との交流があったはずである。イエズス会のザビエルのような大物も来日し、日本についての数々の実地報告が欧州へ送っている。また、繊細な陶磁器や絹織物、浮世絵や歌舞伎などの芸術性、さらには、ポルトガル人から習得した鉄砲の製造技術においても、わずか十数年で彼らに追いついていることをみれば、日本という国は決して「未開の野蛮国」ではなく、欧州人とは文化的・宗教的社会規範が異なるだけの「別の文明国」であったことは明らかである。
しかも、この事実は、唯一の神を奉じる彼らに大きな衝撃を与えたに違いない。ルターに始まる「宗教改革」による欧州での「失地回復」を目的として新大陸へと展開していったカトリック勢力が、世界の果てにある日本という国で目にしたものは、ルターよりも300年も以前にルターと同じ教説(罪深い人間が救済されるには、絶対者に対する「信仰のみ」の帰依的態度である)を説いた浄土真宗の存在であった。ガリバーの第3編「変わり者の国々シリーズ」は、日本への旅を最後に終了している。
▼自らの存在の意味を問う存在が人である
そして、『ガリバー旅行記』最終編である、第4の旅が始まる。名付けて『フイヌム国渡航記(Voyage Des Houy Hnhnms)』である。一般には、『馬の国渡航記』として知られている話である。この話は、別の意味で、そこそこ知られている。ガリバーが漂着した「馬の国」は、見かけ上は"馬"であるが、高度な理性を持った生物である"フイヌム"と、見かけ上は"人"であるが、知性のない(動物的本能のままに生きる)生物である"ヤフー"との話である。人間と動物の立場を入れ替えることによって、何が人間にとって本質なのかを考えている話である。読者のほとんどが、"ヤフー"と聞いて真っ先に思い出すのが、インターネットの検索サイト"Yahoo"であろう。そう、この"Yahoo"なる言葉は、この『フイヌム国渡航記』から取られた言葉である。一般に"Yahoo"は「ならず者」の意味であるとして知られているが、明らかに、"Yahoo"の命名者は「家畜人Yahoo」を意識して付けた名である。世界中のコンピュータの中を、奴隷のように駆けずりまわって、命令されたある単語を検索してくるのだから…。
フイヌム国では、見かけ上は馬であるフイヌムによって、見かけ上は人であるヤフーが奴隷的に使役されている。そこへ、理性を持ったヤフーであるところのガリバーが漂着する。フイヌムは最初、このガリバーの存在に驚き、野蛮な生き物であるヤフーの一掃を計ろう(男と女を分けて子孫を残せないようにする)としていたことに疑問を持ち出す。この話って、まるで映画『猿の惑星(原題は、「類人猿の惑星」Planet
of the Apes)』そのものである。『猿の惑星』については、近々、別の機会で触れることにしているから、ここでは問題点を指摘するだけに止める。ただ、ここで指摘しておきたいことは、"人間"の定義は、「自らの存在の意味を問う存在が人である」ということである。見かけや素材は関係ない。映画『メトロポリス』の少女ティマも『A.I.』のデイビッド少年も同じことである。逆に、いくら見かけが人であったとしても、「自らの存在の意味を問わなければ」それは、単なる"肉の塊(flesh)"である。何が正常で、何が異常かを見分ける一番簡単な方法は、両者の立場を入れ替えてみればよい。
▼「借り物」の民主主義
スウィフトが『ガリバー旅行記』で書きたかったテーマは、国家論そのものであったのだ。翻って、わが国の政治的状況はどうであろう。相変わらず「骨太の改革」などという訳の分からない言葉が一人歩きしているムード選挙に突入しようとしている。自民党は、いかに「国益に反するドジ」をやっても、参議院選挙が終わるまで主婦層に圧倒的な人気のある田中眞紀子外相の頸を切ることができないし、タレント選挙に反対していたはずの民主党が、大物タレントの大橋巨泉氏を担ぎ出すことによって、これまた"空気"が先行する政治的意志決定を行おうとしている。今から、十年後二十年後に、2001年という年を振り返って、「おまえはその場にいなかったからそんなことを言えるかもしれないが、あのときは(抗しがたい)ああいう空気だったんだ」などという太平洋戦争突入の時と同じような、誰も責任を取らない体制が支配しているように思えてならない。
リストラに苦しめられる一般のサラリーマンからしたら、想像もつかないような「リッチなセミ・リタイヤ生活」を送っている大橋巨泉氏に、何ができるものか。というのが、彼に対して否定的な意見を持つ人々の一般的な評価かもしれないが、私は巨泉氏の言説について、もうひとつ指摘しておきたい。同氏は、理想的な政治形態として、英米型の二大政党制を挙げている。「ともかく、政権が腐敗・堕落するのは、ひとつの政党(自民党のこと)が長年与党であり続けて、政権交代が行われない構造になっているからだ。自分(巨泉氏)は、民主党の政策に何から何まで賛成という訳ではないが、ともかく、政権交代が行われることが、唯一この国を救う方法だ。だから、野党第一党である民主党に協力する」という考え方が、彼の根本理念である。
確かに、巨泉氏は、海外での生活経験が長いという点では、一般の日本人よりもはるかに、「世界の常識」であるところの民主主義について側聞している(長年その国住んでいても、巨泉氏は日本人なので、当該国の選挙権はなかったはず)に違いない。しかし、彼がこれまでに暮らしてきたシアトル(アメリカ)、バンクーバー(カナダ)、ゴールドコースト(オーストラリア)、クライストチャーチ(ニュージーランド)等の街は皆、アングロサクソン系の人々が先住民を追っ払って、人工的に造り上げた国家の街ばかりである。議会制民主主義、政教分離、政権交代可能な二大政党制等々、耳障りのいい言葉ばかりが踊っているが、彼が理想としているこれらの国々は皆、ある特定の主義主張を有する人々が集まって人工的に造り上げた国家であり、それらの歴史は、一番長いアメリカ合衆国でも、わずか225年しか経っていない。縄文時代以来、数千年の歴史を有し、自分たちが気が付いた時には既に、この島国に"日本人"として暮らしていた人々とは、行動原理が異なっていて当たり前である。
しかも、巨泉氏の経験してきた民主主義国家は皆、伝統的な欧州の"本家"から分かれて、貴族制度も国教会制度といった「くびき」を持たない、いわば"民主主義の実験国家"に過ぎない国々である。そのような借り物の論理で日本の政治が務まるとも思えない。これまで、当『主幹の主観』シリーズで再三指摘してきたように、ことの善し悪しは別として、スウィフトですら驚きの目でもって取り上げたこの国には、議会制民主主義の前提となるべき、「自らの自由意志による判断に責任を持つことにできる確立した個」というものが確立されていない以上、いくら北米(オセアニアも)型の民主主義を振りかざしたって、なんら効果を挙げることはできないであろう。「小人の国と巨人の国の変人対決」ではないが、「小泉VS巨泉」の対決、どういう目がでるかとくと楽しみにしている。