天地の間の距離はわずか2マイル?
|
|||
レルネット主幹 三宅善信 ▼インド的"天"と日本的"山" 過去二十数年間に八十数回海外での国際会議に出かけたので、各航空会社のマイレージは山ほど貯まっているが、高度33,000Ft(約10,000m)の上空を飛行するジェット機の窓から外を覗いていていつも思うことがある。いったい、古代の人々――別に古代でなくても、20世紀の初頭に飛行機というものが発明されるより前の時代に生きた人々――は、「天(heaven)」というものの標高を実際、どれぐらいのところに想定していたのだろうか? もちろん、観念的な思考法を得意とするインド人などは、日本にも仏教として伝わった思想などを見ていると、宇宙の中心にある須弥山(しゅみせん=メソポタミアの古代文明シュメールから想定された?)という超高山(頂上には帝釈天が住む)が存在し、その上空に、それぞれの段階の"天"があって、その距離はというと、まるで、あたかも銀河の果てまでの距離を想定しなければならないような膨大な数字を想定している(まさに「摩訶不可思議」だ)。 しかし、これはあくまでインド人的「観念」の世界の話であって、実感の話として、一番近い"天"の下限はいったいどのへんの距離にあると考えていたのかを疑問に思う。もちろん、観念論を嫌う日本人は、こんなことは考えもしなかった(一般に受け入れられなかった)のであるが、それでも、日本で広まった浄土教の考えでは「西方十万億土」という極楽浄土を想定している。私は、そのような観念上の膨大な距離とは別に、現実の感覚における高さの限界というものについて関心を抱かざるを得ない。 太古の昔から、人間は垂直に伸びるものに至高の価値観を抱き続けてきた (『神道と柱』参照) 。インドのストゥーパしかり、中世のゴシック建築しかり、インディオのトーテムポールしかり。人間は「homo erectos」と言われるごとく、すべからく真っ直ぐ立ち上るものに、崇敬の眼差しを注いできたのである。そのことを典型的に現したのが、「バベルの塔」の物語である。それでは、いったい、具体的にどれぐらいの高さ得ることができれば"天"に達することができるかを人間が実感として意識していたかとなると、話は別である。例えば、死後、霊魂の赴く世界(いわゆる「あの世」)にしても、(この世から)どれくらいの距離が必要なのかについては、具体的にはあまり考察されていないような気がする。 われわれ日本人の古来より抱いてきた世界観では、例えば、放蕩息子を諫めるときに「そんなことをしていると、死んだお爺ちゃんが草葉の蔭で泣いているぞ」という表現をするように、そんなに隔絶したところでない、現実の生活空間とすぐ近いところに祖先の霊や、神仏の住む世界というものを想定していたように思う。確かに、浄土教は、教えとしては「西方十万億土の極楽浄土」を、あるいはその裏返しとしての「(信心決定しなかった者の行く)無間地獄」を説いていたが、それはあくまでも教義上でのことで、実際感覚では、万燈供養や施餓鬼などが盛んに行われたところをみると、死者の霊魂はその辺り(見える範囲、届く範囲)にいなければ効果が期待できないではないか…。そういえば、死者を送る場所も、人の住む領域である「里」と、鬼神の棲む領域である「山」の中間領域である「野」に葬られることが多かった。京都では、古来、死人は「鳥辺野(とりべの)」や「化野(あだしの)」に葬られ、世捨て人は「大原野」や「嵯峨野」に住まったものだ。
その天橋立を山の上から見物して、また実際に、白砂青松の天橋立(地学的にいえば「砂州」)を歩いてみて思った。読者の皆さんは、「どうして(このような変わった景色である)天橋立ができたのか?」という由緒譚(ゆいしょたん)をご存じであろうか? 神代の昔、天津神の住まう高天原(たかまがはら)と、国津神や人々に住む葦原の中津国の間を、伊弉諾尊(イザナギ)が大きな梯子を架けて、行ったり来たりしていたそうである。ある時、イザナギがうっかり昼寝をしている隙に、その梯子が倒れてしまった。その倒れてしまった梯子が天橋立になったというのである。天橋立の観光パンフレットに書かれてある解説を読むと、天橋立の長さは、メインの大橋立と対岸から伸びている小橋立を加えて3,2kmということになっている。 とすると、地上(この世)から高天原(あの世)まで続いて垂直に立っていたという梯子が、横向きに倒れて水平になった時の長さが3,2kmということは、天と地との距離がわずか3,2km、英米式で言えば、2milesしかなかったということになる。たしかに、私が天橋立を訪れた時には、今年の夏にしては珍しく天気が悪かったので、天橋立から周りに見える山々を見てみると、山の途中にガス(霧? 雲?)がかかって、頂上が見えない。古代の人から見ると、あの八雲立つ山の頂きは天に通じていたと認識してもおかしくなかったであろう。日本一高い富士山は3,776mの標高があるが、これなんぞ、「霊峰」と言われるだけあって、常に頂が天に続いていると、理解されていたと考えてもおかしくはない。それにしても、いくらなんでも、神様の住む世界とわれわれの住む世界との間の距離が3,2kmというのは近すぎやしないだろうか? しかし、一概にそれがそうともいえないのである。
お盆の季節であるが、日本では、お盆の期間中に、亡くなった祖先の霊がこの世に戻ってきて、家族や残された子孫達と再会するということになっている(それ故、交通渋滞を押して帰省する)が、「地獄の釜の蓋が開く」という盂蘭盆のことを考えてみるがいい。伝統的な仏教の理解によると、極楽往生した死者の霊は、西方十万億土の浄土(異次元=Other World)に行ってしまっているので、この世に残された子孫達が、いくら亡くなった先祖の霊に会おうと思っても無駄である。また、同様に、地獄(異次元)へ墜ちた祖先の霊たちもこの世からは如何ともし難い。「施餓鬼」なんてナンセンスもいいところだ。金品の力でこの世から地獄の餓鬼が救えるのなら、地獄へ堕ちるのなんて恐くも何ともないではないか。明らかに、仏教の教義と矛盾している。 しかし、われわれ日本人の行動はどうであろう。お盆になると、それぞれの家の神棚にお燈明を上げ、仏壇に線香を立て、お菓子や果物などのお供え物をたくさんして、先祖の霊を迎えるではないか。燈明や線香は、「○○家のご先祖に霊さん、ここで○○家の先祖供養をしているのでお越し下さい」という合図である。先週(8月8日)、辯天宗(大阪府茨木市)の『万燈会大法要』に招かれたが、ここでも、たくさんの燈明が焚かれ、きれいな花火が夜空を焦がした。ということは、線香の煙や蝋燭の火、あるいは花火が見える範囲内に先祖の霊がいなければ、これを目印とすることは難しいということである。ちょうど、夜の飛行場を連想してもらいたい。夜間に発着する航空機は、ラジオビーコン(誘導用の電波)と空港の滑走路に点灯された照明の光を目指して天空から着陸してくるのである。 仮に、先祖の霊が辺りをうろついていたとしても、燈明や線香の煙の届かない範囲外からでは、それぞれの家に戻って来ることはできないではないか。逆に言うと、先祖の霊は、仏壇の線香の煙や、神棚の燈明の光が見える(匂いが嗅げる)距離にいるということになる。そこで、放蕩息子を諫める「草葉の蔭で泣いている」という表現が可能になるのである。このような表現は、先祖の霊魂がすぐ近くにいるということを想定している。本日は、京都五山の送り火(いわゆる「大文字焼き」)が行われるが、これなんぞもそのような例である。京都の町々の人々は、お盆で帰ってきた先祖の霊を懇ろに供応してからまた送り出すわけであるが、京都盆地の中(市内中心部)からしか見えない山々の斜面に描かれた松明の炎で送るということは、やはり霊の住む世界は京都盆地の上空ならびに盆地を囲む山々の斜面ということになる。大阪市内の私の家からは、決して「大文字送り火」は見えないのである。
約1,900年前の漢代に創られた辞書『説文解字』によると、「魂」という字は、「云(うんぬん)」という字と「鬼」という字が合体した字である。旁(つくり)の「鬼」の部分は日本語では「おに」というが、中国では「鬼籍に入る」の「鬼」のことで、死体のことである。「云」の部分は「雲」という字の下の部分と同じで、そこら辺にフアフアフアと浮いているものという形象を表わしている。つまり、「人の魂は、死後も呼びかければ聞こえるくらいの距離でふあふあ浮いているもの」というのが、「魂」という文字の前提である。因みに、「魄(はく)」の「白」は骨のことだから、「魄」は遺骨そのものである。すなわち「魂魄この世に留まりて…」という会談モノの世界である。だから、日本人の考えている世界観というのは、すごく限定的な自分の視覚や聴覚で認識できる範囲内で、リアリティーのある世界として知覚したのである。当然のことながら、天橋立の長さである3,2kmがあれば、十分、高天原(世界の端)まで届いたのである。 ▼丹後国は鬼の住処? 天橋立といえば、あまりにも有名な小式部内侍が詠んだ和歌がある。「大江山 いくのの道の遠ければ まだふみも見ず 天橋立」母親の和泉式部の後を受けて、同じく中宮彰子のサロンに入った小式部内侍――和泉式部の娘なので小式部と呼ばれた――は、15歳の時に歌合わせの歌の初出典を命じられた。彼女は、美貌も才覚も優れていたので、藤原道長の息子、二条関白藤原教通の妾となって子供まで産んだ。小式部内侍が歌合わせに呼ばれた時に、当時の和歌の名人と呼ばれた藤原定頼が、彼女の局の前にやってきて、「丹後の国におられる母上(和泉式部)の元へ、もう使いは遣わしましたか? (代作してくれる母の)返書はまだ届きませんか? さぞ心細いでしょう」とからかった。というのは、彼女は若くして才能を発揮していたので、人々の噂では、名人と言われた母の和泉式部からこっそり教えてもらっているということだったからである。 その時に、小式部内侍はすぐにその場で返歌を詠んだ。その返歌というのが、この「大江山 いくのの道の遠ければ まだふみも見ず 天橋立」という名歌である。母和泉式部のいる丹後国の地名、生野と行くのを掛け、踏むと文(ふみ)とを掛けて、「母からは手紙さえもらっていません。母の力を借りずとも大丈夫です」という、瞬時にしてそのようにウイットに富んだ返事をしたので、さすがの名人藤原定頼も、返歌も出来ずにすごすごと逃げたというエピソードが残っている。私も、『百人一首』を覚えて以来、三十数年来の念願が叶って、やっと天橋立を踏むことができた。 この地方には、由良川河口部を舞台にした説話『山椒太夫』で有名な安寿と厨子王姉弟の話や、大江山の『酒呑童子(しゅてんどうじ)』の鬼退治の話があるが、これを愚息たちにしてやったら、たいへん興味を持ってくれた。大江山に棲んでいる鬼とはいったい何者であったのだろうか。先述した「魂」という字の旁「鬼(き)」ではなく、日本で言うところの「鬼(おに)」である。「鬼」については、いずれ日を改めて論じたいが、日本では、鬼もまた、この世の中に棲んでいる存在だったのである。京の都のすぐ側にいて、時々、清水寺の参道にも現れた(『一寸法師』の鬼)。その鬼の本拠地が、この丹後国だというのである。
同じく昔から気になっていたことのひとつに、『桃太郎』の鬼退治の話があるが、この鬼退治の話に出てくる「鬼が島」という「島」は、子供の頃は、islandの島のことだと思っていたが、今になってよくよく考えてみると、「島」はやくざの縄張りなどの意味に使われる「シマ(territory)」という意味である。鬼が島の「が」は、わが国の「が」と同じで、「の(属格)」意味であるから、鬼のシマ、つまり、鬼の領域だということである。つまり、人間が優位な里の世界でなくて、鬼が優位な山の世界というか、人間社会の周縁部があって、霊的存在も、実はこの世におけるmarginalな領域に生息するのである。天橋立の比喩でいえば、わずか3,2kmの高さしかない高天原といったような、この世の中の一部の少し離れた場所という感じで鬼が生息していたということである。 丹後国には、「元伊勢神宮」と呼ばれる興味深い神社、すなわち、丹後国一宮である「籠神社(このじんじゃ)」がある。この神社の社家である「海部(あまべ)」氏の家系は、『日本書紀』の皇統譜(天津神の系譜)を揺るがす可能性があり、また、伊勢の神宮がなぜ、1,300年来あのような形で祀られるようになったのかを解き明かすかもしれない。京都府北部の丹後半島から車を一路東へ向けて走らせ、福井県側に入ると、「原発銀座」と呼ばれるような入り組んだ若狭湾の風光明媚な海岸線が続くが、その中に常神半島という半島があった。 名前に引かれて行ってみると、確かに、何やら神話の世界を想像させそうな景色であった。沖には島がたくさんあり、こちらから見ていると、どれが島で、どれが半島なのかよく判らない(それ故、ときどき"不審船"も現れる?)。もちろん、現代のわれわれには地図というものがあるので、この部分が半島でこの部分が島ということが判るのであるが、そのようなもののない古代の人から見ると、どこまでが半島でどこからが島で、あるいは、どこまでが日本でどこからが外国だということが、よく判らないような複雑な地形である。この辺りには「神」のつく地形がたくさんある。きっと、古代においてはそういう場所だったのであろう。最後に、三方五湖の縄文遺跡を見学して、日本海側の越前若狭と近江国、京都を繋ぐ、「鯖街道」に車を走らせて大阪まで戻った。
|