鎮魂:日本型危機管理術
01年09月18日


レルネット主幹 三宅善信

▼バーチャルな戦争から現実の戦争へ

 今回のイスラム原理主義勢力によると見られる同時多発テロ事件は、世界を震撼させた。あの世界貿易センタービルが崩壊する映像の凄まじさと同時に、21世紀の戦争が、これまでの20世紀の戦争、すなわち「主権国家」対「主権国家」による戦争――敵と味方とに別れてはいても、共通のルールを持って戦われる戦争――とは異なった戦争の世紀に突入したということを人々に実感させた。実は、これらの戦争は、米ソ冷戦に勝利した超大国アメリカが、軍事・経済「一人勝ち」になったところから始まったと言える。ICBM(大陸間弾道ミサイル)や戦略爆撃機といった主権国家同士の正面切った戦争が難しくなり、またそのような大規模な戦力を持つことが不可能な少数民族や狂信的原理主義集団が、大国アメリカと戦う方法はひとつしかない。すなわち、相手の懐に飛び込んで、今回のように自爆テロを行なうのが、最も費用対効価ということから考えても有効な方法であることが、いみじくも実証されてしまった。

 湾岸戦争で圧倒的な軍事力を誇ったアメリカ(形式上は多国籍軍)が、遂にフセイン政権を打倒できなかった理由は簡単である。アメリカ人は、自らの血を流すことを怖れて、巡航ミサイルだのステルス爆撃機だの、いわば「ボタンを押すだけ」のビデオゲームの中と同じような戦争をしたからである。もちろん、攻撃された側の民衆は、まさに阿鼻叫喚地獄、多くの人がいのちを落とし、傷付き、また、都市・社会基盤が破壊されたが、結局のところ最終的に戦争を終わらすためには、敵の本拠地に乗り込んで行き、地上戦で味方にもたくさん犠牲を出す以外にないということが証明された。当然のことである。最新鋭の兵器によるバーチャルな戦争と異なり、生身の人間同士が戦うのであるから、先進国も途上国もほとんど関係ない。血を流した結果、敵の本拠地を制圧し、敵の首謀者を捕まえる、もしくは殺す以外に戦争を終わらせる手はないのである。湾岸戦争から10年を経て、フセイン大統領がなお健在なことを見ても、アメリカの地上戦なきバーチャル戦争が、決定的に勝利を収さめられないことは、実証済みである。

 今回の同時多発テロ事件に対する「報復攻撃」とアメリカは主張しているが、そのことは同時に、これまで10年間アメリカが繰り返してきた戦略では勝てない。相手を根絶することはできないということを意識してのことである。アメリカが地上戦を避けたのは、自国民の人命を何よりも尊いと考えたからであろう。しかし、相手は「いのちも軽し」である。信仰を守るために自爆することこそ、神によって祝福される道だと信じている者とは、初めから気概が違う。もちろん、外部からのミサイル攻撃等に関しては、十分な防衛網を敷いているであろうが、アメリカ人の市民生活に混じって、なおかつアメリカは典型的な多民族国家であるので、どのような人が紛れ込んでも識別しにくい。日頃は善良なアメリカ市民になりすましたテロリストが、アメリカ各地で――あるいはアメリカでなくても西側同盟国の中でもいいのであるが――自爆テロを敢行されたら、予防する手はない。ここに、いわゆる危機管理の問題が生じる。


▼ミツバチの巣作りまで日本的

 日本の国の危機管理体制がなっていないということは、多くの人が指摘するところである。もう30年も前にイザヤ・ベンダサンが著書『日本人とユダヤ人』の中で指摘したあまりにも有名な言葉「日本人は、水と安全はタダだと思っている」に指摘されるまでもなく、それから30年の月日を経て、その間に石油危機も連合赤軍によるハイジャック事件も、湾岸戦争も、阪神淡路大震災も、オウム真理教の地下鉄サリン事件も、北朝鮮の不審船騒ぎも行なわれ、その度ごとに危機管理体制が必要だということは声高に主張されたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、ほとんど根本的な解決(新たな立法措置)がなされていない。今回の米国同時多発テロ事件の時にも、小泉総理大臣や福田官房長官以下、安保保障担当の閣僚らが、それなりの設備を備えた官邸の危機管理対策室(situation room)に集まっていたようだが、危機管理体制がなっていないことについては、『そして、バベルの塔は崩壊した』で、指摘した通りであるが、今回は少し視点を変えて、「なぜ日本は危機管理ができない国なのか?」ということについて、考えてみたい。

 ここに、ある興味深い話がある。養蜂業者から聞いた話であるが、日本産のミツバチの営巣と、ドイツ産のミツバチの営巣を比べたそうである。養蜂業者によると、日本のミツバチのほうが、ドイツのミツバチに比べて、はるかに速く巣を造るそうである。しかし、細部(巣の端のほう)が少しルーズに造られているということである。一方、ドイツのミツバチは、時間を掛けてがっちりとした巣を造る。

  昔から、地震・噴火・台風など自然災害が多い日本では、人々は堅固な建物を建造することに執着しなかった。縄文人以来1万年以上、このような自然環境下――すなわち、破壊と再生の回転が速い環境下――で生活する日本人の意識に、風土が与えた影響は大きい。有名な例は、石でできたパルテノン神殿と、白木造りの伊勢の神宮の比較であるが、このことは、ミツバチの営巣についても言える。いくら堅牢な巣を作っても、一度台風が来たら巣のある樹木ごと倒れてしまう可能性のある日本においては、ミツバチは堅牢な巣を造るよりも、壊れたらまたすぐに造り直すという戦略を授かっているのである。

 一方、先のドイツから持ってきたミツバチは、時間がかかっても堅牢な巣を造るそうである。しかし、面白いことに、ドイツ産のミツバチも、日本で3世代飼うと――もちろん日本のミツバチと交配しなくても――日本のミツバチのようなスクラップ&ビルドの回転を速くする方式に変ってくるそうである。興味深いではないか。自然の破壊力と同時に再生力というものを、ある意味で素朴に信じている日本人の精神構造については、かつて『速佐須良比賣(はやさすらひめ)のお仕事』において論述した通りである。


▼日本では、人為<自然現象: 米国では、自然現象<人為

 現在、NHKの大河ドラマで『北条時宗』が放送されているが、「元寇」という日本の歴史上空前絶後の「外敵によって日本が蹂躙されるかもしれない」という国難に対して、当時の日本人はどういうふうに対応したのか、ということをテーマに取り上げた作品である。しかし、このドラマを見ていて、私はある面白いことに気が付いた。ドラマの中で、京の朝廷も、鎌倉の幕府も、元寇のことを「蒙古襲来」と呼んでいるのである。蒙古(当時の国号は元)という明らかに人為的な主権国家の皇帝クビライ・カーンが、人為的に日本を征服しようとしている事象に対して、日本側はそれがあたかも台風や大地震が日本を襲うかの如く、「襲来」という言葉で表現しているのである。そう言えば、日本人の大好きな怪獣映画でも、ゴジラもやはり「襲来」するのである。日本人にとっては、戦争という人為的な現象も、台風や地震や噴火といった自然現象も、あるいは、ゴジラやガメラといった超自然的な現象も、皆「襲来」というひとつの概念でひっくるめて考えられているのである。このことは、大変興味深い。

 私はかつて、『アルマゲドン:神によって選ばれた国』において、1998年に公開された2つのハリウッド映画『ディープ・インパクト』と『アルマゲドン』とを比較して、まさに地球に激突して破壊的危機をもたらす恐れがある小天体――皮肉なことにこの映画では、隕石が真っ先に降って来て破壊されたのは、マンハッタンの超高層ビル郡であるが――が迫った時に人はどう振る舞うのか、ということをテーマにした映画において、実に典型的なアメリカ人のあり方を分析した。

 つまり、両映画とも地球的危機をもたらす自然現象に対して「神によって選ばれた国」であるアメリカが、全人類を代表してこの地球的危機と闘うのである。『ディープ・インパクト』の中で、モーガン・フリーマン演じるアメリカ合衆国大統領のセリフを思い出してほしい。あの映画の中では、世界中の人々がアメリカが実施するミッションに望みを託し、イスラム教徒やヒンズー教徒なんかは単なる神頼みに描かれていたが、世界中の人々が、最後はアメリカの力というものに期待し、また、事実、『アルマゲドン』の中ではブルース・ウィルス演じる石油掘削屋の荒くれ男たちがスペースシャトルに乗り込んで勇敢な自己犠牲的な献身をすることによって、地球の破壊が回避されるというアメリカ文明絶賛の作品である。

 『ディープ・インパクト』では、6100万年前に恐竜を一瞬にして地球上から絶滅させたといわれるのと同規模の小天体が地球に衝突することを予測して、シェルターを造って人々を待避させるのであるが、2億5000万人の合衆国国民の中から500万人を選んで、その人たちだけを助けて、他の人に犠牲になってもらうという大胆な作業が行われる。どういうふうな基準でそれをするのかということも、極めてアメリカ的な感性で描かれている。日本だったら全員助けることが物理的に不可能であったとしても、理念として、「人ひとりのいのちは地球より重い」とかいう訳の判らないことを言って、全員助ける方法を延々と論議している間に全員死んでしまうところである。


▼「状況倫理(Situation Ethic)」とは何か

 まさに、旧約聖書の『創世記』(第6〜9章)の「ノアの箱舟」の話のように、ノアという神(ヤハウェ)に祝福され、彼(神)の意志を体している(と自称する)ある特定の人物が、彼(特定の人物)の意思でもってある特定の人――この場合はノアの家族とノアが選んだ雄雌一対の何種類かの動物だけ――を助けるのであって、それ以外の人々も、動物も全部滅んでしまうという、地球生命の進化発展の歴史をリセットしてしまうという大胆な話であるが、この神に選ばれた者が自由裁量で全人類の運命を左右してもいいという話と同じ構造である。ちなみに、大洪水の後、ノアの3人の息子とその配偶者が、後の人類の祖先になったことになっているが、この3人の息子があろうことかセム・ハム・ヤペテということになっている。このセムという人から生まれた子孫が、いわゆる現在セム語族といわれているアラブ人・パレスチナ人・ユダヤ人、すなわちユダヤ教・キリスト教・イスラム教を創った人たちである。

 これを神学用語で「状況倫理(Situation Ethic)」という。以前、アメリカで小学生の子供たちに、こんな授業をしているところを見たことがある。以下のようなケース(状況)を想定して、子供たちに自由にディスカッションさせるのである。すなわち、2時間後に核実験が行われる南太平洋のある島に、何かの手違いで10人の人が取り残されてしまった。ここにパイロット以外に5人だけ乗れるセスナ機がある。救援を呼ぶ無線は故障している。最寄りの島まで片道1時間かかるので、全員は助けることができない。あなたなら(助ける人を)どういう方法で誰を助けることにするか? その10人とは、例えば、ノーベル賞を受賞した天才科学者だが、もう80歳の高齢(長生きできない)。なんの取り柄もないが、妊娠8カ月の妊婦(まもなく2つのいのちになる)。40歳の牧師。大金持ちの会社社長60歳。12歳の少年。35歳、終身刑で服役中の殺人犯。25歳の大リーガー…。といった感じで、10名の人をそれぞれ条件付け、子供たちに、あなたなら「誰を助ける(見殺しにする)か? その理由は?」といった状況倫理(Situation Ethic)を身につけさせるのである。日本だったら、こんな授業をしたら、すぐに「人権問題だ!」とかいって糾弾されるか、あるいは、「核兵器があることが間違っている。一刻も早い核廃絶を!」などという思考停止的な話になってしまうところだ。

 もちろん、この設問には唯一の正解はない。各自の考える力と他者を説き伏せるレトリックを身につけさせる訓練である。皆さんは、今回のテロ事件のニュースを聞いていても、アメリカ人の多くが、不意にマイクを向けられても、みなキチンと自分の意見を主張(他者に理解させようと)していることに気づかれたであろう。日本だと、丸の内のような一流企業しかないようなところの街頭でインタビューしても、ほとんどまともな(理路整然とした)答えは返ってこない。それどころか、国会議員や閣僚ですら、恥ずかしくないレベルの答えができる人物が少なすぎる。同時多発テロの第一報を受けて、総理官邸のsituation roomに安全保障担当の閣僚が入っても、日頃から、「状況倫理(全体の利益のためには、誰を見殺しにするのかについて、他人を説得する術)」の訓練ができていないので、こんなことしても無駄である。


▼「何もしない」という政策

  さて、一方、危機管理に対する日本のあり方については、以前『モスラ3:大量絶滅物語に見る日米格差』で詳しく論じたが、要は日本の政府は何もしないのである。6100万年前に、恐竜たちを滅ぼした(ことになっている)最強の宇宙怪獣キングギドラが地球に衝突した隕石とともに飛来し、日本の各地で大暴れするのであるが、日本政府はそのことに対して、ただ右往左往するばかりでなんの手だて(例えば、自衛隊に防衛出動を命じ、叶わぬまでもF15戦闘機で攻撃するとか)も講じないのである。ただ、キングギドラ営巣した山麓の村の警察署が「危険だから」と、立ち入り禁止のロープを張るといった程度の対処しかとらない。日本政府の政治的軍事的経済的無為無策は、「ただひたすら、このような災害が過ぎ去ること」だけを期待しており、そして、災厄(南洋の島から飛来したモスラがキングギドラを撃退した)が過ぎ去った後、いかに、何事もなかったかのように復旧するかということだけを望んでいるようで、同時期に公開されたハリウッド映画『アルマゲドン』とあまりにも対照的なので非常に興味深かった。

 このモスラとキングギドラが大暴れする映画の中では、日本人は『古事記』・『日本書紀』に描かれている神話の世界と同じような、和霊魂(にぎみたま)と荒霊魂(あらみたま)とが交錯し、その前で人々は、荒霊魂の行動を指弾したり、論理の矛盾を論破したりするのではなく、ただひたすら平身低頭、荒霊魂がお鎮まりになることを願うという構造なのである。荒ぶる魂への鎮魂、これがある意味では日本人の永遠の政治的テーマとも言える。先月、『時運の趨く所:靖国騒動の陰で…』でも論じたが、まさに、ここに日本型政治のキーワードがあるのである。当然のことながら、政治的指導者は国民の生命財産の保全について、無責任極まりない。なぜなら、初めから危機(situation)を予測し、これを自分たちの思う方向にコントロールしようとするのではなく、危機に際して、あるがまま、なすがままの状態を過ごし、そして、危機が去ったら大至急、何事もなかったかのように、復旧させてしまうことにこそ最大の関心事があるからである。これが日本の宗教性ということが言える。あのラディカリストの親鸞聖人ですら、「自然法爾(じねんほうに)」を説いたし、日本アニミズム仏教の本領発揮といえる「山川草木悉皆成仏」の世界にも通じるのである。


▼ワシントン大聖堂! 

 今回の同時多発テロに対して、アメリカ政府が注意深く対応したことがひとつある。すなわち、このイスラム原理主義者と見られる勢力によるアメリカ(帝国主義)へのテロ攻撃が、アメリカはこれを「西洋文明(キリスト教)対イスラム文明」という構図になることを極力恐れたということである。いわゆる"文明間の対立"になることを避けようとしたのである。そして、「今回のテロは、"人類文明全体"に対する挑戦であり、アメリカは断固これを排除する」と主張したように、全人類対一部の狂信的なテロリストという構図に持っていこうとしたのである。

 このことは、9月14日に、ワシントン大聖堂(National Cathedral)において行われた国家的な追悼行事を見ても歴然としている。そもそも、政教分離の原則を合衆国憲法修正第1条に戴くアメリカ合衆国の首都ワシントンDCに、"National Cathedral(国立大聖堂)"という施設があること自体、不思議な感じがする。どう見ても、キリスト教の教会に見える。そこで、ちょうどU.C. Berkleyに滞在中であった森孝一同志社大学神学部長(アメリカ教会史の専門家)にメイルを出して確認すると、この施設はEpiscopal Church (監督教会=日本では聖公会と呼ばれている英国国教会のこと)の教会だそうである。国教会の弾圧から逃れたピューリタンによって建国されたアメリカの首都に国教会のNational Cathedralがあること自体、一種の皮肉である。



歴代大統領たちも参列して

 このワシントン大聖堂において行われた追悼式典には、ブッシュ大統領夫妻はいうまでもなく、前大統領のクリントン夫妻、それから前々大統領のブッシュ大統領、カーター元大統領、フォード元大統領と、アメリカの歴代大統領をはじめ、ワシントンにいる国家の主な指導者が勢揃いして、神に追悼祈りを捧げたのである。しかし、先程述べたように、イスラム対キリスト教という構図を避けるために、祈祷のトップバッターはイスラム教のイマーム(聖職者)が務めた。その後、ブッシュ大統領がスピーチし、続いてキリスト教の牧師、ユダヤ教のラビ等が同じ教会堂で祈りを捧げるシーンが全米にテレビで放映されていた。


▼宗教国家アメリカ

 日本でも、最初、衛星放送で生の映像が伝わったときには、これらの全ての映像がオンエアされていたが、その後のニュース番組の中では、ほとんどは教会堂の説教台のところでブッシュ大統領がスピーチするシーンだけになっていて、諸宗教("諸"宗教といっても、仏教やヒンズー教がそこに加わっていたのかは定かでないが)の指導者が、共に祈っているというシーンではなかった。ことここに至ってもなお、日本のメディアは宗教的要素を極力排除しようするのである。それでは、今回のテロ事件とそれに対する米国の反応の本当に意味が理解できないと思うのであるが…。



全国民に向けて"説教"するブッシュ大統領

 こういう時は、直ぐにCNNやABCをはじめとするアメリカのニュース番組をそのまま流している衛星放送でチェックすることにしている。読者の皆さんも、日本の報道番組だけを見ていると、アメリカの雰囲気を見誤ることが多いので、是非、衛星放送やインターネットで、アメリカのニュース番組や新聞等のヘッドラインの記事を読まれることをお勧めする(ついでに、欧州やアジア各国のニュースも)。今回も、テロの衝撃が一段落した後には、Capitol Hill (連邦議会ビル)の中で、連邦議員による徹夜の祈祷会も行われたし、翌日には、大統領就任式が行われるCapitol Hillの前の大階段に、上院議員が大勢並び、愛国歌とも言える『May God Bless America』を皆で合唱しているシーンがテレビで何度も流されていた。

 それ以外にも、全米各地の教会(キリスト教)や、モスク(イスラム教)や、シナゴーグ(ユダヤ教)で、今回の事件の犠牲者を追悼し、また、「神によって選ばれ、神によって守られた国(『ノアの方舟』と同じ構造)であるアメリカは、必ず神の祝福を受ける(最終的にアメリカが勝利する)」ということを強調していた。日本のように、徹底的な政教分離を実行しようとしている国――総理大臣の靖国参拝問題を取り上げるまでもなく、もっと卑近な例で言えば、交通事故で身内を亡くした人が、事故現場に近い公有地である歩道の一部に、死者の霊を弔うために造ったお地蔵様に対して、「(宗教施設である)地蔵堂が公有地の上にある」と、政教分離の原則を持ち出して裁判を起こす国――とでは、まるっきり考え方の基本が違うということを解って欲しい。

 私は、日米どちらのほうが良いと言っているのではない。日本とアメリカとでは、「宗教と政治」ということに対する考え方が根本的に異なっているということを、よく理解して行動しないと、アメリカという国を理解することはできないし、またアメリカから日本という国が理解してもらえないということを指摘しているのである。


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