猿以下の惑星
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現実世界では、アポロ計画によって、まさしく人類が地球以外の天体(月)に、その第一歩を記そうとしていた。この時期に創られた2本の映画、すなわち『2001年宇宙の旅:2001 A Space Oddesay』と『猿の惑星』は宇宙を舞台にしたScience Fictionという分野を切り拓いた作品といえる。『2001年宇宙の旅』の並外れた科学技術の考証(まだ、誰も月面に立った者はいなかったのに、月面での人や作業車の動きは秀逸の一語に尽きる)と『猿の惑星』のあの衝撃的な結末……。まさに、SF映画の金字塔といえる。両作品に共通するアイディアは、「ヒトという裸のサル」の運命であった。 小学生であった私が『猿の惑星』を観て一番驚いたのは、映画に登場する猿たち(厳密に言えば類人猿たち)のメイクであった。それまでのメイクといえば――もちろん、この場合のメイクというのは、人間が他の動物に化けるという意味のメイクであるが――日本の怪獣映画にしろ、ハリウッドのホラー映画にしろ、お粗末なもので、いわば「着ぐるみ」に入るか、無表情な「お面」を着けているという状態だったが、この映画に登場する類人猿たちは、個性があって、皆それぞれに「表情」が豊かで、まさに特殊メイクの分野に新しい世界を切り拓いた作品と言える。クラスメイトの中に少し「猿顔」の奴がいると、すぐ、皆から「コーネリアス、コーネリアス(映画『猿の惑星』に登場する、人間に理解を示している"進歩的な類人猿"の科学者二人組みのうちの男性がコーネリアス、女性がジーラ)」と揶揄されていた。
次にチャールトン・ヘストン主演の映画といえば、なんと言っても、その年のアカデミー賞を13部門で獲った『ベン・ハー(Ben Hur)』がある。この物語は、その副題『The Tale of Christ』にもあるように、すなわち、キリストの物語である。ただし、映画の中でイエスはほとんど姿を見せない。物語の最初の頃に、友達であったローマ人の士官に裏切られたユダヤ人の富豪の息子ユダ・ベン・ハーが、ローマに奴隷として連れて行かれるときに水を与えてくれる人として少し影が映り、そして、物語の最後の部分で、ゴルゴダの丘に十字架を背負って登っていくイエスの足元が少し映るというだけなのであるが、このユダヤ人ベン・ハーの生涯を描くことによって、実はイエス・キリストという人を描いているという名作である。 この映画は実に多くの映画に影響を与えた。最も有名な古代ローマの競技場における(4頭立ての馬車に曳かせた)戦車レースのシーンは、後に、007シリーズ第4話『サンダーボール作戦』における初代ボンド・カーのアストンマーチンによるカーチェイスの場面でも応用されたし、また、最近では『スター・ウォーズ:EpisodeT』のアナキン少年とエイリアンたちの、砂の惑星タトゥイーンでのポッドレースのシーンにもまるまる借用されたという名場面である。 この二つの映画で主演したチャールトン・ヘストンは「超大作にしか出演しない人」という印象が、少年時代の私の中で出来上っていた。この"大御所"チャールトン・ヘストンが主演した『猿の惑星』であるだけに、まさにこの映画は『十戒』並びに『ベン・ハー』に匹敵する超大作のはずである。ちなみに「ベン・ハー」の「ベン」はヘブル語で「だれだれの息子」という意味である。こういう命名法は父系の族長社会であるセム語文化の特徴的風習である。つまり、「ベン・ハー」というのは「ハーの息子」ということになる。今回のテロ事件の首謀者と目されるウサマ・ビン・ラディン(Osama
bin Laden)氏の「ビン」も、同じ「だれだれの息子」という意味である。すなわち「ラディンの息子」という意味で、命名法からして同一文化圏の話であることが判る。 ▼愚かな"裸のサル"である人間 つまり、われわれの世界におけるヒトとサルの役割が、入れ替わっているのである。馬に乗って、服を着て、武器を持ったゴリラの兵隊が、ヒトを連れて行き、檻に入れ、家畜として扱うのである。面白いことに、この星の猿の社会というのが、人間の社会そっくりで、政治的な指導者もいれば、科学者もいるし軍人もいる。また民間人もいる。そこで言葉を話すことのできないヒト(裸のサル)は、ただ単に家畜として扱われるのである。この辺りは『ガリバー旅行記』の最終編『フィヌム国漂流記』において、yahooと呼ばれる家畜人とHnhnmと呼ばれる馬そっくりな支配者とが入れ替わった世界を描写しているのと同じである。 ただし、主役の宇宙飛行士は、ガリバー同様、この見かけ上ヒト(知能はサル以下)というもののほうに肩入れをする。他の人々と一緒に捕まった彼は、最初は他の家畜として飼われているヒトと同じように扱われるのであるが、さすがは優秀な宇宙飛行士だけあって、いろんな知恵を発揮して抵抗を試みることによって、猿の中の科学者――これが、チンパンジーと思しきコーネリアスとジーラというカップル――に人間ばなれした特殊な能力(知恵があるということ)を見出され、コーネリアスとジーラはこの類い稀なヒト(すなわち猿なみに高度なヒト)に感情移入をするようになる。 ▼白人だけが人間である つまり、この「猿の惑星」というのは、宇宙のどこかにある他の星ではなく、何万年後かの地球のことだったのである。人類の文明が人間同士の争いによって亡び(ここでも、人類の物質文明の象徴はマンハッタンであった)、その後、サル(正確には類人猿)が急激に知能を付け、現在の人間の立場に取って代わったわけである。その間、地球の辺境部で細々と生き残った人間は、いわば"猿以下の存在"となったのである。その意味で、この作品は、「人間存在の意味を問う」という点で、『十戒』や『ベン・ハー』に勝るとも劣らない、チャールトン・ヘストンが主演するにふさわしい大作である。SF作品としては、なかなか興味深い話ではあるが、この映画のそこかしこにかなり人種偏見的な要素が含まれているのもまた事実である。すなわち、この映画に登場するヒトは全て白人なのである。白人以外のヒトはいない。そして、そのことは、あたかも、この映画に登場するゴリラ(兵隊役)・チンパンジー(科学者役)・オランウータン(長老役)などの類人猿たちは、実は、アフリカ系であったり、モンゴロイドであったりということを暗に意図しているのである。つまり、アフリカ系やモンゴロイドは猿と共通の先祖、あるいは猿から進化したものであるという認識で捉えており、白人は全く別の種類の存在だというのである。つまり、白人は、旧約聖書の『創世記』に書かれているアダムとイブから始まった、神によって創造されたものであり、それ以外のものは類人猿と同類である。つまり、この映画の原題である『Planet of the Apes』のapesすなわち、類人猿たちということを表わしているのである。 ▼チャールトン・ヘストンとブッシュ政権 このブッシュ大統領が選挙で選ばれる背景については、一昨年の作品『宗教右派:大統領選挙に見るアメリカ人の宗教意識』で詳しく論じたので、アメリカにおける「宗教右派」がどのように政治に影響を与えているかについては、その項を読んでいただければ判かると思うが、このブッシュ大統領を実現した右派勢力の巨大なロビー(圧力団体)のうちのひとつであるガン・コントロール(銃規制)に反対するNRA(全米ライフル協会)の会長が、こともあろうかこのチャールトン・ヘストンその人なのである。映画『猿の惑星』で、人類が亡んだ証拠となる場面がニューヨークであるのがなんとも皮肉である。また、その主演の俳優が、実に『十戒』において、エジプトでの奴隷状態からイスラエルを救出した伝説の英雄的預言者モーゼを演じ、また、『ベン・ハー』において、キリスト(救世主の出現)を称え、そしてまた『猿の惑星』で、人類の将来を演じた大御所チャールトン・ヘストンの話と、今回のブッシュ政権対イスラム原理主義者の戦いには、何かしらの因縁めいたものを感じるのは私だけではあるまい。 |