主権国家対NGOの戦争
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私はかつて、『NGOの政治的主張は当然』という作品において、以下のように述べた。
しかし、世界中のほとんどの国家は民主主義を建前としている関係上、「民意」というものを尊重しなければならない。そこで、NGOが登場することになる。地球規模での情報化時代において、国家や民族や宗教の壁を超えて活動を展開するNGOの中には、人材や予算の面において、アフリカ諸国や太平洋島嶼諸国などを遥かに凌ぐ規模を有するものも少なくない。その意味で、国際社会を形成する国家、多国籍企業に次ぐ第三の構成要素となっている。 しかも、NGO団体の多くは「一点主義」である。ある特定の問題に関心を持つ人たちの地球的規模での集合体である。国家としての総合政策を行う百貨店的な政府に比べて、個別の関心事だけに取り組む専門店的なNGOは、当然のことながら、特定の問題に関しては政府より優れている。さらに、自分がどの国民になる(どの国に生まれる)かは、通常、自分の意志で選ぶことができないが、どのNGOに所属するかは、あくまで自己決定である。したがって、特定の関心事に対してモチベーションが高くなるのは当然である。極端なことを言えば、「一頭の鯨のいのちを助けるためなら、人命の犠牲なんて問題じゃない」というNGOがあってもおかしくないし、現に、そういう団体がたくさんある。それらの団体に対し各国政府は、論議の中で民意を反映した政策を磨いているのである。 その話のときに、私は現在の主権国家の集まりである国連に対して、今後、ますますNGOの働きがますます大きくなるということを述べた。しかも、NGOは良い意味でも悪い意味でも「一点主義」であるので、自分たちの個別の関心事に関しては、場合によっては国家よりも優れた問題解決能力を示すことがままあるとも述べた。しかし、同時に、その「一点主義」がもたらす弊害もある。すなわち、その"唯一の関心"というのが、いったい何に向くのかということがあるからである。「鯨の保護」を生き甲斐にしているNGOの例を述べたが、彼らは鯨一頭を助けるためには、極端なことを言えば、相手の捕鯨船を沈没させてもいいと思っている。つまり、自分たちが「正しいと信じる目的」のためには、場合によっては、人間の生命すら犠牲になってもいいと思っているということがあり得るのである。
今回のアメリカへの同時多発テロを実行したと言われているオサマ・ビン・ラディン氏率いるイスラム原理主義集団「アルカイド」などは、ある意味でまさにNGOそのものである。タリバンはアフガニスタンを実効支配しており、一応、「政府」の体をなしているので、隣国パキスタンにも大きな影響力を与えている。「アフガニスタン」という国境内に限定されているとはいえ、神出鬼没の遊撃隊ともいえるアルカイドは「なんでもあり」の結社だ。彼らのシンパは世界中にいる。そして、世界中から「イスラム原理主義」という一点主義で集まった人たちが、行動を共にしている団体なのである。この団体がアメリカをはじめ、現在の世界秩序を構成している各主権国家に対して、事実上の「宣戦を布告する」ということが現実に起こったのである。 これまでの処罰関係の法体系は、主に個人の反社会的行為を「犯罪」という形で処罰する"刑法"という法体系ならびに、国際社会を構成する主権国家同士の間のルールを取り決めた、いわゆる"国際法"の二つに大きく分けられるが、これらの法律は、個人(団体)と個人(団体)の争い、例えば殺人とか強盗、あるいは、国家と国家の争い、例えば戦争とか条約といったことを前提に、法体系が構築されているのであって、個人や私的な団体が外国に対して「戦争をしかける」というような事態は想定されていなかった。ところが、国境の壁を越えて全地球的規模で活動するNGOが多数出現している現状では、一民間団体に過ぎないNGOが、国家に対して闘いを挑むという、およそ、これまでの法律では想定していない状況というものが生れてきた。その違いが明確に理解できていない政治家やメディア関係者も多い。今回の事件に対するブッシュ大統領の議会での演説などでも、「これはアメリカに対する宣戦布告だ」とか「アメリカは今回の事件を起こした勢力に対して宣戦を布告する」といったおかしな表現が用いられていることからも明白である。 通常、国際法にいうところの「宣戦布告」とは、主権国家と主権国家とが外交交渉の一手段として、武力行使を行うための手続きであって、主権国家が、個人もしくはある民間団体に対して「宣戦を布告する」というのは、法理論的にはありえない。しかし、21世紀の戦争は、あるいは、1979年のイラン革命によるホメイニ政権の成立後から、約10年間をかけて進行したソ連・東欧社会主義政権のドミノ倒し的崩壊、そして90年代の旧ユーゴスラビア内戦と、過去20年の間に国際情勢は、完膚なきまでに構造改革が進んだ。第二次世界大戦直後に成立した米・ソ両超大国による「核の恐怖」と冷戦体制のタカが外れ、世界各地では宗教・民族紛争が主な戦争になってきた。 しかし、現実には国連にしても、各国政府にしても、そのような形の戦争に対する法的整備が十分進んでいなかった。主権国家間の戦争を調停するために作られた国連安保理は、各加盟国家内での紛争には、一貫して「内政不干渉」のポリシーを維持してきたので、「内戦」の形を取る紛争には無力であった。そこを突いたのが、今回の国際的に連携したイスラム原理主義勢力による一連のテロ活動なのである。今や、国家の敵、あるいは国際社会の敵は、いわば、先鋭化した一点主義のNGOということになったのである。
しかし、このような例は、実は何十年も前から、特に日本のアニメの世界では珍しいことではなかった。『サイボーグ009』における「ブラック・ゴースト団」や、『科学忍者隊ガッチャマン』における「ギャラクター」など、数えだしたら枚挙にいとまない。彼ら悪の秘密結社は、それぞれの物語において、相当数の兵力と、秘密兵器の開発能力、さらにはそれらのオペレーションを実行するに足り得る地球規模での情報網など全ての要素を備えながら、「国家」という形式を採っていない。国家という形式を採っていないがゆえに、国際社会における諸々の制約事(たとえば、「人権を擁護しなければならない」とか)から離れて、フリーハンドで極めて効率よく仕事(破壊活動)ができるのである。彼らは、世界の各地で同時多発的にテロ事件を起こし、いわば「人類文明の敵」というような行動を各地で起こすのであるが、彼らの首謀者が、捕えられ、どこかの国の法による裁きを受けた例はない。もし、捕まったとしても、国籍を持たない彼らを、特定の国の法律で裁くことに対する法的正当性を主張するであろう。 このような神出鬼没な悪の秘密結社(NGO=No Good Organization)に対して、各国の正規軍を動員して、これを封じ込めようとするのは、費用対効価のことを考えても、まるっきり不経済である。なぜなら、主権国家同士が正面切って激突する戦争においては、A国とB国が戦った場合、A国の兵力10に対しB国の兵力が20あれば、B国のほうが圧倒的に有利なのは目に見えているからである。しかし、NGOが惹起する戦争というのは、世界中の何時何処で、どういう形で始まるか判らないし、なおかつ、非戦闘員の一般市民を巻き込んだ形で戦われる場合が多いので、正規軍が戦闘機やミサイルといった従来の"兵力"を動員して、これと戦闘することは、かえって被害を大きくし、相手の思うつぼにはまる可能性がある。 これらのことが、冷戦真っ最中の三十数年前も前から、日本のアニメの世界では指摘されていたのである。それに対して、「戦争放棄」の平和憲法を有する日本のアニメ作者たちが出した結論は何か? すなわち、悪に対しては、こちらの側も、それに対抗する少数精鋭のスペシャル・チーム(NGO)を組織し、彼らに対抗するという方法を採るというのが最も効率的なのである。つまり、ブラック・ゴースト団に対するサイボーグ009のチーム(ギルモア博士を入れても、たった10人!)、あるいはギャラクターに対するガッチャマンのチーム(南部博士を入れても、たった6人!)といった、こちら側も国家主権の壁や国際法に縛られないNGO化した、それこそグローバルなNGOで対抗する以外には効率的な対処法が見つからないのである。21世紀における戦争の抑止法について、思いがけない示唆を表わしていると思えないだろうか。
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