続“もの”随想
京都大学大学院人間・環境学研究科
 
永原 順子  28歳 j54804@sakura.kudpc.kyoto-u.ac.jp


以下にあげる場面は『竹取物語』のラストシーンに近い一コマ。月世界の人々が姫を迎えにきたその後である。

御衣をとり出でて着せむとす。その時に、かぐや姫、「しばし待て。」と言ふ。「衣着せつる人は、心異になるなりといふ。もの一言、言ひおくべきことありけり。」と言ひて、文書く。天人、「おそし。」と心もとながりたまひ、・・・(中略)・・・ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとほしく、かなしと思しつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して昇りぬ。

天の羽衣を着てしまうと、心が別のものになってしまうらしいから、その前に大切にしてもらった地球の人々へせめて一言と、かぐや姫は主張する。その後、羽衣を着たかぐやは、別人のようになり、さっさと月へ帰っていく。

ものを着ると、別人になる。この他、白鳥になった王子を救うエルザの話(エルザがい草で編んだ上着を着ると、兄王子達の魔法がとけ、人間へと戻る)。うりこ姫の皮をかぶって姫になりすますあまのじゃく。これはちょっと違うかもしれないが、着ると姿の見えなくなる簑。世界の場所、時代を問わず、その例は多く見られる。

能に物着(ものぎ)という述語がある。(詳しくは“もの”随想-98/9/25を参照)を井筒、葵上、などに見られる能の演出法の一つであり、舞台上で装束を替えることをさす。文字通り、上から着重ねることのほかに、取り替えたり、脱いだり、も含まれる。シテはそれをきっかけに物狂いとなり、別人のような振る舞いをすることがある。 物着を、憑依の現れだとする説がある。つまり何かを身につけることによってその“何か”が内包する霊魂、精霊をも身に憑けることになるのである。

また、“恩賜の御衣”という古来のしきたりがある。天皇などの位の高い者から低い者に、褒美として自分の身につけていた衣を授けるというものである。これは当時の貴族社会では最高の褒美の一つであった。菅原道真の『菅家後集』に天皇から下賜された御衣が天皇を、ひいては都を思い出すための縁とする、といった内容の詩が納められている。これも上の事例と共通する思想が影響しているだろう。ある人が着ていた着物はその人の何かが付着している。それは、単にたきしめられた香のにおい以上のものだ。古着をもらってなにがうれしいのか、と考える輩もいるだろうが、祖父がこの世に残した形見の帽子、恋人が「寒いだろ?」と言って肩に掛けてくれたコート、部活を引退するキャプテンが目の前で脱いで渡した背番号1のユニフォーム、それらには一つずつの物語があり、目に見えない何かが含まれている。

そして、もっと視野を広げれば、これは単に服だけに限った話ではない。元恋人にもらった贈り物(指輪、バッグ・・・)を、新しい恋人ができたときどうするか? 卒業するとき、少女たちはなぜ先輩の(同級生の)第2ボタンにこだわるのか? 持っていると幸運(不運)を呼ぶ宝石は本当に存在するのか? などなど、もの全体にわたっていくだろう。

これらの考え方はもちろんアニミズムから出発したものである。万物に魂の存在を感じ、それらに畏敬の念を抱く、それこそ世界各地各時代で確認される思想だ。今お話ししているのはその次の段階である。すなわち、魂をもともと内包するのならば、ものはその二次的な役割として、新たに付加される魂の媒介ともなれる、という考え方だ。さらに人々のものに対する愛着心、執着心、その他さまざまな思想が絡み合ってもいるだろうが。

かぐや姫はその心を忘れたくなくて、天人に対してぐずったのだ。このような心は月の人々が持ち得ないのであろう。


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