投稿論文について




このたび、「レルネット」ファンの皆さまのための「投稿論文のページ」を開設することになりました。

宗教(研究)についての論文(4000字以内)をお寄せください。掲載するのに適切な内容かどうかを吟味した上で、掲載させていただきたいと存じます。 

投稿論文(未発表のものに限る)には、必ず、題名と作者の氏名・年齢・所属(会社・教団・学校等)および連絡先(E-mailアドレス・ホームページURL)をお書き下さい。なお、掲載された「論文」の著作権については、投者者と(株)レルネットが共有するものといたします。               
1998年7月14日 レルネット主幹 三宅善信




『タイタニック』に見る宗教性 関西学院大学大学院神学研究科
近藤 剛(24) x1m705@kwansei.ac.jp



1912年に起こった豪華客船タイタニック号の悲劇を忠実に再現した映画『タイタニック』が世界的にヒットしている。制作費は240億円、監督は数々の話題作を世に送ってきたジェームズ・キャメロン、主演は爆発的な人気を誇るレオナルド・ディカプリオ、さらに1997年度アカデミー賞11部門の受賞、これだけ揃えば、話題性にも事欠かないし、世界的なヒットになるのも頷けるというものである。日本においても、興行収入は第一位に輝き、昨年末から今年6月にかけての観客動員数が1330万人を数え、なおも歴代記録を更新中であり、一種の社会現象と化し、一大タイタニック・ブームとなっている。本稿では、従来の映画評論にはあまり見られない視点から、タイタニック・ブームの秘密について考えてみたい。

タイタニック号は、一等客室から三等客室というように階層化されており、それがそのまま当時の階級社会を象徴している。物語は、上流階級の娘ローズ(ケート・ウィンスレット)と画家志望の青年ジャック(レオナルド・ディカプリオ)とのラブ・ストーリーを中心に展開されていき、タイタニック号が沈没するまでの惨事を描いている。史実に架空の主人公を重ねて(換言すれば、現実と理想を鮮やかに対照させて)内容を豊かにしたところに、この映画の面白さがあると言える。物語の内容を少し紹介してみよう。ヒロインのローズには、母親によって決められた婚約者がいるが、それは苦痛以外のなにものでもなく、ある種の閉塞感が彼女の心を苛ませ、苦しめていた。思いあまったローズは、衝動的に自殺しようとするが、間一髪のところでジャックに助けられる。ローズは自由奔放なジャックによって、心を揺り動かされ、癒されて、人間性を取り戻す。現状に満足していない人、劇的な出会いを期待する人、いつか<本当の私>を見つけたいと夢想している人なら、ローズに感情移入することで、自然と物語の中へ誘われていくことであろう。しかしながら、運命的な出会い、身分の差を越えた 恋、美しくも儚い夢など、ラブ・ストーリーとしては、お決まりの内容であり、ストーリーの平凡さを辛うじてキャスティングで補っているように思われる。ここまでなら、人々の関心もそれほどそそられなかったに違いない。では、何が観客の心を捉えたのか。この映画のヒットの理由は、単なる恋物語では終わらせることのできない強烈なメッセージ性にあると思う。そこでこの映画から幾つかのメッセージを取り上げてみたい。

タイタニック号は、当時の科学技術の粋を集めた夢の豪華客船であったが故に、人々は絶対の安全性を信じて疑わなかった。かような自信過剰は、時に慢心となり、危機的な事態を自ずから招いてしまうものである。この時のタイタニック号がまさにそうであり、事前に危機を察知していたにもかかわらず、氷山に衝突して沈没してしまったわけである。人類の力の過信は、自然の気紛れによって、すぐさま簡単に粉砕されてしまうのである。ここで、科学力だけに頼りきる人間の過信と、自然に対する人類の傲慢さが、戒められていることが分かる。昨今、話題となっている遺伝子操作、クローン技術の問題、クリントン大統領がその信憑性の調査を命じたとされる『コブラの眼』に見られる未知のウィルス兵器の脅威、そしてもはや収拾のつかない核兵器開発など、思い当たるところが多々あろう。ここにこの映画のメッセージの一つを見て取ることができるが、当代の観客の心を打つには十分ではない。

この映画において注目すべきは、やはりタイタニック号沈没寸前の人間描写にあろう。そこでは二つの全く相反する行動原理が、強烈に対比されて描かれている。一方は、大多数の人間のエゴイズムとして、他方は、主人公の自己犠牲的な愛として。生死を分けるような限界状況において、人間は自己保存の要求に従い、自分さえ助かればよいと他人を押し退け、凄まじいまでのエゴイズムを発揮する。そういったエゴイズムは、映像化されることによって苛烈さを増している。異様な光景が、しかし現実的な情景が、スクリーン一杯に広がり、観客は人間の内面に巣くう自我への執着(それと共に、抗し難い運命の脅威)を見せつけられる。そのような状況にありながら、自分の命を犠牲にしてまで、婦女子を優先的に助けようとする感動的な場面も見られる。このような自己犠牲の愛は、ジャックの行動を通して究極的に描かれる。助かる見込みのない中、ジャックは決して諦めようとせず、命懸けでローズを守ろうとする。ジャックは、生命の危機という極限状態で、さらに言えば、救いの断たれた絶望の淵で、ローズに希望をもって信じること、生きる勇気をもつことを教える。ジャックはどのような悲 惨な状況でもめげずに、助かる可能性に賭けて、最善策を探し、ローズに対して「僕を信じて希望を捨てるな」と繰り返し呼びかけ、生還させようとする。そして、最期までローズを励ましながら、力尽きて極寒の海の中で息絶えるのである。絶望の中にあっても希望をもって信じ、生きる勇気をもつこと、それがジャックの自己犠牲的な愛を通して訴えられる。愛する者のために己の命を捧げるということ、それが強烈なメッセージとなって、観ている者の心に突き刺さる。

ニヒリズムという虚無の大海に溺れかかり、「何のために」という目的を失った現代人にとって、このメッセージは鮮烈であり、深く心に響くものとなった。<自分さえよければいい>というエゴイズム(時に誤って「個人主義」と呼ばれる場合もある!)に安住しながらも、実のところ、生の意味や目的、あるいは生の価値を見失っている現代人は、このような自己犠牲的な愛に飢えていたのであろう。そのような精神的な飢えを満たしたところに、この映画のヒットした理由があるのではないだろうか。しかしながら、これらのメッセージ、つまり、信じること、希望をもつこと、自分を犠牲にしてまで他者を愛することなどは、従来まで宗教が説いてきたものではなかったのだろうか。信、望、愛とは、宗教の専売特許とも言えるテーマではなかったのだろうか。タイタニック・ブームの背景には、このような宗教的メッセージに渇望する観客の精神状況があったと思われるのである。「文化は宗教の表現形式であり、宗教は文化の内容である」(バウル・ティリッヒ)という言葉があるが、まさに今回、映像文化の代表である映画が、宗教性の高いメッセージを世に問うたと言えるだろう。埋もれた史実 のリメイクのみならず、失われた高尚な思想のリメイクでもあると評価できよう。最新の技術を駆使した映像を通して発せられたメッセージ、それは人類にとって馴染み深い、普遍的なテーマであったと考えられる。すでに忘却された、しかし極めて重要なメッセージを現代に甦らせた点に、この『タイタニック』の意義があろう。

現代人には、こういった宗教的なメッセージ-自己犠牲を通して捧げられる愛-を受け取る余地があり、それに感動する心がある。虚無的で殺伐とした時代に生きる我々は、エゴに凝り固まること、つまり、自己愛に専心することを普通と考える嫌いがあるが、本当のところは、誰かのために、何かのために愛を捧げたいと望み、そのような生き方を欲しているのである。『タイタニック』の観客動員数が、そのことをはっきりと例証しているではないか。『タイタニック』成功の理由は、訴える側のメッセージと、観客の求めるニーズとの見事な一致にあると言えよう。しかし願わくば、そのような時代の要請にいち早く気づき、現代人の心の乾きを潤すものが、宗教であってほしいと思う。宗教離れの原因は、現代人の特性にあるなどという尤もらしい言説に惑わされることなく、宗教は(殊に伝統宗教は)、今どのようなことが求められているのか考えた上で、現代に通用する言葉や表現を通して、人々の精神に深く突き刺さるようなメッセージを放っていくべきであろう。現代日本において、布教、伝道の余地は、確実に、また十分に存在する。勿論、真っ当な宗教には、ディカプリオのような派手なスタ ー性を望めないであろうし、『タイタニック』の制作費のような莫大な経費を期待できないであろうが、愛を語るには十分な<知>(真理契機)が与えられている。今、宗教者のメッセージ力が問われているように思われる。日本の宗教界に、タイタニック旋風が起こることを切に希望したいものである。     




「謡曲『西王母」に見る大本の歴史と生命」 京都大学大学院人間・環境学研究科  
永原 順子  28歳 j54804@sakura.kudpc.kyoto-u.ac.jp


そもそも西王母とは、中国神話の女神である。その神話は中国の戦国時代から漢代を経て、六朝に至るまでつぎつぎと変遷を遂げる。初期における西王母像は半人半獣の恐ろしい姿であるが、最終的には、美しい女神、西王母が捧げものを携えて帝王を訪れる、という話になる。その最終段階の西王母像が日本に伝来し、さまざまな文学作品に取り入れられ、謡曲のモチーフにも使われる。三千年に一度花咲き実成る王母の桃を時の皇帝に捧げた後、西王母は優雅に舞い、春風に乗って天上へと帰っていく、という美しい祝言能がそれである。

 大本教は芸術活動を精力的におこない、その中に能楽も含まれる。ただ、能の数ある現行曲の中で『西王母』に固執しているのである。西王母は、大本の歴史上に何度も姿を現す。以下は、大本教の発展の中での西王母の位置を追ったものである。

 まず、大本教主たちの能楽との関わり方という観点から大本の歴史を分析すると、次のように大きく三つに分かれる。 開祖出口なおが帰神状態となっていた頃、彼女は神に誘導されて能の型を舞ったという話が残っている。その真偽はいずれにせよ、この話が現在まで、大本能楽の始まりとして伝わっているということは大本と能とを結び付ける何らかの力が存在したことを意味している。大本と能楽との出合いはごく初期まで遡れることになる。

第一期 に中心となる人物は出口王仁三郎である。二代教主すみ子の夫となった王仁三郎は、多くの著作の中で、「宗教と芸術の一致」を盛んに唱えた。そして『霊界物語』の中で、西王母を天国における最高神として描き、『言霊界』では謡曲『西王母』を「神明の指示によって物された神文」であると記している。歴代女性である教主を西王母の姿に重ねることで、理想の世として提示された『みろくの世』をイメージ化しようとしたのであろう。彼は自ら舞を舞う機会にはめぐまれなかったが、ここで大本なりの西王母神話の形が成立したと言える。この二代教主と王仁三郎を中心とした期間を、模索の時期(第一期)とする。この時期は、二つの大本弾圧事件を経験した、教団の創成期とも重なっている。

 三代教主直日は、王仁三郎たちの意思を引き継ぐべく、昭和21年、大本で初めて「謡曲と仕舞の会」を持つ。以来直日は儀式のあるたびごとに、素謡、仕舞などを演じ続け、ついに昭和36年、新築の万祥殿(亀岡)にて、教主による『西王母』演能が行われる。それこそが王仁三郎たちの目指した神能であった。この直日の時代を、教主の性格づけがなされた第二期とする。信者たちに能楽が浸透し始めたのもこの頃である。

 そして第三期を決定づけるものとして、信徒の悲願である本殿長生殿(綾部)の完成がある。それは奇しくも開教百周年と時を同じくして平成4年の秋に達成され、翌平成5年5月3日の長生殿能舞台における『西王母』演能を迎えたのである。間狂言の章句が、百周年と長生殿の完成を寿ぐものに変えられたことで、能舞台に大本の聖地が出現するのである。そこに舞う教祖に、信徒たちは神の姿を重ねたであろう。西王母=教主という図式の上に、さらに神が融合した瞬間である。

 以上、『西王母』と大本との関係を見てきたが、次にその内容を詳しく分析することにする。『西王母』は初番目物と呼ばれる、神をシテ(主人公)とした祝言性の強い能であることは前述したとおりである。宮中での宴の最中、ある女(前シテ)が、桃の枝を持って皇帝(ワキ)のもとへ現れる。そして、自分は西王母の化身であり、この世を言祝ぐため、桃の実を持って再び訪れることを予言して消え去る。(中入り)人々が様々な管弦を奏して西王母の到来を待ち受けていると、西王母(後シテ)は桃の実を携えた侍女(後ツレ)とともにやってくる。その実を皇帝に捧げた後、西王母は優雅に舞いながら明け方の雲に紛れて天上へと帰っていく。

 不特定の“ある”人間が神格を獲得するという図式は、複式夢幻能によく見られるパターンである。これらの能においては、不特定の人間の姿を借りて神がこの世に降りたと考えられる。かならず前シテは素性のわからない女、男、翁、媼などである。

その人間は神を受け入れるための器となるのである。だからこそ前シテは不特定の人間である必要性がある。さらに言えば、それは人の形をしていながら、もはや人ではない。あの世とこの世とを結ぶ“存在”そのものなのである。出口なおの神懸りの際、彼女は肉体的にも精神的にも相当な苦しみを受けたが、それは、魂の“器”となるための試練であったのかもしれない。

 大本においては、『西王母』は能の謡曲の一つとしてではなく、祭儀として存在しており、大本の世界に組み込まれている。教主が『西王母』のシテを勤めるということは、大本の神と教主が一体化するということをさす。

 ここで祭儀についてであるが、『西王母』はみろく能として毎年行われている。おそらくこれらの演能は御魂迎えの儀式を象徴しているに違いない。本来祭礼における御魂迎えの儀は、秘密裏におこなわれるものである。しかし、能はその秘儀を舞台のに再現して見せているのである。神性はおかすべからざるものであり、その部分が秘儀とされるのも無理はないのであるが、その神を信仰している者たちの目の前に神顕現が再現されるということは、彼らの信仰心を深めるために非常に有利であっただろう。また、彼らもそれを望んでいたかもしれない。したがってこのような種類の能は、祭儀とのかかわりでみても非常に意味のあることであると思う。

少し話がそれてしまった。大本の祭儀と『西王母』の関係について再度詳しく考えてみよう。『西王母』演能は、大本の歩んできた歴史を能舞台の上に再現している、つまり出口なおの神懸りから、大本の理想とする“みろくの世”の実現までを暗示しているのでは、と推測される。なおが神の言葉を人々に伝えるようになることと、西母がこの世を訪れて皇帝と対面し、人々との交歓をなすこととが対応している。また、西王母が優雅に舞い、言祝ぐ栄華は、まさしく“みろくの世”を彷彿とさせるで > あろう。大本の『西王母』は見る者を知らず知らずのうちに大本の世界へといざなうのである。

 ここで、話が飛躍するのをお許しいただきたい。 「個体発生は系統発生の短縮されたくり返しである」これはヘッケル(Ernst Heinrich Haeckel)が主張した説である。

 動物は、成体では解剖学的に似ていなくとも、胚の時代には構造的にかなり似ている。胚はその動物種の祖先の成体の忠実な記録であり、胚が若ければ若いほど、遠い祖先型を示している。例えばヒトの胎児もその発生初期では魚のようであり、そこから、ヒトの形へと進化をくり返すように変化していく、ということだ。彼の説は、その是非はともかくとして、比較発生学の分野に大きな影響をもたらした。

 大本の『西王母』演能もこれと同様に、“個体発生は系統発生の短縮されたくり返し”をしているのではないだろうか。個々の演能は、大本の歴史をくり返し続け、新しい大本の生命の象徴となる教主を育み続けるのである。宗教というものが、ヒトという生命体のつくりだしたものであるならば、生命の発生と宗教の発生は共通点を含んでいて然るべきだと思うのである。




Copyright by RELNET CORPORATION. 1998
ページへ!ご意見・ご感想をお聞かせ下さい。RELNET
customer@relnet.co.jp