(四)李氏の朝鮮王朝
▼文治集権の王朝国家
さて、李朝である(注1)。いまの日本人の基本気質、例えば「島国根性」や「県民性」は江戸時代の所産ではないか、とよく言われる。これに対し、いまの朝鮮人の基本気質を決めたのは、ずばりこの李朝時代である。ここでの影響の大きさに比べれば、高麗までの歴史なんてほとんど無視してもよいくらいである。その「遺産」は南北境界線を越えて、いまも厳然とある。それは大政治から小生活まで覆い尽くす「儒教」である(注2)。ともあれ、この王朝の性格について述べよう。
(注1)この章で何を書くか(=何を書かないか)は案外むずかしい選択ではある。迷った挙げ句、以下のようにごく何点かに絞り込んだが。
(注2)「儒教」とは、日本でのような「儒学」(学問)ではない。ある「宗教」や「道徳」としてのそれである。本稿では国民気質に染み込んだ儒教は取り扱わないが、いずれ別に考えてみたい。それに、儒教の人間普遍主義はキリスト教なぞの似非ヒューマニズムに比べ格段の文化主義であったが、これについても別途考えたい。
朝鮮は、儒教それも朱子学を国教とする文人国家である。しばしば非難のタネとなる「事大主義」すら、もとは『孟子』の一節に由来する。孟子は、自分の国を保つ小国の知恵として「以小事大」の礼を説く。その例として、殷を討つ前の周・大王が北狄たる匈奴に事(つか)え、また、嘗胆(しょうたん:苦い胆をなめる)して報復を誓う越王・勾践(こうせん)が南蛮たる呉に事えたことを挙げている。要は、名を捨て実を取ることができるのが、智者たるわが朝鮮だという自負をここで担保したのである。
文人国家というのは、科挙官僚国家であり、かつ武官に優越して文官(合わせて両班)が支配した国ということである。朱子学を含めて諸制度は中国のもののアレンジであるが、文治主義と中央集権制が強かったことに特徴がある。官僚は全三六階級から成り、大きくは十二階級ごと上中下の区別があり、高級官僚は上位の「堂上官」が占めた。身分は世襲であり、両班(=地主)、中人(実務官僚)、良民(農工商)、賤民(奴婢他)の四階級があった。
政府は「議政府」と呼ばれ、日本の律令国家平安王朝の「太政官」に相当する。中央官庁(六曹)や全国行政区分(八道)等もほぼ同様に考えてもらってよい。違いは日本では次に戦国時代と呼ばれる分封国家段階に移行しようかというこの15世紀に、改めて強固な「律令国家=王朝」を築いたことである(これ自体は中国でも同じで、いや中国に見習っているのだから当然なのだが)。そして大陸用の中央集権制を、中国に比べて狭小の半島で額面通りに徹底するとどうなるかという「実験場」と李朝は化した。
地方長官はほぼ一年任期で転々とした。在地勢力とさせないためである。高麗後期に拡がっていた私田はすべて没収され、官僚には公田が支給された。その田は王都漢城のある京畿道内にすべてあった。田地はしだいに世襲田となり公田制は崩れていったが、それ以上の経済活動は厳しく統制され、中央政府に対して一定の自立的な力を持った地方の政治勢力はついに現れることはなかった(注)。それから、徹底的な文治主義は、時とともに国家の軍事力を痩せ細らせていった。
(注)ハングル文字を創制した最盛期の名君・世宗(在位1419〜50年)に仕えた儒者・申叔舟(シンスクジゥ)の手になる日本研究書『海東諸国記』によれば、室町期の大内・細川・山名氏などの大名たちは「幕府」に対しての「独立勢力」に見え、日本は将軍の支配する統一国には見えなかった。
▼儒者の党争の始まり、夷たる倭人と胡人の襲来
日本の南北朝を合一させた足利義満は、明皇帝の臣下になることにした。そして朝鮮とも国交を回復した(1404年)。奈良時代末の779年に新羅との使節交換が途絶えて以来、実に625年ぶりのことであった。それからしばらくは国家間では泰平が保たれる。すると朝鮮では何が起こるか。まず、王位纂奪劇などがあった。そして、そう、両班の党争である。仏教が敗退し、武官が敗退した後は、儒教文官同士の党争が残っていたからだ。殺し合いの政争は、国家整備が終わった15世紀末から開始された。士林や儒林と呼ばれた彼らは、初めは「東人」と「西人」に二分し、その後小分裂を繰り返し、王朝の滅亡まで党争を続けた(注)。
(注)党争の本格化は16世紀後半以降である。分派を挙げれば、南人、北人、大北、小北、骨北、功西、清西、少西、老西、…。また、各派が信奉する名儒を祀る「書院」という儒学所が各地に建てられ、これを介した荘園が徐々に拡大していった。
そうした貴族たちの「眠り」はいつも外寇によって破られる。中央の京畿道では平穏無事であったかも知れないが、日本は戦国時代に入り、ますます倭寇が朝鮮や中国の沿岸地帯を徘徊していた。豊臣秀吉が織田信長に代わって天下統一に乗りだした頃、満州では後ちの清を建てる女真人がヌルハチに率いられて活動を拡げていた。朝鮮では、秀吉軍の侵入を言わば「大倭寇」と捉えている。これを「壬辰・丁酉の倭乱」と呼ぶ(「壬申の乱」などと同様、朝鮮の事件は「干支」がつく)。
ご存知の通り、加藤清正や小西行長らが「活躍」するのであるが、上陸してわずか三週間で漢城が、二ヶ月で平壌が陥落した(注1)。これには日本軍の勇猛さ以外に、朝鮮側に二つの理由がある。民心の乖離と国軍の貧弱さである。少なくとも平壌陥落までは、日本軍はほとんで抵抗を受けていない。それどころか、漢城の民衆は役所に火を放って奴婢証文を焼き捨て、また王・宣祖が平壌を捨てて逃げるときには石を投げつけている。ともあれ、宗主国・明の軍事力(特に大砲)と義兵決起、それに高級文官からは侮蔑された武官の英雄・李舜臣の水軍によって、王朝は危機を脱する(注2)。
(注1)日本軍が漢城へと駆け上った道は、皮肉にも李朝が室町幕府の使節が行き来するために指し示した平和の道であった。
(注2)日本と朝鮮は、徳川家康が1609年に対馬の宗氏を通じて国交を回復している。江戸時代の「通信使」はその賜物である。しかしその復交時の使節は「回答兼刷還使」(国書への回答と「倭乱」時の捕虜送還のための使節)であり、朝鮮側は日本への疑心をもって国情視察を兼ねて使節を送り出していた。朝鮮国内へも、先の轍を踏まぬように釜山までに留め、それ以上の進入を許さなかった。「倭乱」以降、日本は油断ならぬ凶暴な「倭夷」という記憶が、近代での「仮洋夷」(洋夷モドキ)視への伏流となって流れ込んでいる。
倭人が終われば、胡人である。胡人とは女真人であり、彼らは全満州を糾合し「後金」と名乗った。その頃、朝鮮では何が行なわれていたか。そう、党争である。1627年、後金は朝鮮に侵入する。この時は、兄弟的関係に入るということで和を結んで引き上げた。その後、後金は蒙古平原を征服して「汗」(カン)の称号を受け、自ら中国皇帝として「清」と国名を改めた。その通知を朝鮮に送るが、明のみを「皇帝」とする「尊明排清」の親「明」派によって、国書は拒絶された(これは後年、日本が差し出した「天皇」の「皇」の字が入った開国通知を拒絶した論理と同一である)。
これに怒った清は大軍をもってたちまち漢城まで攻め込み、四面楚歌となった王・仁祖は降伏した(1637年)。以後、朝鮮は清に事大の礼を取ることを強いられることとなった。これを「丁卯・丙子の胡乱」と呼ぶ。その後、三国関係は安定するが、そうなるとどうなるかは言うまでもない。そして、これら五十年ほどの間に起きた争乱で、誰が最も重荷を背負い込んだのかも言うまでもないだろう。近代の幕開きまで、党争と民衆暴動が延々と繰り返されるのである。
「小中華意識」について触れておこう。「漢族」の明による中国(中華)は「夷狄」たる満州族の清によって、1662年に完全消滅する。中国人よりも中国人であった朝鮮両班は、中国が消えた今よりは朝鮮人が中華を担うと自負した。かくして政治的には清に事大し、思想的には中華として君臨する「神州」と朝鮮はなった。清に服属を強いられたときから抱え込んだこうした矛盾は、それから200年を経た近代においてこそ、屈折して噴出せざるを得ない運命にあった。