(一)
「大阪」とは大和(奈良県)から呼んだ地名である。それは河内地方に抜ける峠のことであり、逢坂(大坂)山を指した。いまの穴虫(あなむし)峠である。県境には二上山が立っている。その北の山裾を越える道が穴虫峠であり、南回りの道を竹内峠と言う。後者がいわゆる竹内街道である。両道は、大和盆地の東端にある長谷や三輪山南脇から真西に伸び、藤原京北辺をかすめて、やがて二上山の東麓に至る「横大路」と言う幹道の西端での分枝である。道は山を越えてから合流し、そのまま和泉の海へと西進していた。これを「丹比道」と言う。途中で真北に向かう道があった。これを北上すれば上町台地に立つ難波宮である。
蛇足ながら、大和盆地南部に築かれた藤原京の両脇から真北へ伸びる二本の道があった。東側を北上するのが「中つ道」、西側を北上するのが「下つ道」である。残る「上つ道」もあって、いまの山辺の道がそうである。この下・中・上はどこから見た呼び名であったかを示している。なかでも、下つ道は盆地北部に位置する平城京中央を貫く朱雀大路にそのままつながっていた。このように古代の道は、方位に実直である。道路整備の困難にもかかわらず、真北や真西など直線を貫徹しているのは、意外にも近代の道ではなく古代の道の方なのである。近代の合理性とは愚直な困難なぞ避けるものである。古代とは、別の「合理性」を持った時代であり、それは言わば「宗教合理性」の時代なのである。
二上山は二つの峰を持つ連山であり、北の雄岳(517メートル)と南の雌岳(474メートル)から成る。雄岳には大津皇子の奥津城があることでも有名である。折口信夫がこの山麓に題材を採った『死者の書』を著しているが、そのテーマの一つは日本人の夕陽・西方信仰である。二上山の山越に西方阿弥陀浄土を垣間見た人々がいた。お分かりのように、これは大和盆地から西方を望み見る視点である。因みに、山の向こうでも夕陽信仰はあって、四天王寺から難波の海に沈む夕陽が崇められていた。浄土という発想からも明らかだが、西方は死者の国の方向であり、夕陽も太陽の死を意味していた。
(二)
今度は盆地の東方に目を向けよう。大和の御諸である三輪山がある。御諸(みもろ)とは御室(みむろ)とも言い、神奈備(かんなび)山(神山)のことである。正体を蛇とされる大物主が棲むというこの山麓は、実は朝日信仰の地でもある。山麓の西北部に桧原(ひばら)神社というところがある。ここから山頂への参拝登山もできるのだが、このあたりは西方への見晴らしが実に素晴らしい。眼下に箸墓古墳をおさめ、やや左手方向に大和三山、目の前に広がる盆地を越えて向こうに二上山が望める。
「桧原」は「日原」とも書かれ、ここが「笠縫邑」(かさぬいむら)だとされる。笠縫邑とは、日本書紀が記す崇神天皇六年に天照大神を祀ったという地名である。「笠縫」は「嵩日」(かさぬひ)とも書かれ、「重ね日」の謂いだと分かる。日を重ねてどうするのか。その行方を読むのである。暦とは「日(か)読み」のことだ。日読みを行ない、暦を作る者が「日知り」(聖)である。それは何のためかというと、稲作農耕のために太陽の運行を、つまりは季節の移り行きを知るためであった。
日本における太陽信仰、またアマテラス信仰とはこのことであり、太陽自体を絶対的な神として崇めるものではない。稲作やその信仰と深く結びついたものがアマテラス信仰である。だから、紀記にある天の岩屋神話は日蝕と解してはならない。岩穴への籠もりとは直ちに太陽の死である。太陽は日々東方に生まれ、西方に死ぬ。そして黄泉(よみ)返り、それを繰り返すのだ。繰り返しの大死が大晦日の夜であり、そこからの新生が新年正月元旦である。
(三)
三諸(みもろ)つく 三輪山見れば 隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の桧原(ひばら) 思ほゆるかも (万葉集 巻七 1095)
神が棲むあの三輪山を見ると、その向こうにある泊瀬山を仰ぎ見る桧原社を想い出す。「隠国(こもりく)の」は山々に囲まれた「泊瀬」(長谷・はせ)の地を讃える枕詞だが、それ以上の意味があると思われる。ずばり「隠国」とは常世のことである。どうして大和第一の三輪山を差し置いて、桧原社から遙拝する泊瀬山(天神山)を想うのか。それはこの山に天照大神が来臨するとされているからである。
崇神天皇によって笠縫邑に祀られた天照大神は、次の垂仁天皇のとき、倭(やまと)姫に連れられて伊勢に遷られている。そういう伝承によって、桧原は「元伊勢」とも呼ばれる。問題は東方への遷宮である。桧原神社に本殿というものはなく、神門はただ三輪山に向かっているのだが、この真東には実は三輪山の頂きはない。そうではなく、その先にはやはりあの泊瀬山があるのである。つまり、太陽=アマテラスの新生(日の出)を仰ぎ見る社が桧原神社だということになる。
なぜ真西や真東なのか。二至二分、つまり夏至、冬至、春分、秋分を知るためであり、これによって稲作を適切に進めるためだ。桧原神社はその中心にある。北緯34度32分は「太陽の道」なのである。そこから真西には二上山があり、真東には泊瀬山を介して「伊勢」がある。ただし、この伊勢とは倭姫が到着した元の斎宮の地である。これが春分と秋分のとき、アマテラスが天空を渡る道なのだ。
(四)
神々を崇(あが)めたと贈り名された天皇がいる。第十代崇神天皇その人である。この天皇は、日本書紀によれば、夢見(神界との交信)に従って大坂神と墨坂神に盾と矛を奉って祀っている。大坂神とは、穴虫峠の神(大坂山口神社)である。もう一つの墨坂神とは、長谷の向こうにある伊勢に通じる峠にある墨坂神社である。つまり、崇神天皇は大和盆地の東西の境界に盾と矛を置いて、悪霊などの進入を霊的に防衛しようとしたのだ。
大汝(おほなむち) 少(すくな)御神の 作らしし 妹背の山 見らくしよしも (万葉集 巻七 1247)
大国主神と少彦名神がお作りなったという、雌岳雄岳の二峰(二上山)は実に素晴らしいものだ。柿本人麻呂集中の一歌である。「オホナムチ(ヂ)」(大穴牟遅)とは、多名で知られる大国主神の一名であるが、見事なことに万葉集の原文には次のような用字がなされている。
大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
すなわち、人麻呂は「オホナムチ」を「大穴道」と作っているのだ。「大穴」とは「オホアナ」であり、「穴虫」(あなむし)峠とはこの「穴道」(あなみち)を受けたものということになる。二神が作ったという二上山とは何なのか。箸墓(古墳)は、昼は人が、そして夜は神が造ったとされているが、特別な山々も神々が造ったものだったのだ。因みに、箸墓は大坂山より石を運んだと日本書記にあるが、実際、特産のサヌカイト石が多数見つかっており、これが実証されている。
それにしても、「穴」とは何か。常世への門である。常世(あの世)とは、死の国であるが、生以前の国でもある。その国へは西方の穴から通じており、再び東方の穴からこの世に戻ってくることが出来る。この世とあの世はそういう構造でつながっている。太陽は日々これを繰り返して、古代の人々にそのことを教えてくれていたのだ。
(五)
大和盆地のスケールでは、大坂(穴虫峠)−箸墓−桧原神社−泊瀬山(天神山)のラインが「太陽の道」である。これが天照大神の伊勢遷宮によって、東方線が元斎宮まで伸びる。付け加えれば、その延長線上にある伊勢湾内には「神島」があり、西方に戻れば、室生寺の室生山、和泉の堺に大鳥神社(注)、大阪湾を越えて淡路島には「伊勢久留馬(くるま)神社」など、続々と太陽信仰に関わる聖地が立ち並ぶ。
(注)中臣氏系の大鳥氏の氏神で、古くから日本武尊を祭神としたとされる。これは日本武尊が鳥になったという伝承によるものであろう。しかしその「大鳥」(鳳)とは本来、太陽を運ぶ「烏」(鳳凰でもある)であったに違いない。
この「太陽の道」という概念は、やや大雑把に「東西」とされた上でだが、中央構造線のように紀記の神話世界に貫かれている。伊勢と出雲はその典型的なセットだ。伊勢には常世の波が寄せると言い、一方の出雲は黄泉国に通じるとされている。これはそのまま、アマテラス(天照大神)とオホアナムチ(大国主神)の対でもある。日向(ひむか)と日隅(ひのくま)も東西のセットだ。「熊野」とは実際の方位はともあれ、常世がある方位を指し示していることは間違いない。
もっとスケールを広げると、常陸(ひたち)と長門(ながと)が視野に入ってくる。常陸は「日立」とも書くが、用字はそこが「常(世)陸」であることを示している。つまり、太陽が再び昇ってくる常世の東方出口穴に近い国だということである。長門は本州最西端の国(山口県西部)であるが、古くは「穴門」(あなと)と呼ばれた。「穴道」とは、やはり常世への「穴の門」であったわけである。
[主なネタ本]
小川光三『大和の原像--知られざる古代太陽の道 増補』大和書房(現在品切れ)
折口信夫『死者の書』中公文庫
鎌田東二『神と仏の精神史』春秋社
萩原法子『熊野の太陽信仰と三本足の烏』戎光祥出版