▼文明への暴力
9月11日朝、私はワシントンD.C.のホテルの一室からペンタゴンに電話をかけた。その日インタビューする予定になっていた相手に、時間を確認するためである。その時考えもしなかったが、幸運なことに、たまたま約束が一日延びることになった。私は階下のレストランで朝食をとることにした。9時ころのことだ。別室で会議をしていた人々がどやどやとレストランに集まってきた。テレビがつけられると、大型の画面に映し出されたのは、煙に包まれた世界貿易センタービルだった。その後同時多発テロと呼ばれることになる事件の始まりである。次々に流れてくるレポーターの興奮した声、政治家たちの緊張した声。そんななかで、とくに注意を引いたのはブッシュ大統領の「文明への攻撃」という言葉であった。
▼スリランカの民族紛争
ここでわたしの専門であるスリランカの「民族紛争」について述べておきたい。総人口の7割以上を占める多数派のシンハラ人と少数派のタミル人との暴力的対立は、歴史的には1956年の総選挙にさかのぼる。このときバンダーラナーヤカ率いる政党が「(公用語に英語ではなく)シンハラ語のみを」というスローガンを掲げて、民族対決を鮮明にし、圧勝した。選挙後、政府の方針に反対するデモに参加していたタミル人たちがシンハラ人に襲われるという事件が起こる。その後も暴力沙汰が散発的に起きたが、タミル人たちの一部が分離独立を目指すようになり、武装闘争が本格化したのは1970年代後半であった。1983年7月にはコロンボを中心に5,000人以上のタミル人が虐殺された。複数の武装集団が内ゲバを繰り返すなか、タミル国解放の虎(LTTE)集団が勝ち残り、政府軍との戦いが泥沼化していく。コロンボの北にある国際空港とそれに隣接する軍事施設がLTTEによって攻撃されたのはつい、数ヶ月前のことだ。
こういった状況を指して、スリランカの「民族紛争」は激化していると言われる。だが、私はこれを民族紛争という言葉で単純に表現することには反対だ。なぜなら、一度「民族」という言葉で暴力が語られ始めると、それはきわめて普遍的かつ非歴史的なものであるかのような錯覚を招き、紛争は解決不可能なものに変貌してしまうからである。民族という言葉には、それが太古の昔から存在し、他民族と対立関係にあるものだ、という意味が内包されているようだ。民族紛争もその当事者である「民族」も、歴史的に構築されてきたという視点、すなわち、過去の確執があり、具体的な暴力の連鎖の複雑な絡み合いの末にいまの現実が生じているという事実が、忘れ去られてしまうのだ。そしてなによりも暴力のリアリティが欠落してしまう。
同じことが「文明」という言葉にもあてはまらないだろうか。
▼文明という暴力
われわれがいま直面しているのは一国内の民族紛争ではないし、国と国との戦いでもない。ある人はこの状況を、西欧対アラブ、あるいはキリスト教対イスラーム教という文明の衝突だ、と主張する。そうした表現に含まれる危うさを十分に理解しているゆえに、ブッシュ政権は、これをやっきになって否定し、文明(諸文明)対野蛮(テロ)という図式を掲げる。一方、「テロイスト」集団は、イスラーム諸国をまきこむため文明対文明の対立図式に固執しようとする。
だが、どのような図式を提示するにせよ、文明や民族、あるいは国家という言葉は、集団内部の多様性を隠蔽し、対立関係を固定し、歴史的な特殊性を無視させてしまう。善か悪か、味方か敵か、という二者択一的な思考から抜け出せなくさせてしまうのである。一見明快であるゆえに、こうした言葉のもつ暴力を十分に意識すべきであろう。そして、これらの言葉を使うことによって現実に行使されている暴力のリアリティからますます遠ざかってしまうということに気づかねばならない。というのも、このリアリティこそが犠牲者の死や痛み、残された者の哀しみを分かち合える能力をわれわれに喚起し、新たな暴力の抑止を可能にするからだ。文明や民族という言葉でナショナリズムを鼓舞し、暴力の共同体を実現できても、哀しみの共同体を生みだすことにはならない。アメリカの女性思想家E・スカリーが『痛みにおける身体』(オックスフォード大学出版局)で述べているように、真の「文明」とは戦争や拷問による痛みを表現し、克服する言葉を提示できる能力そのものなのである。文明への暴力を文明という名の暴力で報復してはならないのだ。
*なお、本論は、「新世紀考 暴力4 <民族>や<文明>を語る危うさ」『京都新聞』朝刊01/11/08に掲載されたものを、著者から紹介されて転載させていただきました。