▼現行憲法上における首相の強力な地位と権限
わが国の首相(内閣総理大臣)は、ある意味でイギリスの首相(内閣総理大臣)やアメリカ大統領よりも強力な地位や権限を有しているといえる。
なぜならわが国の「行政権は内閣に属し」「内閣は首相およびその他の閣僚からなる合議体」であり「行政権については、国会に対し連帯して責任を負い、かつ衆議院の信任に基づいて成立すべき」ことは、憲法規定上明白である。この点に関する限り、わが国はイギリス流の議院内閣制を建前にしている。
しかし内閣が合議体で、議会に対する連帯責任が保持されるには、イギリスのように、首相と他の閣僚の関係が任命者と被任命者の関係ではなく、あくまで平等の関係でなければならない。
また閣僚はすべて議員たることが前提でなければならない。なぜなら、首相と他の閣僚の関係が任命者と被任命者の主従関係では、内閣は合議体として成り立ちえないし、議会に対しても連帯責任をとりえないからである。
ところが、憲法規定によってわが国首相は国会指名に基づく天皇の任命であるが、他の閣僚については首相の任命である。首相はまた他の閣僚を意のままに罷免できる。これでは明白な主従(上下)
関係である。アメリカ大統領と各省長官の関係と同様になる。
アメリカの場合は、行政権は大統領のみに属し、内閣は合議体でなく単なる大統領の諮問機関に過ぎない。各省の長官は大統領に個別的責任を持つだけである。これは、大統領だけが行政上のすべての責任を負っているので何ら問題がない。
しかしわが国の場合、行政権は首相ではなく、内閣に属する。しかも内閣は合議体で、行政について連帯責任を負うことになっている。それゆえ、首相が他の閣僚を任意に罷免しうるということは全く内閣の性質に矛盾する。
またわが国首相は、過半数を超えない人数だけ議会外から閣僚を選ぶことができる。これではアメリカの内閣のようになる。なぜなら議席を持たない閣僚は、首相には忠誠を払うが、議会に何ら責任を負う必要がないからである。これでは議会に対する連帯責任の観念からますます外れてしまうことになる。
かくしてわが国の内閣制では以下のような問題が生ずる。
▼首相の地位と権力が極めて強大なものとなりうる。
客観的に不要な時や政治道徳上行うべきでない時でさえ、首相はいたずらに内閣を改造し、自らの責任を回避しようとすることがある。
また恩顧を売るためや派閥操縦のためにそれを利用することもある。
派閥を温存することになる。
戦後、首相にとってまことに都合のよいこれらの規定を使い、強力な指導力を発揮、長期政権を維持した首相例としては吉田茂と佐藤栄作が特筆される。しかしその他の首相はこの権限をあまり利用していない。そしてこれが首相なのかと疑いたくなるような指導力のない首相があまりにも多い。とくに近年の内閣を見渡すと、真の実力者は陰に隠れ、真の首相が一体誰か、判らない場合さえある。
▼現行憲法改正が首相指導力を高めるとは限らない
議院内閣制を採るイギリスや日本では、首相として成功するには閣内や党内意見に充分配慮し、それを調整し、纏めねばならない。
そもそもわが国の内閣には「閣議一体の原則」がある。内閣決議は全会一致でなければならないという観念である。アメリカ大統領制のように、「反対七、賛成一、よって可決されました」と述べたような内閣を無視したリンカーン的「独断専行」はできない。かの吉田茂や佐藤栄作でさえ閣内や党内意見に注意を払わなければならなかった。
日本社会は「合意」「協調」「調和」を伝統的規範とする「和」の国である。事実、歴代首相は内閣の「和」の維持に腐心してきた。例えば、福田赳夫氏は「協調と連帯」「コンセンサス・ポリティクス」、大平正芳氏は「信頼と合意の政治」「和の政治」という言葉を頻繁に使い、鈴木善幸氏も「和」を政治指針に掲げた。羽田孜氏も所信表明に「改革と協調」を挙げた。あの旧社会党(現在、社民党)首相の村山富市氏でさえ「和」を好んで使った。橋本龍太郎氏も、平成9年の伊勢神宮参拝では「和」、中国訪問でも、「以和為貴」と明白に揮毫した。海部俊樹首相は解散を独断的に暗示したため閣僚に離反され、その首が飛んだ。
日本の首相はいかなる政治制度であろうと「調整型」の政治家でなければならない。彼らは決して理念・政策を持たないわけではない。ただ「合意」「協調」「調和」が必要なわが国の政治風土では、個人的理念や政策を欧米のように独断的に推進しえない。事実、首相になった途端、ほとんどの首相は閣内、党内調整に汲々とし、それに没頭せざるをえなくなる。換言すると、「
談合 」政治でもある。
要するに、わが国の首相は党内の事情から生まれ、政治的「調整」力に最も卓越した政治家がその地位を獲得する。そしてその指導力の成否は彼のパーソナリティー如何にかかっている。決して現行憲法上の権限強化でもたらされるとは限らない。