日本の「民主主義」とは「どっちの政治ショー」か
 02年02月09日
萬 遜樹
 

 国会予算委員会での「言った言わない」で、田中真紀子外務大臣の首が飛んだ。驚くべきはこの後のことだ。これによって、小泉内閣の「支持率」が急降下した。さらにマスコミは「小泉改革」の行方を悲観視し、これまで息を潜めていた「抵抗勢力」は鎌首をもたげ始めた。マスコミ各社が行なう「支持率」はあたかも「人民投票」なのである(「支持率」と一般の投票結果とは別物である。それは日本には二つの「国民」がいるからだろう)。

 ところで、テレビ番組で「どっちの料理ショー」というものがあるのをご存知だろうか。関口宏と三宅裕司それぞれが対比される料理を持ち出して、七人のゲストに食べたい料理を選択させ、多数決で二つの料理の勝敗を決しようというものである。順に各々の料理の魅力をたっぷりと披露するデモンストレーション(煽動)が巧みにはめ込まれ、何回かある中間意思表示でゲスト各人の気持ちが右に左に揺れ動くのがおもしろい。

 両司会者の「いまの気分はどっち?」のかけ声のもと、ゲストはそのつど食べたい料理側へと移動するのだが、結末はなかなかシビアである。さんざん焦らされた挙げ句、過半数(四票以上)をとった側のゲストだけがそのお目当ての料理にありつけるのである。少数派となってしまった敗者側は文字通り指をくわえて、それをただ眺めていなければならない。何かに似ていないだろうか。そう、私たちの「民主主義」にそっくりなのである。

 「どっちの政治ショー」とでも名付けたらよさそうな日本の「民主主義」は、「いま食べたい気分」だけで決せられる多数決ゲームである。だが、「政治」の決定資格を持つ「ゲスト」は「政治家」や「国会議員」と呼ばれ、「国民」はテレビ視聴者よろしくじりじりとその採決を待つだけだ。そして、自分たちがいま食べたい気分の「料理」すなわち施策はいつも少数派に転落し、勝者たちが美味しそうに食べる政治果実をただ眺めさせられるばかりなのである。

 誤解しないで頂きたいが、筆者は「政治家」批判をしたいのではない。よく考えてほしい。まず、「どっちの料理ショー」でどちらが勝っても視聴者に実際のおこぼれはないように、「どっちの政治ショー」で支持した方が勝者となってもすぐに目に見えるような見返りはめったにない。次に、「どっちの政治ショー」の「ゲスト」たちは「いま食べたい気分」ではなく、「いま有利な利権への意識」や自分が考える「国益」などから、曲がりなりにも「政治的判断」で選択しているのである。

 つまり、「政治」を「どっちの政治ショー」だと決め込み、無責任にも「いま食べたい気分」だけで勝手な期待を抱き、勝者になればよし、そうでなければ「国民不在」と声高に叫んでいるのは、マスコミを代表とする「国民」の方なのである。だからこそ、テレビ番組の視聴率のような「支持率」がたいへん有意義なものとされている。視聴率がそうであるように、「支持率」なぞ、単に「いま食べたい気分」と同程度の指標にすぎない。残念ながら、これが日本人の「民主主義」なのである。

 アフガン復興支援国際会議への一NGO参加問題をめぐる「言った言わない」は、まさに「どっちの政治ショー」だ。オール・オア・ナッシングなのである。(多分に誤解があるようなので言い添えておくが、渦中の「ピースウィンズ・ジャパン」ばかりがアフガン支援NGOなのではない。彼らによる「鈴木宗男氏から外務省へ圧力があった」との訴えは、自分たちが招かれなかったということであり、決してNGO全体が参加拒否されたということではない。)

 「民主主義」とは何かについての根本論議は機会があれば別にしたいが、日本の「政治」が「国民」の言いなりになることは私はどうか御免蒙りたい。例えば、近代日本の戦争はすべて「国民」の支持のもと進められた。日露戦争の講和に大反対したのは「国民」であり、日中戦争を泥沼化していった陸軍を強く支持したのも「国民」であった。戦争反対が「国民」の「気分」の大勢となったことなぞこれまでない。

 そういう意味では、いわゆる「十五年戦争」に至った根本原因を「天皇制国家」とか「軍国主義」とかのせいに収斂させ、「国民」とは別物として分離しようとすることはすべて誤魔化しだとさえ言える。日本の「政治」は、むしろ「国民」の「気分」に引き摺られて隘路へと進んでいったのだ。リーダーの無能を後で言い立てることは容易い。しかし、例えば中国への戦争を拡大した近衛文麿首相は、「国民」の絶大な支持を得ていたのだ(ここでは「小泉改革」へのイロニーを意図するものではない)。

 「支持率」というような不定形なものは、まさに「いまの気分」だけで下される無責任な欲望・欲求なのである。その「国民」の欲望や欲求は常に熱狂や易きに流れる。いまの社会教育、とりわけ家庭教育の有り様は、根本義において「自治」であるはずの「民主主義」を支える「国民」の能力のお粗末さの証明でなくて何であろう。ちまたに頻発する凶悪化した少年犯罪や不道徳行為はすべて、「民主主義」を支える私たち「国民」が産んだ賜物なのである。

 今回の「真偽」(そんなものがあればだが)や結末はともあれとしても、田中真紀子氏の如き人物がこれまで絶大な「支持」を受けてきたこと自体に大いに問題がある(今回の「事件」で彼女は「殉教者」となり「聖者」に列せられ、その「人気」はいや増すばかりだが)。これは「政治」の問題ではない。はっきりと「国民」の問題である。官僚「いびり」や政治家「いじめ」は、「政治」批判なぞではなく、マスコミを代表とする「国民」の単なる憂さ晴らしにすぎない。

 田中真紀子氏とは、世界はたった一つの「真実」で出来ていると信じている「素朴実在論」者である。物事には表と裏があることは当然知っているが、さらにそれ以外もあるかも知れないとは露ほども考えない日本人である。思考と言語は一致するものであり、言語と現実も一致させることが出来ると思っている。世の中には善と悪があり、自分の見たもの聞いたことを信じ、分かりにくいよりも分かりやすい方がよいことだと単純素朴に思う人物である。

 彼女が外務大臣として登場した後、「国民」から「政治が身近になった」や「分かりやすい」という声が女性を中心に上がった。これは「政治」が「どっちの政治ショー」になったということだ。そして更迭報道を受け、彼女のもとには連日声援が届き、中には「子どもが学校から帰ってきて、田中外相がかわいそうと言います」と、我が子の声に託して、今回の「理不尽」を糾弾する母親もいる。これなぞ「いまの気分は?」の「どっちの政治ショー」でなくて何であろう。

 問題の舞台となった予算委員会での答弁、また「解任」直後の首相官邸でのマスコミへの発言の仕方、さかのぼっては米国テロ事件の際の政府要人避難地の漏洩などを見るとよく分かるのだが、彼女は一次元での思考しか出来ない単純素朴な大人なのだ。これだけあからさまに「真実」を語ろうとする上級組織人や公人は珍しい。彼女は言うまでもなく日本国の外務大臣だったのであり、喩えて言えば、いくら低く見積もったとしても一部上場の大企業で取締役クラス以上を務める大幹部だったのである。

 少なくとも民間企業では、こんな発言の仕方をする幹部はいない。これは善悪や真否の問題ではない。彼女の答弁や発言は、運動会の一種目でのクライマックスを書くのに、「ぼくは朝起きて、運動会の準備をして、それから学校へ行きました。」とご丁寧にもその日の一部始終の叙述から始まる、小学生の出来の悪い作文のようだ。彼女には含蓄や複合、何より矛盾とその受容への理解が感じられない。やすやすと語れることになぞ「真実」はないのにもかかわらず。

 ついでにと言ってはたいへん申し訳ないのだが、社民党の土井たか子党首のかつての発言「悪いものは悪い」もこれと同じだ。トートロジー(同じことのくり返し)なのである。トートロジーとは「考えない」ことなのだ。「当たり前は当たり前」なのだ。安易に用いている言葉・概念・思考をあえて疑い深めることこそが、「政治家」を始めあらゆるリーダーや「国民」が行なわねばならないことだ。「分かりやすさ」の中には何の探究もない。

 田中真紀子氏に何が出来たのか。よくやって、同日に辞職した大橋巨泉氏と同じである。つまり、言いたいことを言い、そしてこんな所でやってられないと、政治責任と結果責任を潔く(?)放棄するだけである。今回の事件のそもそもの発端である「アフガン攻撃」に際しても、「テロは良くない。でも戦争も良くない」と思考停止した日本「国民」であった。田中外相とは、言わば日本「国民」の自画像であろう。

 筆者は、ここで日本の「政治」や「政治家」について述べたのではない(これはこれで問わねばならないが)。マスコミを代表とする日本の「国民」を批判したのである。皆さんにもう一度ご注意申し上げる。マスコミは「政治」を語っているのではない。「どっちの政治ショー」を連日演出しているのである。「キャスター」や「コメンテーター」は今夜もあなたに問いかける。「いまの気分はどっち?」


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