▼日本古代史学界の「化学消防士」遠山美都男
遠山美都男(とおやまみつお)という、七世紀の古代日本を中心に「通説」をくつがえしてきた歴史学者がいる。七世紀とは重要な世紀で、この時代には聖徳太子の摂政、大化改新、白村江の戦い、壬申の乱などの事績が含まれる。日本古代史と言えば、長く論争の続く「邪馬台国」の所在地や「騎馬民族征服説」の当否を始め、この七世紀の事績をめぐっても、ご承知の通り珍説奇説を含めて、諸説紛々の喧しさだ。
そういう煮えたぎる論争の坩堝の中に、氏は一人熱さを感じぬ者のように冷静に入り、その業火を静めていく。火に油を注いだり、油の火事に水をかけているのが通例だが、氏はまるで沈着な「化学消防士」の如き趣だ。常に俯瞰的な広角思考を失わずにその時代が流れている方向を的確に見据えた上で、「日本書紀」などの粉飾や後世の臆断を適切に排し、事績の再評価(位置づけ直し)を用意周到に行なってきた。実は筆者は、そういう氏の一ファンである。
その遠山氏が昨年『日本書記はなにを隠してきたか』という本を出した。この本は通史的なものではなく氏の成果の点描集となっているのだが、これを読み、思いついた。氏が説くプロットをつなげ、遠山史観による古代史を筆者なりにまとめてみようかと。以下はその試みであるが、筆者の読み違いや思い込み、また著者が未言及の「空白部分」では筆者の独断などが多数混入していることをあらかじめお断りしておきたい(最後に付した著作群に直接当たられることを乞う)。
(一)
▼「卑弥呼」の時代と「彼女たち」の役割
遠山氏が集中的に取り上げる七世紀を中心に述べたいが、その前にこれ以前についても重要なポイントを記しておこう。この時代に言及するのは『卑弥呼の正体』と『天皇誕生』の二著である。実は、これらは「古代史ファン」に甚だ不評である。というのは、ファンが求める「ロマン」の火をすべて鎮火してしまうからだ。例えば、「卑弥呼」という名の女王なぞ存在しなかった、と言う。また、その「女王」は国王ではなかった、とも述べる。
あったのは「卑弥呼」という「地位」(仮に「卑弥呼職」とする)であり、おそらくそれは「ヒメミコ」と呼ばれるものだった。「ヒメミコ」は、「倭国大乱」があった当時に一時的に設けられたある宗教的立場であり、別にいた政治的首長である国王に従属するものであったと。また、「魏志倭人伝」が伝える「女王国」のイメージは、政治は男がなすものと考える中華帝国たる中国王朝が、東夷にすぎない倭国を「鬼道を能くする女が治める国」と蔑んで誇張した表現だと断ずる。
では「ヒメミコ」とはいかなる役割を果たしたものだったのか、が気になる。それは内乱を収拾し再統一した倭国がその統合モニュメントとして「前方後円墳」を生み出すまでの過渡的な時期を、宗教的に支えた何事かであっただろうと氏は説く。それが、「ヒメミコ」が「鬼道」によって執り行なった儀式であった。その儀式とは、前方後円墳の時代にはその古墳上で行なわれた国王継承儀式の前身であったのであり、そこでは銅鐸や銅矛に替わり鏡が大きな役割を果たすようになったのであろう。
▼「卑弥呼」が「日継ぎ=倭王」という王権神話を創った
ここで筆者の推断を加えると、「ヒコ」(彦・日子)と同様、「ヒメミコ」の「ヒメ」(姫・日女)も聖なる「ヒ」(霊・日・火・一)の語を含むような何者かである。「ヒ」(ビ)とは「タカミムスヒ」(高皇産霊神)や「カミムスヒ」(神皇産霊神)などの最高霊格を示す(「タマシヒ:魂」や「ヒト:霊留・人」もこの流れにある)とともに、太陽(日)や燃える火そのものにも通底する霊的エネルギーを表している。
「ヒメミコ」を仮に「日女御子」と解すると、それは「日の子」であり「太陽の子」である。「日」とは日神であり、王権の出づる淵源である(アマテラスが太陽=日神であり、倭王が「日継ぎ」と呼ばれるのはこのためである)。筆者は、実はこのような「日継ぎ=倭王」という王権神話を創出し演出したのが「ヒメミコ」というものではなかったかと思う。つまり、「卑弥呼職」とは日神の代理人として倭王への戴冠を挙行する祭祀者だったと考えるのである。
倭王就任を保証してくれた中華皇帝という絶対者を大陸の内乱で失い、倭国内でも内乱が発生し、国王の権威をいかに保証できるかが枢要な政治課題であった。そこで、日神を絶対化し、これによって国王の地位を保証しようとした、というわけだ。ともあれ、政治統合は成立し、東西文化の結合物として前方後円墳が築かれ始める。そして、一度「日継ぎ」という概念が成立すると、日神を象徴する鏡とそれへの祭祀だけを残して、「卑弥呼職」自体は不要になっていった。
(二)
▼『天皇誕生』の衝撃と「日本書紀」の目的
「卑弥呼」が個人名であるという臆断に基づいてのことだが、紀記の中に彼女の痕跡を探す努力がなされ、天照大神や神功皇后に投影されているのではないかとしばしば言われてきた。そこで次に、「日本書紀」の意図とそこに描かれた天皇(注)たちの正体を暴く、氏の『天皇誕生』の論点を取り上げたい。この書では「日本書紀」が描く神武から武烈までの天皇紀の意味が明かされ、それらが個々の素材そのものは別としても、全体としてはフィクションであると断じられている。
(注)「天皇」の称号は、それまでの「治天下大王」に替わり、七世紀後半に始まるものである。本稿では、「天皇」紀を記すという「日本書紀」の意図をフィクションとして明確にするため、すべて「天皇」号で通す。
これはなかなか実は大変なことである。武烈以前の天皇紀には編年的な意味での歴史学的価値が全くないということになるからだ。徹底的に脱神話的な批判を行なったとされる津田史学は愚か、それを受け継ぐ戦後古代史学もほとんど無価値な営為を長年続けたことになる。また、いわゆる「古代史ファン」にとっても、ああではないか、こうではないかと推測してはそれなりの整合性の当否を求めてきた言わば「根本経典」をあっさり失うことになってしまう。黙殺や反発は当然のことである。
氏によれば、「日本書紀」とは、中華皇帝とその帝国の歴史に対抗するために創作された日本天皇とその帝国の盛衰物語である。つまり、日本にも中国に匹敵する王権と文明文化が存在したことを捏造すること自体が本来の目的なのである。故に、ここから編年的な事実を取り出すことはほとんど不可能なのである。例えば、「ワカタケル」の銘入りの剣が発見された雄略天皇にしてさえ、そのモデルとなった人物が確かに実在したとは言えても、書紀に描かれた生涯と人物像、さらに系譜を証明するものではないのだ。
▼「万世一系」の「王統譜」とは何か
何より大きなフィクションはその「万世一系」の「王統譜」にある。ただし、早とちりをしてはならない。書紀に「万世一系」なぞ書かれてはいない。書かれているのはむしろ中国風な「王朝交替」なのである。書紀には、計三つの「王朝」(後述するが、正確にはある意図を持った系譜にすぎないのだが)が描き込まれている。神武から応神天皇まで、次に仁徳から武烈天皇まで、最後に継体から持統天皇までである。ただしご承知の通り、易姓革命(天命が改まり王朝の姓が替わること)ではないとされる。
筆者が付言すれば、「日本書紀」は三部構成で、第一部が「神代」、第二部が「神武から武烈天皇紀まで」、第三部が「継体から持統天皇紀まで」から成っている。全体として書紀成立時点での天皇家の権威と権力を語っているのだが、第一部ではその正統性の由来(中国と違い、「天」そのものの血筋が天皇家であること)、第二部では地上での「治天下」(支配)の発展プロセスと変遷、そして第三部では「現在」の律令・仏教に基づく文明国家と成るまでを主たるテーマとしている。
氏はこの「第二部」をさらに前編と後編に分けて述べる。その説明の前に「王統譜」の性格について述べておかなければならない。これは血統ではないのだ。氏は「倭の五王」の検討を通じてそう断じ、血統意識はせいぜい継体天皇以後のものだと推定する。ではそれ以前とは何なのか。「易姓」を多数含んだ王位の継承系図なのだ。しかも、モデルはあったとしても、書記の目的のため改竄され創作された系譜なのである。
おそらく、倭国王位は一定の資格を持つ複数の血族集団(姓の異なる家々)から、つどつど選ばれるものだったのである。後世の「万世一系」意識なぞ、書紀自体にはない。だから、先ほどの「三つの王朝」も「三つの王姓」という意味ではない。書紀の「王統譜」に、もし血族としての王朝(例えば、「河内王朝」や「葛城王朝」がそうだ)を探し始めたら、実はもうその時点で「万世一系」という神話に自ら呪縛されているのである。
▼神武天皇と「欠史八代」
さて、「第二部」の物語である。「前編」の神武から応神天皇紀までと、「後編」の仁徳から武烈天皇紀まで、に分かれる。前編は、天照大神の血を引く地上の歴代天皇が支配を広げ、「帝国」の版図を確定するまでの物語である。後編は、いったん完成した帝国が中国的な「王朝」プロセスを経験してきたことを物語ろうとするものだ。いかにも物語じみた作りの後編に比べ、前編には様々な無理が目立つ。
例えば、神武東征とは何か。なぜわざわざ「東征」せなばならなかったのか、ということだ。また、いわゆる「欠史八代」とは何か、等々。「東征」史実説には、邪馬台国東西論争を止揚する意味があり、今では通説に近い。だが、史実として読む必要がなくなれば、物語としてかえって理解しやすい。遠山氏は言う。「第一部」の「神代」物語を承け、「日継ぎ」としての天皇は、日向(ひむか)から日に向かい(これが「東:ひむがし」の意味である)、日を背にして勝利するのだと。
「欠史八代」については、奈良盆地内の県主の神女たちとの結婚がその意味だ。そして、「前編」を通じて言えることだが、特にこの「欠史八代」あたりでは長寿の天皇が目立つ。これは天皇家とその帝国の歴史を古くするためになされたことだろう、と述べる。それは、神武天皇の即位を「革命」年である「辛酉」に結びつけることばかりではなく、ある年代以前に遡っておく必要があったのだ。おそらく、中国側で記された各「倭人伝」を誤りとし、それを書き換えようとする意図があったものと考えられる。
▼「帝国」とその皇帝たる「天皇」の誕生
ともあれ、奈良盆地制圧の後、四方への皇化が始まる。第十代の崇神天皇が放った「四道将軍」とはそのことである。また、「神を崇(あが)める」天皇は、神を祭る祭祀の起源にも深く関わる。天照大神と倭大国魂(やまとおおくにたま)神、さらに大神(おおみわ)社の大物主神の祭祀についての叙述は著名である。天皇の「治天下」は順調に拡がり、第十二代の景行天皇の時には次男・ヤマトタケルを各地へ派遣して、ほぼ(書紀成立当時の)全国を制圧することに成功する。
いよいよ「前編」のクライマックスである。次期天皇である皇子を身籠もったまま、神功皇后は新羅を「征伐」する。「帝国」とは、自民族と固有領土以外も治める多民族・広域領土国家のことである。これで、中国同様、列島内の「異民族」である蝦夷や海外の新羅を「夷蛮」(後進民族・国家)として従える「華」たる「帝国」(これを「華夷秩序」と言う)が完成したというわけだ。
その勇ましい神功皇后の胎中にて征韓に参加した応神天皇とは何者か。生まれながらの将軍ならぬ、生まれながらの「天皇」(帝国の支配者である皇帝)である。応神天皇という人物像に託されたこととはそういうことだったのである。ところで、母・神功皇后には、やはり中国の歴史書に描かれた「卑弥呼」が投影されて、創作されたのであろう。しかし、私たちには順序が逆である。「シャーマン」神功皇后を通して、「卑弥呼」像を抱いていると考えるべきであろう。
念のために言い添えておこう。「前編」は、「日継ぎ」たる「天皇」がいかに神を祭り守られながら、いかに領土を拡げ、異民族を含めて支配する「帝国」となったか、をテーマとしたフィクションである。だから、「生まれながらの天皇」応神天皇の誕生で幕を閉じるのである。強調しなければならないのは、それ以上の意味を読み取ることは出来ないということだ。例えば、祭祀の起源など崇神天皇の事績、ヤマトタケルの征服劇などから、その時期や史実は引き出せないのである。
▼中華帝国は「王朝交替」という神話で出来ている
仁徳天皇から始まる「後編」は、今から述べることを踏まえて読めば、得心が行く。古代中国の「革命」(天命が改まる)思想は、周王朝が編み出したものだ。前の殷帝国に取って代わるための正統づけ理論だった。司馬遷の『史記』に整理されるが、聖帝の堯(ぎょう)と舜(しゅん)の後、天下は有徳の禹(う)が継ぎ、夏(か)王朝を開く。しかし悪徳であった第十七代の桀(けつ)王に至り、天命が改まり、殷王朝を開く湯(とう)王に滅ぼされる。
しかしながら、繁栄を誇ったその殷も暴君であった第三十代の紂(ちゅう)王に至って、ついに周の武王に滅ぼされる。つまり、中国では王朝は王が有徳である間は続くが、王が悪政をはばからなくなると天命が下り、新たな有徳の王が現れ、王朝は取って代わられるものだと考えられてきた(言うまでもなく、これもフィクションであるが)。書紀成立の時点での中華帝国・唐もそういう「王朝交替」の神話によって自らを正統づけていた。
当の「後編」は、実はそういう物語なのである。有徳の仁徳天皇のエピソードはつとに有名だ(名からして「仁徳」だ)。例の、かまどから立ち上る煙を見て、租税を免除し、自らも質素倹約を実践したというお話である。仁徳天皇でもう一つ忘れてはならないのは、葛城氏出身の磐(いわ)之姫の嫉妬であろう。しかしテーマは実は嫉妬ではない。そうではなくて、「多産」なのである。つまり、有徳で多産の王が、一つの「王朝」を開いたことが語られている。
▼武烈天皇はなぜ暴君であらねばならないのか
この「仁徳王朝」(通説では「河内王朝」と呼ぶ)には、そういう意図をきちんと読み取れるように符牒づけさえなされている。仁徳天皇の和名は「オオ-ササギ」(大鷦鷯)である。そして、この王朝の最後を飾る暴君となった武烈天皇の和名は「オ-ハツセ-ノ-ワカ-ササギ」(小泊瀬稚鷦鷯)である。お分かりの通り、「オオ-ササギ」に対して「ワカ-ササギ」という関係だ。ササギとはミソサザイ(鷦鷯)という鳥のことである。ミソサザイはスズメ目に属する小鳥で、良い鳴き声と「一夫多妻」で知られる。
実は、多産(豊穣)のエピソードで満たされた仁徳紀に対して、武烈(この漢名も暗示的だ)紀には「不妊」(不毛)の挿話が塗り込められている。即位前のことである。ある歌垣の夜、多くの人々がいる前で、臣下の平群氏のシビという男に恋情を寄せる娘を奪われてしまう。娘もシビの方になびいていたのだ。嘲笑された皇子は激怒する。大伴金村連に命じて、平群シビとその父を討ち、栄えある平群氏を滅ぼしてしまう。
その直後、ワカササギは即位する。しかし、書紀におけるその後の記述は治世にではなく、武烈天皇の悪逆の記録に費やされている。妊婦の腹を割いて胎児を見たりしたなぞというの悪趣味な行為のオンパレードである。およそ皇紀にはふさわしくないことが書き連ねてある。敢えてそう書いてあるのである。もちろんのこと、皇統(仁徳王朝)の断絶こそ、最大の不毛である。武烈紀とは、徳の衰退を、その結果としての「王朝の交替」の必然を示すためのものである。
▼有徳かつ大悪の雄略天皇を描く意味
計十一名の天皇が登場する「仁徳王朝」には、ある盛衰のリズムが描かれている。その上昇の頂点となり、同時に下降へと向かうことになる節目に立つのが雄略天皇である。和名は「オオ-ハツセ-ノ-ワカ-タケ」(大泊瀬幼武)。武烈天皇と重なる「ハツセ-ノ-ワカ」が下降を示唆する符牒である。現在では、雄略天皇には稲荷山古墳出土の刀剣にあった「ワカタケル」、また「倭の五王」の「武」として一定の像がある。しかし、書紀の雄略天皇像は違う。そうだ、史実と書紀の雄略天皇像は違うのだ。
この違いを単なる粉飾と解してはならない。全く別の「話」なのだ。書紀の雄略天皇を追おう。上昇の頂点は、本物の神とさえも対等に対する天皇像である。葛城山中での一言主神との出会いがそうである。こんなふうに神に対した天皇は空前絶後である。史上最高の天皇と言っても良いくらいのことなのである。同時に、雄略紀は血塗られているもいる。雄略天皇の即位は、兄弟など皇位継承候補者たちを皆殺しにした上に成り立っている。
次に、ささいなことから臣下たちを殺したり、殺そうとしたことが数多くあり、陰では人々から「大悪の天皇」と言われていたことが記されている。そして何よりも彼には「不毛」の影が忍び寄っている。事実、彼の皇統はわずか二代、皇子の清寧天皇で断絶を迎えることになる。遠山氏によれば、雄略天皇の長文の遺詔は、『隋書』高祖文帝(楊堅)の詔勅の引き写しである。隋は、漢帝国崩壊以来、長期に渡った分裂時代を克服した偉大なる帝国であり、文帝こそその王朝創始者である。
しかしその隋帝国は、父と兄弟たちを殺して帝位に登った煬帝までのわずか二代で滅亡してしまう。煬帝の暴君ぶりは史上に名高い。この性格が雄略および武烈天皇に振り分けられている。さらに、本来、煬帝の役割にあった武烈天皇との間に、もう三代を差し挟み、引き延ばされていると氏は言う。雄略天皇の遺詔は、殊勝な内容で、死の間際には「有徳の天皇」に戻されていると言えよう。このように、有徳かつ大悪の天皇像を描く雄略紀は「仁徳王朝」の分水嶺を物語っている。
(つづく)
[主なネタ本]
遠山美都男『日本書紀はなにをかくしてきたか?』新書y/洋泉社
遠山美都男『卑弥呼の正体--『魏志』倭人伝の誤解からすべてが始まった』新書y/洋泉社
遠山美都男『天皇誕生--日本書紀が描いた王朝交替』中公新書