(三)
▼未来に向けて、再解釈した真実を描く書紀
さて、継体紀以後(筆者の言う「第三部」)の書紀は、「第二部」とは目的が異なっている。書紀はすでに、中華帝国に負けない「日本」帝国の古さとその皇帝たる「天皇」の由来、また帝国の発展と中華帝国と同様の「王朝」の存在などを語り尽くしてきた。以後は、「現在および未来」のためにこそ語られなければならない。その第一の読者とは、未来の天皇たちである。彼ら彼女らに向けて、「第三部」は語られている。
事実はただ一つだが、真実はいくつもある。それが解釈というものだ。「日本書紀」は「帝紀」や「旧辞」と呼ばれた『天皇紀』や『国記』などをもとに編纂され、ようやく720(養老四)年に完成した書物だ。記述は持統紀(〜697年)までだが、まだまだ記憶には生々しいこともあっただろう。だが、書紀はそんなことに見向きもしないで、事実に周到な再解釈を施していく。後世の天皇たちに「書紀史観」で解釈された真実を与えるために。
▼継体天皇は応神天皇の五世孫という論理と虚構
まず、継体天皇の即位について述べなければならない。ここに一つの皇統の断絶があることは言うまでもない。しかし継体天皇の出自は、いくつかあった皇位継承資格を有する血筋の一つに属するものだったと考えなければならない。すでに六世紀である。そういう「天皇諸家」はとうに固定されていたはずだし、まもなく唯一の血統に絞り込まれる直前期に当たる。ただし同時に、最終的にはあくまで人物本位で天皇が選ばれていたことも示している。
興味深いのは、応神天皇の五世孫だという所伝である。ここには、「仁徳王朝」との調整、つまり書紀編纂者たちの作為が読み取れると、遠山氏は言う。実は、「仁徳王朝」最後の武烈天皇も、応神天皇の五世孫に当たる。どういうことになるかと言うと、五世の長さを有する「仁徳王朝」を踏まえてでなければ、継体天皇が応神天皇の五世孫なぞということは意味を持たないのだ。だから、「仁徳王朝」物語が完成してから、継体天皇に至る系譜の長さが決められたということになる。
それは二つの事柄の同質性、つまり「仁徳王朝」の物語がそうであるように「継体天皇は応神天皇の五世孫」もフィクションであったことを示す。継体天皇にとっての皇位継承上の問題は、血統的な系譜にではなく、むしろ「世代」条件にあったはずだ。当時の重要な条件として、前王と同世代の候補者がいるならその中から選抜するということがあった。継体天皇は、武烈天皇の姉である手白髪(タシラカノ)皇女と婚姻を結ぶことによって、武烈天皇と同世代であるという皇位継承条件を満たしたのであった。
▼欽明天皇による王権の統一と蘇我稲目の登場
王権分裂期とも言われる皇位継承プロセスについては不明の部分もあるが、ともあれ継体天皇の皇子・欽明天皇が即位する。そして欽明天皇は分裂を克服し、王権の統一を回復する。これには、それまで大きな権力をふるってきた大伴金村大連が大昔の任那割譲問題の咎(とが)を今になって責められて退場し、替わって蘇我稲目という男が突如、大臣として登場したこととも関係があるものと思われる。蘇我稲目とは何者か。それは蘇我氏とは何かを解くに等しい。
稲目は没落した葛城氏の女と結婚しており、もうけた二人の娘を欽明天皇に差し出したのだ。再統一者・欽明天皇はかつての高貴なる葛城氏の血を欲していた。「仁徳王朝」の天皇たちのモデルとなった大王たちは確かにいたし、葛城氏がその大王たちに后妃を独占的に提供していたことも事実だったのだ。葛城氏がそうなった事情はよく分からないが、蘇我氏が葛城氏と同じ立場、すなわち天皇家の身内となることで稲目は大臣となれたのだ。
故に、以後の蘇我氏とは天皇家に最も血縁的に身近な親族でもある臣下として理解していくことがポイントとなる。後述するが、蘇我氏の「専横」とは書紀の解釈である。それは、そういう解釈をすべきだとする時代的政治的な流れの中で生み出されたものである。それから、かつての葛城氏、いまの蘇我氏と同じ立場に連なるのが藤原氏であることはお分かりであろう。事実、藤原不比等は没落した蘇我氏の女を妻とすることから政治的なスタートを切る。
▼神仏紛争とは蘇我氏対物部氏の争いか
三十余年の欽明天皇の治世に寄り添ったのは、大臣蘇我稲目である。わが娘堅塩媛(きたしひめ)は後ちの用明・推古天皇を、小姉君(おあねのきみ)は崇峻天皇・穴穂部(あなほべ)皇子らを産んだ。そして息子には馬子を持った。馬子はこれら諸天皇たちの叔父だったわけだ。ここでは稲目が始めた「新葛城氏」の威勢を確認頂きたい。欽明天皇の子で天皇になった四子のうち、三人までが稲目を岳父(舅・しゅうと)としていたのだ。
さて、欽明朝の538年に百済から仏教が公伝されたとされている。ここから、いわゆる蘇我氏対物部氏の神仏紛争が始まることになる。これは書紀の解釈の本質に関わるのだが、書紀は外戚氏族の役割と皇位継承のルールの存在を認めようとしない。実は、この神仏紛争もこの書紀史観で粉飾されている。この問題が顕在化したのは、欽明朝を継いだ敏逹朝になってからである。すでに世は馬子を大臣とする時代となっていた。
次の用明朝にはついに武力紛争となり、物部氏は滅ぶ。物部氏本宗家が滅んだことは事実であろう。しかしそれがいかなる因果関係でそうなったかについては、書紀が説くものとは別の真実がある。まず蘇我氏だが、彼らは天皇家に最も忠実な臣下であった。だから蘇我氏の行動を馬子の専断で、また蘇我氏の利益のためだけになされたものと考えてはならない。つまり、物部氏は天皇家のために、また支配層の了解のもと滅ぼされねばならなかったのだ。
臣下の争いとは、実は王族間の代理戦争であった。書紀はこれをひた隠し、蘇我氏を始め諸豪族の専横や闘争として描いている。当時の皇位継承のルールは、世代・年長順と決まっていた。しかしこれを破り、一昔前がそうであったように天皇は人物の力量により選ばれるべきであり、我こそは皇位継承者であると体制を乱す皇子が現れる。このときは穴穂部皇子がそうであった。神仏紛争とは、皇位継承をめぐる穴穂部皇子問題であったと言える。
▼神仏紛争の真相:穴穂部皇子の闘争
穴穂部皇子と物部氏(守屋)、それに中臣氏が排仏派であったとされている。このうち神祇家である中臣氏がそうであった理由はよく分かる。しかし、物部氏が実は渋川廃寺を営んでいたように、皇子や守屋が排仏に固執していたとは考えられない。「神仏紛争」としたのは穴穂部皇子を物部守屋の運命と一緒くたにして、王家内のいざこざを粉飾してしまうことが目的だったのである。もう一つ考えられることは、聖徳太子による仏教興隆への序章としての意味である。
穴穂部皇子は敏逹天皇の殯(もがり)宮で皇位継承を主張するが、年長の用明天皇が即位する。皇子は実力行使に出て、敏逹天皇の大后・額田部皇女(後ちの推古天皇)を奪おうとする。王族内での立場を優位にしようとしたのだ。しかし敏逹天皇の寵臣・三輪逆に阻まれる。皇子は物部守屋に命じて三輪逆を討つため、磐余池辺に進んだ。実はそこには用明天皇の宮があった。皇子らは三輪逆を殺したばかりではなく、天皇をも傷つけたのだった。
翌587年、用明天皇はその傷がもとであえなく崩御した。額田部皇女は大后として断を下し、守屋に大義を与える穴穂部皇子の抹殺を馬子に命じる。これにて王族間紛争は終結した。残された守屋は大逆罪を一人負わされることになった。守屋征伐には、泊瀬部皇子(崇峻天皇)らとともに、この戦の中で四天王寺発願をしたという若き厩戸皇子(後ちの聖徳太子)も参加したという。「丁未(ていび)の役」がそれである。
▼崇峻天皇の弑逆と推古天皇の「中継」
皇位継承のルールに従い、次に擁立されたのは崇峻天皇であった。ご存知の通り、天皇は馬子に弑逆されている。「横暴を振るう」蘇我氏が後ちに滅ぼされねばならなかった理由の一つとされる事件である。しかしながら、書紀に馬子への非難は何ら見当たらない。それもそのはずである。当の天皇家および支配層の要請を受けての抹殺であったのだから。世代・年長順のルールには適っていたが、受け容れようもないほどの無能だったのだ。
一度即位した天皇は終身であることが、当時のもう一つのルールであった。交替は天皇の死によるほかなかった。これが次なる課題である。世代・年長順のルールを守っても有能者でなければ意味がない。もう一つある。穴穂部皇子の暴発のような同世代の候補者同士の闘争を防止しなければならない。これらのジレンマが初の女帝・推古天皇の即位を生む。次期継承候補は三名いた。欽明天皇の孫世代に当たる、押坂彦人大兄皇子、竹田皇子、厩戸皇子である。
時間をかけて、継承者を絞り込むのだ。敏逹天皇の大后として大政に参加した経験を持つ推古天皇は、大権の継承保留者であり、次王の産婆役となった。ここで言っておくが、「大兄」とは皇太子ではないし、次期天皇である「皇太子」の地位はまだ存在しない(持統天皇が珂瑠[カル]皇子[後ちの文武天皇]を初めて皇太子に指名した)。しかし結局、この女帝による「中継」計画は失敗した。終身の推古天皇が長命すぎて、候補者全員が先になくなってしまったのだ。天皇位の生前譲位はまだ先だ。
▼「聖徳太子」とは何者か
推古朝と言えば、聖徳太子「摂政」の時代である。厩戸皇子は「聖徳太子」であるのか否か。実在しない人格、全くのフィクションだという説すらある。確かに「聖徳太子」という輝くばかりの尊号から始まり、「大化改新」や律令仏教国家の先取構想、後ちの新国名「日本」を予感させるような大唐帝国との対等外交など、出来過ぎである。それに、個人的な「超人」伝説にも事欠かない。書紀に描かれた「聖徳太子」とはいったい何者なのか。
史実ではないと知りつつも、理想の「皇太子」像を描くこと。これこそが書紀編纂者の意図であった。実際、「日本書紀」を読み、見事お手本通りとは行かなかったが、「聖徳太子」のような聖王を目指した皇太子がいた。首(おびと)皇子、すなわち律令仏教国家の頂点に君臨した聖武天皇その人である。「日本書紀」とはこの首皇子に読ませるために作られたと言ってもよいのではないか。とりわけ、「聖徳太子」の章はそうである。
往時の皇位継承ルールを明確化することがなぜ避けられたのか。それは書紀成立の時にはすでに父子直系相伝へとルールが変わっていたからだ。しかも、このルールだけで正統化することも困難であった。なぜなら、天智天皇から子の弘文天皇へと継承された皇位が、再び天智天皇の兄弟である天武天皇へと移っていたからだ。ここを曖昧にしつつも、天智・天武朝への流れを必然的に描くこと。これが書紀の大きな課題であった。
(つづく)
[主なネタ本]
遠山美都男『日本書紀はなにをかくしてきたか?』新書y/洋泉社
遠山美都男『卑弥呼の正体--『魏志』倭人伝の誤解からすべてが始まった』新書y/洋泉社
遠山美都男『天皇誕生--日本書紀が描いた王朝交替』中公新書
遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』角川ソフィア文庫
遠山美都男『大化改新--六四五年六月の宮廷革命』中公新書