遠山史観による日本古代史(その3) 
 02年03月17日
萬 遜樹
 
(四)

〈欽明天皇の子孫の世代〉
[1]  [2]  [3]      [4]    [5]
29欽明┬30敏達┬押坂彦人大兄┬─34舒明──┬古人大兄
   │   └竹田    │   ‖   └38中大兄
   │          │┌(35皇極37斉明)
   │          │└(36孝徳)
   │          └─茅渟───┬35皇極37斉明
   ├31用明─厩戸──────山背大兄 └36孝徳
   ├32崇峻
   └33推古


▼「大化改新」前夜

 馬子が没して、蝦夷が蘇我本宗家を継いだ。それから二年後、叔父の後を追うように推古天皇も崩御する。皇位継承候補には、敏逹天皇の孫(押坂彦人大兄皇子の子)である田村皇子と、用明天皇の孫(厩戸皇子の子)である山背大兄王の二人がいた。実は二人とも蝦夷の縁戚であった。田村皇子は蝦夷の妹(あるいは姉)の夫で義兄弟に当たり、一方の山背大兄王は別の妹(あるいは姉)の子であり蝦夷の甥であった。

 推古朝を継いだのは年長の田村皇子で、舒明天皇である。この時、穴穂部皇子のように皇位継承ルールに楯突いたのは山背大兄王であった。「聖徳太子」ほどではないにしろ、次王とも目された偉大なる厩戸皇子を父に持つ皇子には納得がいかなかったのだろう。蝦夷は推古天皇の遺詔と当時の継承ルールを忠実に守り、田村皇子を即位させたのだった。後ちの山背大兄王と蝦夷のキャラクターは明らかに書紀の作為である。

 舒明天皇と大后・宝皇女(後ちの皇極天皇)の13年間の治世(629〜641年)について、少しだけ触れておく。630年、初の遣唐使を送り出した。631年、百済から王子の豊璋が同盟の人質として来日する。彼の帰国は、663年の白村江の戦いの直前となる。639年、東西の人民を使役して、百済宮および百済大寺が造られ始める。百済大寺の塔は、現在90メートルの高さがあったと推定されている。大化改新の担い手となる、僧旻(632年)と高向玄理(640年)が唐から相次いで帰国した。

 しかし、皇位継承問題は一向に打開されず、ポスト舒明天皇の候補には、最右翼・山背大兄王のほか、舒明天皇の子・古人大兄皇子とまだ若い中大兄皇子(宝皇女が生母)、大后・宝皇女の弟・軽皇子らがいた。結局、ここでも一時保留が選ばれ、舒明天皇の後にはその大后・宝皇女が皇極天皇として即位(注)することになった。642年のことである。ご承知の通り、その三年後には「大化改新」と通称される政治改革の始まりを告げるという「乙巳(いっし)の変」が起きる。

(注)皇極天皇は、舒明天皇との婚姻により同世代と見なされた。なお、弟の軽皇子(後ちの孝徳天皇)も年齢とも相まって、同世代と見なされた。

▼山背大兄王殺害の目的

 間もなく自死に追い込まれる山背大兄王であるが、それ02.3.16にしても評判が悪い。資格的には舒明朝をすんなり継いでいても何ら不思議ではないのであるが、天皇家および支配層に忌避されて皇極天皇の即位に至っている。第一に、それだけ看過できないほど人物的に問題があったとしか言いようがない。643年、蝦夷の子・入鹿は諸豪族を率いて従兄弟に当たる山背大兄王を斑鳩宮に囲む。ただし、これを蝦夷・入鹿の単なる暴挙と解しては間違いである。

 天皇家および支配層は明らかにこれを支持していた。包囲軍中には、何と軽皇子(後ちの孝徳天皇)がいた。他に巨勢徳太、大伴長徳、中臣塩屋牧夫らがいた。さらに、入鹿らが次期天皇に推す古人皇子の同意、中臣塩屋牧夫とのつながりから中臣鎌足と阿倍内麻呂らの支持もあったと見なければならない。つまり、軽皇子派と古人皇子派が共同で共通の敵を抹殺したのだ。これが山背大兄王が排除されなければならなかった第二の理由である。

 つまり、山背大兄王殺害の目的は、皇位継承者を古人皇子か軽皇子かに絞り込むことにあった。少なくとも、入鹿が「天位を傾けむ」とするものではなかったし、殺害の罪を彼一人が背負わねばならないものでもなかった。ともあれ、生前譲位は目前に迫っていた。そのための二度目の女帝だったのであるから。いずれかの決着をつけなければならなかった。しかし、まだ皇極天皇は迷っていた。決定的な何かが必要であった。

▼「乙巳の変」の構図と顛末

 蝦夷暗殺と入鹿誅殺劇である「乙巳の変」は、結局、何を実現したか。それは遠山氏がほぼ十年前に看破したことだが、天皇位の初の生前譲位であり、軽皇子すなわち孝徳天皇の即位であった。この指摘の衝撃は「書紀史観」を打ち砕くに値する。ここに蘇我氏=悪玉論は退場せざるを得ないのだ。同時に天智天皇と中臣鎌足の役割の卑小さや、「大化改新」との無関係性を暴露している。すなわち、「乙巳の変」は書紀的観点から作られた「物語」にほかならなかったのである。

 乙巳の変を含めた「大化改新」は、新政を目指した天智・天武、そして持統天皇が再構成した物語である。まず、乙巳の変の構図を整理しておく。これは出来レースであり、軽皇子派の山背大兄王抹殺に続く予定された第二次行動であった。「出来レース」と言うのは、実の弟であり多数派となった軽皇子を、皇極天皇が次期天皇と内定した上でのクーデタであったからだ。後の段取り(事件から二日後の譲位と即位)の良さから言っても、皇極天皇はすべてをあらかじめ知っていたと言わざるを得ない。

 「第二次行動」と言うのは、山背大兄王を倒した後は、同じチームで古人皇子派を殲滅する計画であったということだ。そのチームとは蝦夷・入鹿を除く山背大兄王襲撃メンバーに、蘇我本宗家の奪取を目論む蘇我倉山田石川麻呂と次代の継承候補者・中大兄皇子をも誘い込んだものだった。古人皇子派へのほぼ完全なる包囲網の完成と言ってよい。こうして「第二次クーデタ」は始まる。

 書紀は、飛鳥板蓋宮の、当時は存在しなかった「大極殿」で事件は起こったと述べる。天皇家の身内であり、最高の臣下であった入鹿は殺害される。入鹿の身内である(従兄弟に当たる)古人皇子擁立に固執したが故に。手を下したのは古人皇子が名指しした「韓人」こと蘇我倉山田石川麻呂らであった。その場には古人皇子もいた。皇子も殺害されなければならなかったはずだ。しかしどういうわけか皇子は虎口を脱出し、自分の大市宮へ逃げ帰っていた。

 実は、事態のイニシアティブは古人皇子にあった。クーデタ軍は、その大市宮と蝦夷が立て籠もる甘檮岡を分断しようと、その中間要地にあった飛鳥寺を占拠しそこに陣を張っていた。ところが、古人皇子はすでに降参を決め込み、翌早朝には敵陣・飛鳥寺に出向いて出家したのだ。これを知り、蝦夷はもはやこれまでと自害する。天皇家の身内とは、その身内がいればこそのことなのである。ここに存在意義を失った「二代目葛城氏」としての「蘇我外戚家」は滅ぶ。

▼「乙巳の変」の再解釈とその意味するもの

 では、書紀は何をどう書き換えたのだろうか。第一に、主役を軽皇子(即位して孝徳天皇)から中大兄皇子に置き換えている。第二に、天皇家の忠臣であった蘇我氏を、革新を阻む守旧派であり皇位纂奪を企む悪役として仕立て上げている(蘇我氏の皇室にも似た振る舞いは、身内としてむしろ許されたものだ)。第三に、「乙巳の変」が「大化改新」すなわち律令国家「日本」の始まりであり、中大兄皇子はこの全体構想のもと行動したと印象づけている。

 つまりは、後ちの天智天皇の先見の明を誉め讃え、その即位の必然を物語りたいのである。その「物語」はいまも天智天皇と鎌足との蹴鞠に託した密会がエピソードとしてよく知られているのだから、およそ1300年にわたり粉飾は成功してきたと言えるだろう。

 おそらく持統天皇が「天智天皇物語」のプロデューサーだったと筆者は考える。女帝の中にはある「矛盾」があり、それらを生涯の中で二つ担いながら、結局は天皇制を転換させた。それが「皇太子」制の創設となったのだ。先の「矛盾」とは、父・天智天皇と夫・天武天皇が行なった世代・能力による皇位継承の正統性であり、子・草壁皇子と孫・文武天皇によって担われるべき父子直系の血統による皇位継承の正統性である。

 ただし、女帝の歴史眼はこれに留まるものではなかった。彼女は、偉大なる父・天智天皇が企図した天皇制改革を全うしようとした。そのことは、「乙巳の変」では蘇我外戚家を単なる皇位纂奪者としたことに表れている。父は外戚などを排して、皇室の血統を統合・蒸留し、自分から始まる新しい皇統(まさにこれこそが、言わば「持ち回り」の「治天下大王」ではない「天皇」家だ)を生み出そうとしていた。これが弟・大海人皇子へ多くの娘を与えたことを始めとする婚姻政策であった。

 天智「天皇」の血統(これは天武天皇を含めたもので、持統天皇が自らすべてを引き継いでいる)を特別視することは、天智天皇の父・舒明天皇の父と母を、それぞれ「皇祖大兄」(押坂彦人大兄皇子)と「嶋皇祖母命」(糠手姫皇女)と称し、また、天智天皇の母・皇極(斉明)天皇を「皇祖母尊」と、さらに皇極天皇の母を「吉備嶋皇祖母命」(吉備姫王)とわざわざ呼ばせたことにも明白である。

〈新しい「皇統」の創造〉

  糠手姫皇女(嶋皇祖母命)
    ‖──────────舒明天皇
  押坂彦人大兄皇子(皇祖大兄)‖─┬天智天皇─持統天皇
    ‖           ‖ │      ‖─草壁皇子─文武天皇
    ‖─茅渟王       ‖ └────天武天皇
    ○  ‖───────皇極・斉明天皇(皇祖母尊)
      吉備姫王(吉備嶋皇祖母命)

▼「大化改新」と「書紀史観」

 ちょっと先走りし過ぎたようである。話を、皇極天皇からめでたく生前譲位された孝徳天皇の時代に戻す。すなわち646年、大化元年六月である。クーデタ実行グループは新政権を形成する。左大臣に阿倍内麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂(注)が就く。僧旻と高向玄理は国博士という政治顧問に任命され、中臣鎌足は別に内臣となった。もちろん、前帝宝皇女と中大兄皇子も政権に深く関与した。九月、古人皇子は新朝への謀反の罪で隠棲先の吉野山中で惨殺される。十二月、新帝は摂津国難波長柄豊崎宮に都するが、旧都飛鳥は副都としておそらく前帝宝皇女が統治していただろう。

(注)石川麻呂が「約束」通り蘇我本宗家を継ぎ、ここに「韓人」とあだ名された蘇我倉家の系譜が、滅んだ蘇我氏の前史として接ぎ木される。系譜の始まり建内宿禰の子・蘇我石川宿禰の「石川」とは、石川麻呂自身の名から採ったものに違いない。これに続く、満智−韓子−高麗の三代の名は、三韓よりの貢納物の倉管理を職掌して「韓人」とあだ名された蘇我倉家の系譜にふさわしい。なお、石川麻呂は649年「仲間」に謀反の嫌疑をかけられ、あわれ山田寺に自死されられた。

〈蘇我氏系図〉

 建内宿禰─蘇我石川宿禰─満智─韓子─高麗─稲目─馬子┬蝦夷─入鹿
                           └雄正─石川麻呂

 翌646年、「改新の詔」が発布される。「公地公民」や「班田収受」を含む四ヶ条から成るものとして書紀の記述が長らく鵜呑みにされてきたが、遠山氏は実際発布されたのはそのうち第一条と第四条のみだと言う。すなわち、皇族を支える部民・屯倉システムの改廃と、これに見合う新しい税システムの制定だ。そして、何よりも書紀成立時点から逆構成された「大化改新」像に幻惑され、その仕掛けに絡め取られてしまわないよう厳重に警告を発する。

 つまり、「大化改新」の肯定論も否定論も、ともに書紀のこの「改新の詔」を根拠にしてその実施度や実施時期についてだけ論じ合っているにすぎない。そもそも後ちの「律令国家」像をめざして、そういうヴィジョンがあって天皇たちが順々に「改新」施策を実施していったのだろうかという疑問である。歴史を遡行するときには「一本道」に見えるプロセスも、歴史が現実に進行するときには試行錯誤と言うより、後戻りもある「道なき道」を行くようなものであろう。

 しかしながら、内外の環境変化は確実に進行していく。むしろ、それが政治経済制度の改変を強いる。同じ646年、「古墳時代」を終焉させた薄葬令が出されている。クーデタは確かに強権発動を可能にしたのだ。だが、「書紀史観」が描く「内外の危機」を感じて、乙巳のクーデタが行なわれたとはとても信じられない。それでも、唐の数次にわたる高句麗遠征が海の向こうでは始まっていた。また、まもなく新羅は唐と連合を組み、倭国の同盟国・百済を滅ぼすことになるのである。

(つづく)

[主なネタ本]

遠山美都男『日本書紀はなにをかくしてきたか?』新書y/洋泉社
遠山美都男『卑弥呼の正体--『魏志』倭人伝の誤解からすべてが始まった』新書y/洋泉社
遠山美都男『天皇誕生--日本書紀が描いた王朝交替』中公新書
遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』角川ソフィア文庫
遠山美都男『大化改新--六四五年六月の宮廷革命』中公新書


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