遠山史観による日本古代史(その4) 
 02年03月23日
萬 遜樹

(五)

▼「世界王」としての女帝・斉明天皇の実力

 ドラマの主役が中大兄皇子となっている書紀は、皇子らに捨てられた孝徳天皇の寂しい晩年を描くが、本当はどうか分からない。ともあれ654年、孝徳天皇は難波宮に崩御する。皇位継承候補には孝徳の子・有間皇子と中大兄皇子がいたが、意見はまとまらなかったようだ。翌年、再び「中継役」で宝皇女が斉明天皇として即死する。齢六二であった。ここでも確認できるが、中大兄皇子は「乙巳の変」や「大化改新」の主役でないどころか、この時点でさえも次期天皇として認定されていないのだ。

 大政に関わることすでに二五年のキャリアを持つ女帝は、決して単なる「中継役」でもなかったし、息子・中大兄皇子の操り人形でもなかった。新たに本拠として岡本宮を築き、その東の丘に両槻(ふたつき)宮という高殿を、また吉野にも宮を造った。特に両槻宮の造営に当たっては、香具山からわざわざ運河を開き、船で石材を運ばせたという。直接動員された人民は愚か、支配層からも批判と非難の声が上がったことが書紀に記されている。この怨嗟(えんさ)の声の記載も、中大兄皇子のためのものであろうか。

 両槻宮の遺構はつい二年前(2000年)に再発見されて、亀形石像物などが見つかり大いに話題になった。長年の謎であった丘上の酒船石も、その関連の中でようやく意味づけが見出されようとしている。両槻宮のあった丘は全体が石垣で埋め尽くされた「聖山」であった。仏教の須弥山、あるいは道教の蓬莱山(注)と見立てられたらしい。そこでは、阿倍比羅夫らが征伐した蝦夷族長が連れて来られ、天皇への服属儀式が行なわれたようだ。

(注)「蓬莱山」と聞けば、かぐや姫を想い出される方も多いのではないか。「道教」はニッポン人に実に近しい。それは近すぎて見えないくらいである。ただし、中国の道教ではない。ニッポン仏教と同様なニッポン道教なのである。卑弥呼ゆかりの「三角縁神獣鏡」での道教の神仙(仙人)と霊獣、聖徳太子の道教的な諸伝説、斉明天皇の両槻宮世界、そして天智・天武・持統天皇たちによる道教に由来する神仙としての「天皇」への並々ならぬ志向。後ちの陰陽道、今に存続する大安や仏滅などの六輝信仰を考えると、言挙げできないほどニッポン人のふところの内にあることが分かるだろう。
 なお、両槻宮の「亀」は円形で、スッポンではないかと見られる。なぜなら、神仙が棲む蓬莱山はそのスッポンの背の上にあるからである。

 女帝は、かつての百済宮・百済大寺、「乙巳の変」があった飛鳥板蓋宮の造営以来、一貫して「人民徴発」という手法によって、天皇権力の成長を試みてきたのだった。今回は「改新の詔」で発布されたはずの「第四条」を実行して、人民を天皇(正確には「大王」)の名において動員したのである。三輪山を始め聖山を前にしての誓約は「世界樹」の思想である。斉明天皇は、服属させた蝦夷たちを遣唐使に同行させ、唐帝に披露さえしている。四囲の蛮族を従え、世界の中心に位置する普遍王(皇帝)たる「天皇」まであと一歩である。


▼果たせなかった生前譲位

 中大兄皇子のライバル・有間皇子は、658年、謀反の疑いで自死させられた。通説とは異なり、彼もまた父・孝徳天皇に倣い、クーデタによって中大兄皇子を打倒して皇位を継承しようと実際に企んでいたのである。そのオプションには女帝殺害まであったものと思われる。有間の死は、中大兄の次期継承を確実なものにしたはずだった。しかし、半島から思わぬ重大異変の知らせがもたらされる。新羅と連合した唐軍が百済を滅ぼしたのだ(660年)。残軍のリーダー・鬼室福信から救援要請が届く。

 譲位どころではなかったはずだ。だが、老いた女帝はこの窮地を転じて、一気に生前譲位を企図する。この百済復興戦争を成功させて「帝国」を拡大し、その軍功をもって我が子に譲位しようというのだ。長らく人質として倭国にあった豊璋を百済遺臣たちの求めに応じて帰国させる前に、冠位十九階最高位の「織冠」を授けて天皇の臣下としたのである(女帝の急逝で中大兄が代行)。しかし、軍船を率いて筑紫にあった女帝は急病を得て、あっけなく世を去ってしまった。最期まで実権を持った女帝であった。


▼白村江の戦いはなぜ敗れたのか

 ここに中大兄皇子の六年間に及ぶ、いわゆる「称制」(「新帝」が即位せずに政務を執ること)時代が始まる。なるほど、ほぼ確定的な次期天皇候補者であった。呼び名は「称制」でも何でもよい。しかし、要はあくまで「代行者」だ。即位していない「新帝」なぞ、言語矛盾である(注)。事実、即位できなかったのだ。必要条件は満たしていても、それは十分条件ではなかった。地位の上では言わば「僭王」に留まらざるを得なかった。おっと、この話の前に、百済救援のため白村江へ駆けつけなければならない。

(注)早い話が「皇太子」ではなかった(そして皇太子制がなかった)から、こういう矛盾的な表現をしなくてはいけなかったのだ。

 皇子は救援第一陣をそのまま百済に向けて進発させた。その後、豊璋に「織冠」を授けている。自らは母帝の亡骸を守って飛鳥に帰り、殯(もがり)した。翌年も百済援助を続け、またその豊璋を故国に送り返した。663年には、新羅を討つ軍も派遣した。しかし百済王となった豊璋は、いなくてはならぬ勇将・鬼室福信を自分の思い通りにならぬと短慮にも斬ってしまう。ここに百済残党の掃討をめざす唐・新羅軍は絶好の機会到来と、豊璋が立て籠もる最期の要地・周留(そる)城へと攻め寄せる。

 急を知った倭国は大船団に軍兵を乗せ、ソル城の救援に向かわせる。半島にいた先発隊もソル城に急ぐ。そうはさせじと、唐水軍はソル城へつながる水路(錦江)の入口に当たる河口部(白村江)を封鎖した。ここに白村江の戦いが始まる。ところがである。豊璋は倭の援軍を饗応すると、何と愚かにも決戦前夜にソル城を抜け出してしまったのである。百済王という「玉」を持たないソル城救援なぞ、戦略的に無意味な軍事行動である。

 しかし戦いは始まってしまっていた。何のために戦っているのかという戦略目標を忽然と失った倭軍は戦意を空転させ、惨敗を喫した。そして百済復興の夢も永久に消え去ってしまったのだ。遠山氏の面目躍如なのであるが、唐水軍が大軍であったとする通説とは違い、唐軍は170艘でかつ陸軍国の唐は海戦には不得手であった。対する倭軍は唐軍を上回る400艘で、しかも蝦夷を叩いた阿倍比羅夫らは日本海を大船団で行き来していたように倭は水軍国であったと述べる。戦力の大小ではなく、戦略目標の喪失が最大の敗因となった自滅的な敗戦だったのだ。


▼交錯する二つの「戦後」

 遠山氏の慧眼は実はこの敗因分析に止まるものではない。むしろ、その「戦後」観の考察にこそ光っている。氏は言う。書紀の記述をもとに、これに一貫した流れを与え、こう再構成するのが通説である。すなわち、「大敗を喫した」倭国は唐の侵攻に怯えて、防人を置き水城を築いた。さらには近江京に遷都して、唐への防衛態勢をとった。また、従属的な姿勢で唐一辺倒となり、律令を始め、何事も中国を模倣することとなった。しかしついには律令国家を完成させ、見事復興を果たした。

 だが、これは日米関係を投影した「戦後」占領・復興史観ではないか。つまり、「大敗を喫した」日米戦争の「戦後」気分を投影させて「白村江の敗戦」を見ているのだと。なるほど私たちにとって、思い出せる国難とはこれしかないのである。思わず知らずか、戦後日本史学は二つの「戦後」を主観的に重ね合わせて、結果として書紀にだまされることとなった。では、この先入観を排して、白村江の「戦後」を見るとどうなるのだろうか。


▼大陸の唐と半島の新羅、そして海を隔てた倭国

 百済の故地に都督府という軍管区を設けた唐は、海を隔てた倭ではなく、陸続きの高句麗との戦争に忙殺されていた。新羅とて同様だ。669年、唐はついに高句麗を滅ぼすが、今度は新羅が半島内の唐軍に攻めかかる。唐が新羅による半島領有を認め、戦争状態が終結するのは676年のことだった。その間の唐・新羅両国にとって、大水軍国であり、防備体制をさらに強化した倭国はどのような存在に見えただろうか。

 唐の反応が書紀に残る。早くも白村江の翌664年には旧百済の都督府から郭務ソウが、665年に劉徳高らが、667年に司馬法聡が、671年に李守真が使節として来朝し、671年には郭務ソウが捕虜を返還しに来た。郭務ソウは672年にも使節として来朝し、これで三度目となった。これらが何を意味するか、お分かりだろうか。唐は一貫して倭国へ接近を試みているのであり、中でも捕虜の返還は交戦状態の終結を意味している。唐は倭の中立、さらには同盟を求めていたと考えてよい。

 要するに大唐は倭国侵攻どころではなかったのである。倭国は文明文化人たる百済遺民たちを多数受け容れ、むしろ国力興隆のときにあった(注)。では、いかにも「防衛強化」と見える国内措置とは何なのか。それは外圧の名を借りた強権の発動である。「防衛強化」とは、同時的に天皇による国内の掌握である。つまり、「公地公民」や「班田収受」の前提となる戸籍作成や耕地調査、またこれと並行して国・郡・里制による全国諸地方の直接把握などが進められたのだ。

(注)大津京への遷都の理由の一つに、百済滅亡以来受け容れてきた数多くの遺臣たちの知識と技能を活用するため、彼らに与えられた住居地である近江に近いということがあったと思われる。


▼天智天皇の即位と「大化改新」のヴィジョン

 ところで、中大兄皇子の即位はどうなったのであろう。斉明天皇の急逝により、母帝よりの譲位の機会を永遠に失ってしまった皇子は、生きている「大権」の潜在的保有者を見つける。それが先の孝徳天皇の大后であり自分の妹でもある間人皇女であった。何としても「譲位」という十分条件が必要だったのだ。しかし彼女も665年に亡くなる。皇子は二年間にわたり皇女を慰霊し続け、その後、斉明陵に合葬し終えた。その翌月、近江大津京へ奠都(てんと)を敢行する。

 支配層内で最終的な合意が成ったのであろう。668年、ついに中大兄皇子は天智天皇として即位する。それにしても何と長い道程だったことか。名実ともに「天皇」となった天智は、皇権強化の仕上げ作業に入る。即位の翌年には、天智が若かりし頃に経験した「乙巳の変」以来、天皇をサポートし続けてきた中臣鎌足が死に臨んだ際、その長年の功績を称えて、二六階に増設された冠位の最高位「大織冠」を授け内大臣とし、藤原の姓を与えた。

 そういう中で670年、「庚午年籍」が作成される。日本で最初の全国戸籍である。これこそが「大化改新」というヴィジョンが求めていたものだ。天智は「称制」と「国難」という雌伏の中で、母帝に倣うように状況を逆手に取って、やはり類い希なる国家構想(天皇制国家の革新=「大化改新」)を育てつつ実行していったのだ。「日本」という国号、「天皇」という称号も、すでに検討されていたと思われる。「蒸留」された新しい皇統を作る皇子も育ちつつあった。

 ただし、順番を誤解してはいけない。聖徳太子の描いた理想図(ヴィジョン)を受け継ぎ、中大兄皇子が「乙巳の変」を断行し、「大化改新」と総称される新政策を次々と実行していったのではない。それらは後からつなげられ、前倒しに配置され直した「物語」である。二つの理想の「皇太子」像が接続されている。中大兄の長い「称制」時代を「皇太子」時代と詭弁し、「皇太子」が国難に立ち向かい、それを見事に克服する「物語」を描くことが書紀の目的の一つであった。

(六)


▼天智天皇の新「皇統」構想と晩年、大海人皇子の登場

 天智天皇の病は篤く、構想の行方に暗雲が立ちこめ始める。天智の構想は、同母弟・大海人皇子を協力者に兄弟で紡ぎ出した新しい血統から今後の天皇を出していき、よりスムーズな皇位継承を推し進めていこうというものだった。しかし、まだ「皇太子」制を定めるには至らなかった。新王朝初の「皇太子」となるべき草壁皇子あるいは大津皇子(ともに大海人を父に、天智の娘を母にする)がまだ幼かったことが一つ。また、支配層内での、「皇位は世代順に継承するもの」という伝統的な観念も根強かった。

 天智は仕方なく、草壁皇子らの即位までのつなぎとして、我が子・大友皇子(母は伊賀の豪族の娘)に譲位することを決断する。天智は分かっていた。力をつけてきた弟が「同世代」の皇位継承候補者として名乗りを挙げる可能性があり、そうなればこれを支援する豪族もあろうことを。時代は皇位継承方法について、まさに分水嶺を迎えつつあった。もし大海人皇子でなければ、天智の構想はうまくいったのかも知れない。

 大海人皇子は「大化改新」以前の半生が不明で急に書紀に登場することから、天智と大海人が異母兄弟であったとか、二人は全く別系統の王族だったのだという論が見られる。しかしこれは時代の大きな流れを無視した我田引水な論法と言わざるを得ない(注)。「大后」や「大兄」の制は皇位継承を安定させるためにあった。その「大兄」は同母の兄弟内の争いを避けるためのもので、この時代には定着しており、大海人皇子には優先的な継承資格はなく、記し残すには値しなかったのだ。

(注)こう書きながら、実は筆者自身もこの論法でこの時代を述べたことがある。ここは「遠山史観による日本古代史」ということで、食い違いをお許し願おう。

 ところが、天武政権を支える実力者として頭角を現した大海人は「大兄」制を乗り越え、ついには即位に至ったのである。天智晩年、このままでは自分の即位はないものと悟った大海人は来たるべき日を期して、出家し吉野に隠遁する。失意にうちにまもなく天皇は崩御するが、その後の皇位のありかが定かではない。大友皇子は弘文天皇と後ちに諡号されたが、本当に即位したのかどうか分からない。大権は未だ、天皇の大后・倭姫王(あの古人皇子の娘)のもとにあったとむしろ言うべきだろう。


▼最大の皇位継承戦争としての「壬申の乱」

 これも遠山氏の綿密な考証による結論であるが、大海人皇子は大友皇子の攻撃から不本意に挙兵に追い込まれ、ついに勝利して天武天皇となったのではない。あらかじめその意図をもって周到に準備し、かつ勝利後の政治構想さえもって臨んだ計画的クーデタだったのだ。大后・倭姫王を軸に考えると、本当の構図が見えてくる。女帝の後の、山背皇子殺害クーデタ、「乙巳の変」クーデタ、そして「壬申の乱」クーデタである。継承者は、同世代の大海人皇子か、それとも次世代の大友皇子かという争いなのである。

 大規模な武力闘争や戦争は、それぞれを支持する諸豪族の力なくして出来なかった。ただ、今回は少し違っていた。軍兵の直接動員のカギを握る「庚午年籍」(全国戸籍)があった。だからこそ、壬申の乱は古代最大の内乱となったのだ。大友皇子は「庚午年籍」を用い、地方官僚・国司(くにのみこともち)に命じて兵力を動員した。それに対して大海人皇子は、私領のある美濃を拠点に、大友の指令を受けた東国の国司たちに翻意を促した。

 細かい経過は略すが、結果はご存知の通りである。旧都・倭古京は抱き込んだ大伴氏らに守らせ、大海人自らは大津京攻めの後方・不破にあった。そこで、軍令権を長子・高市皇子に全面委譲する。戦争を大友皇子と高市皇子とが「治天下大王」を争うものと位置づけ、自らはそれを超越した地位にある何者かとしたのである。そう、それが「天皇」であった。大友皇子は自死し、大海人皇子は皇位を強引にもぎ取った。


▼天武朝における「天皇」意識と天智流「血統」主義の後退

 都は再び倭古京に戻り、そこで大海人皇子は天武天皇として即位する。大后はウ野皇女(天智の娘であり、後ちの持統天皇)である。天武は先帝・天智と同様、この動乱の統御と収拾の中で、皇権を強化・増大させていく。天智が白村江敗戦直後、豪族懐柔のために与えた部曲(かきべ:豪族私有民)を廃止し、また皇族を含む諸氏に下した山林等を没収した。他に、畿外豪族にも中央任官への道を開くなど、「公地公民」や全国直接統治の実を着々とあげていく。

 679年五月、自身にとって壬申の乱ゆかりの地・吉野に、天武は皇后とともに六人の皇子を招く。そこで、六人の結束と連帯を呼びかけ、相互の皇位継承順位を誓約させた。いわゆる「吉野盟約」である。その継承順位は次表の通りだ。留意すべきは、天武の皇子たちが確かに優遇されてはいるが、後ちの持統が始めたような一血統への絞り込みは未だなされてはいないということだ。天武自身が武力をもって「世代順継承」を遂行したくらいだから当然と言えるかも知れないが、ここで天智が構想した父母ともに天智かつ天武系という皇位継承の「血統」主義は一時後退している。

〈「吉野盟約」での継承順位〉
順位 皇子 父 母 (その父) 年齢順
1 草壁皇子 天武天皇 ウ野皇女(天智天皇) 3
2 大津皇子 天武天皇 大田皇女(天智天皇) 4
3 高市皇子 天武天皇 尼子娘 (胸形君) 1
4 河嶋皇子 天智天皇 色夫古娘(忍海造) 2
5 忍壁皇子 天武天皇 カジ媛 (宍人臣) 5
6 芝基皇子 天智天皇 伊羅都売(越道君) 6

 681年、律令と「書紀」の編纂開始を命じる。同時期に、二十歳の草壁皇子を次期天皇と定める。686年、天武は草薙剣(くさなぎのつるぎ)の祟りによって、にわかに病に倒れる。「天皇」は最高の清浄を含意する「すめらみこと」と読むが、これを名乗る天武は穢れを去らねばならない。年号に道教的な「朱鳥」を立て、宮を「飛鳥浄御原(きよみはら)宮」と改名する。しかしそのかいも虚しく、同年九月に崩御する。それでも「天武天皇」は「現人神」であり、その死は神仙のような超絶した隠棲に入ったものとされた。


▼持統天皇による「皇太子」の創出と初の平和的な生前譲位

 それでも二五歳の草壁皇子は即位しない。なぜか。後ちの「皇太子」ではないからだ。大后は大権を保持しながら、草壁皇子の成長を待つ。その彼女の初仕事は、「吉野盟約」で皇位継承順第二位の大津皇子の誅殺となった。皇后の考えは夫とは少し違ってきていた。何としても我が子・草壁皇子を即位させようというのだ。ところが願いは叶えられず、689年、皇子は二八歳で没する。だが、孫がいた。皇后は夜叉に変身する。浄御原令を完成させ、翌年、自ら中継ぎ役として即位する。持統天皇である。

 浄御原令(行政法)の完成は、古代天皇制の明白なメタモルフォーゼ(変態)を意味する。ついに「大化改新ヴィジョン」はほぼ成就し、法令に基づいた国家統治が可能となる。これに伴い、「天皇」も個人能力を離れた一地位として存立可能となった。696年、天武の皇子中、最年長の高市皇子が世を去る。翌年、女帝は草壁の忘れ形見・カル皇子を浄御原令の皇太子制に則った皇太子とする。同年八月、持統は生前譲位し、ここに文武天皇が即位した。史上初の平和的な生前譲位であった。

 以降、生前譲位は当たり前のものとなっていく。皇位継承ルールが替わったのだ。持統は、夫・天武によって一時あいまいにされかけた父帝の「血統による皇位継承」構想を復活し、しかもさらに先鋭化させて「父子直系」という一筋に絞り込んだ。これが「皇太子」制を出現させた。そしてやがて書紀には、「摂政」時代の聖徳太子(「太子」とは「皇太子」の意)、「皇太子」としての「称制」時代の中大兄皇子が描き出されることとなった。

 皇統は、天武と持統の息子・草壁皇子から、その子・文武天皇、その子・聖武、その子・孝謙(称徳)天皇へと引き継がれていく。これを「天武王朝」と指弾したのは、都を平安京に遷した桓武天皇だ。桓武は自身を「天智血統」と自認した。しかし皇位を独占したのは天武血統ではなく、正しくは草壁直系であった。天武傍流は天智系と同様、排除されていたのだから。桓武もまた、自身にとっての「真実」を述べたにすぎない。それは政治的なプロパガンダとして有効であった。


▼遠山史観についての蛇足

 さて、このあたりで本稿を終えたい。遠山氏には『彷徨の王権--聖武天皇』という興味深い聖武天皇論もあるのだが、それはまたの機会にしたい。最後に蛇足として、遠山史観についてまとめておこう。氏のフィールドは、中近世の天皇制論に鋭い斬り込みを見せる今谷明氏と同様、政治史である。政治史というのは、戦後歴史学が「戦前」的な政治中心史観を否定するために編み出した社会経済中心の「人民史観」によって、長らく冷遇されてきた分野である。

 しかしようやく今谷明氏や遠山美都男氏らのメスによって新たな光と面白さを見出され来た。両者とも、天皇制というニッポンとその政治の歴史的な解明のカギとなるものに沿って仕事をしていることが意味深長である。結局、戦後歴史学は天皇制を全否定するだけで、何も解明できていなかったということになるからだ。実際、遠山氏なぞは戦後歴史学の「常識」を再検討することで、事実を再照射してきたことはこの小論でも述べてきた通りだ。

 遠山史観の座標軸は、王位継承ルールの変遷である。中でも、天武天皇以前の男王は「世代順継承」であったことの定式化の意義は大きい。「万世一系」が含意している「父子直系」イメージは持統天皇が始めたことの逆投影にすぎなかったのだ。「皇太子」イメージもこれとセットだった。「世代順継承」に約束された「皇太子」はいなかった。そういう文脈の中で女帝(大后)の役割と、その役割の成長が解明されている。

 氏の出発点となった「大化改新」は、それらが集約された最大の謎であった。これを一枚一枚、あるいは一筋一筋ときほぐすことによって、すべては明らかになっていった。書紀史観、戦後史観、さらには藤原氏陰謀史観からも解放された、蘇我氏、中大兄皇子、孝徳天皇、皇極天皇らの像が少しずつ現れてきたのだった。合理的な説明が可能になった。例えば、聖徳太子が即位できなかったのは同世代で年長ではなかったし、推古天皇は終身の女王で生前譲位できなかったからだ、というわけだ。今後とも、氏の解明に注目していきたい。

[主なネタ本]

遠山美都男『日本書紀はなにをかくしてきたか?』新書y/洋泉社
遠山美都男『卑弥呼の正体--『魏志』倭人伝の誤解からすべてが始まった』新書y/洋泉社
遠山美都男『天皇誕生--日本書紀が描いた王朝交替』中公新書
遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』角川ソフィア文庫
遠山美都男『大化改新--六四五年六月の宮廷革命』中公新書
遠山美都男『白村江--古代東アジア大戦の謎』講談社現代新書
遠山美都男『天智天皇--律令国家建設者の虚実』PHP新書
遠山美都男『壬申の乱--天皇誕生の神話と史実』中公新書


戻る