現代日本における宗教--心理・経済および社会〈学〉的一省察 (1)
  02年03月31日
萬 遜樹

 先日、突然とある方からメールを頂戴した。ある書き物をしたので、私に読んでもらいたいとのことだった。ある新興宗教法人の職員をされていた方で、あるとき教団全体が詐欺行為をしているという嫌疑を受けた。幹部が次々に逮捕され、ついにはこの方(地方支局長クラス)にまで司直の手が伸びたのだ。初めて逮捕・拘留され、釈放されるまで、警察や検察という奇怪なもの(そこでは、犯罪が「製造」されている!)を通して国家システムに直面された貴重な体験を、教団在職時に自ら経験や思考されたことがらも含めて、いかにも素人の方がていねい誠実に書き綴られたものだった。これ以上の説明は省かせて頂くが、筆者はこれを拝読する中で現代日本における宗教についてあれこれ思ったのだ。以下、これを述べてみたい。

(注)以下では、例えば「心理〈学〉」のように「学」を括弧で括っているが、これは厳密に心理学的な考察ではなく、心理学モドキなものであることをお断りするためである。

(1)心理〈学〉的(あるいは宗教〈学〉的)考察

 宗教とは何か。在り来たりの定義では、超越的なもの(神など)への信仰(絶対帰依)を指す。だが、これははなはだ一神教に偏った定義であろう。否、それどころか、根底的に誤った定義であるようにすら思われる。「神学の秘密は人間学である」(神が自身に似せて人間を作ったのではなく、人間が自身に似せて神を作った)と喝破したのはドイツの唯物論哲学者フォイエルバッハだが、そういうことでもない。宗教の根底とは、自己心理学である。

 デンマークの宗教的実存哲学者キルケゴール風に言えば、自己とは精神であり、それは自己の自分自身への関係である。すなわち、自分が何であるかをどう「自己」規定しているかということである。これは意識的、無意識的であることを問わない(もっともニーチェに言わせれば、人間の「意識」的な精神は「無意識」的な身体から出来ているそうだが)。だから、神などの超越的な存在とは宗教の中心にはなく、それはむしろ自己からあえて迂回して自分自身へと立ち戻る関係の媒介としてある。

 宗教とは、自己の精神内部の一種の「回路」である、と筆者は考えたことがある。神とはその回路につながれたソケットに差し込まれる電球のようなものではないかと。ただし、自己詐術(さじゅつ)のようであるが、この回路を見ないことがミソなのである。神なり宗教なりがもし自己回路の一部であると知れれば、その人は「自己=自分自身」という当たり前(実は当たり前でもないのだが)の自同律にたちまち舞い戻ってしまうであろう。

 大切なことは、自己が自己の外部とつながっていると自己規定することである。こうして、世界との新たな関係(実は自分自身との関係)を築くのである。「神」とは世界や宇宙の摂理であり、自然の法則である。つまり真理である。それと結ばれて生きることは、永遠の安心である。善悪の善を、真偽の真を「神」の導きによって必ず正しく選べることを意味する。たとえ誤っても、自動的に正される。そして、たとえ「神」に疎外されようとも、回路だけは働き続けている。

 ここでもう一度フォイエルバッハの言葉を思い出したい。宗教は確かにその時代時代の人間学(人間とは何か)であった。古代の宗教一般では「神」をもっぱら外在的に考えていた。ところが、個人を創出した近代では「神」を人間に超越的かつ内在的な存在と考えるようになった。そして現代においては、一部の宗教は古めかしくややいかめしい雰囲気よりも、むしろ各個人が自由に選択でき現実的な効果を持つ、ある心理的な秘密技法といったイメージすら私たちに与えている。

 ベトナム戦争への厭戦ムードが高まるアメリカで、泥沼の中から伸びる一本の蓮のように、進化論的俗流神秘主義である「ニューエイジ運動」が生まれた。それは、東洋神秘思想(禅、タオイズム=道教、チベット・タントラ仏教など)、「宇宙船地球号」や「ガイヤ仮説」(地球全体が一個の生態系=生命体)などの地球環境保護思想、また神秘主義的とも言える物理学(東洋神秘思想と親和性を持った、宇宙から素粒子までの新統一理論=「ひも理論」の提唱など)ほかの複合的結合物であった。

 実はこれもまた新たな人間中心主義(ヒューマニズム)のように筆者には思えるのだが、それはさておく。エッセンスとして「人間の精神的な超進化」を唱えるこの考えは、高度消費社会(現代社会の最前線)に突入した1980年代の日本にたちまち雪崩れ込んできた。この潮流の中で次々に産声を上げたのが、いわゆる「新々宗教」である。それらは、もはや宗教の秘密がトランスパーソナルな自己心理学であることをほとん種明かし始めていた。

 自己とは自分自身との関係だと言ったが、それは世界と関わる自分との関係であると言い直すことができる。そしてその世界とは第一に他者(自分以外の人間)のことである。つなげて言うと、「他者と関わる自分をどう規定するか」という問題なのである。それは個人それぞれが否が応でも精神を持つ故の、実に人間社会的な問題である(倫理や道徳とはこういう問題である)。その「世界」の変革には二つの方法があり、かつそれしかない。

 自己と世界(他者や「神」など)は相対的、相関的な関係にある。だから、その一つの方法とは世界の方を変えることであり、他のもう一つは自分の方を変えることだ。いずれにしてももし成功すれば、世界は一変するはずだ。ただしお分かりの通り、一個人が世界とりわけ他者を変えるなぞ至難である。そこで手っ取り早く、かつ宗教の本旨にも叶うことだが、自己を変えることになる(ちなみに世界の方を変えようとすることは「革命」と呼ばれている)。

 自己を変容させるとはどういうことか。時に「洗脳」や「マインド・コントロール」といった言葉がある。これらはまさに大きな自己変容を言い表す言葉である。何が変わり、また変わり得るのだろうか。ニーチェの言うとおり、人間の精神(理性)は実は身体である。初めは意識的な行動の変容も、ついには無意識的な習慣の変容に至る。つまり、一連の行動を内在化させ、身体化させることが自己の変容だと言える。

 しかし、個人個人の「本性」とでも言うべきものは実は変わり様がない。だから起こっていることは、世界に対する主体的態度の変容である。宗教(団体)の秘密はこの変容を安定化させることだ。宗教という別回路を自己の中に接続しないで、こういった自己変容を永続化させることはなかなか難しいことのように思える。というのも。実質的にはほぼ同様な心理的変容を促す機会自体は、いまでは日常的に見出せるからだ。

 人生に悩む人たちを対象にした1990年代の「自己改造セミナー」と総称されるトレーニングはその典型だろう。だが、これを特異なものと思われる方は世間知らずである。企業研修では遅くとも1980年代からこの手のものが導入されていた。グループ・ダイナミクス(集団力学)や交流分析(TA:トランザクショナル・アナリシス)理論に基づく研修、センシビリティー・トレーニング(ST:感受性訓練)、また社会問題化した「地獄の特訓」なども、主体的態度の変容をめざすものである。

 これらの研修での力点や特徴はそれぞれ違うが、共通点として次のことが言える。「人間は自分が思う通りの人間になる」。ここで「思う」と言っているのは、意識的に「思う」より無意識的に「思う」ことに重点がある。ある研修では「人間は人生シナリオを自作自演している」とも言う。無意識的な習慣にまで内在化・身体化された「思い」が自己を作っているというわけだ。ここで、上に述べた言葉を引用するので、確認していだたきたい。

  自己とは精神であり、それは自己の自分自身への関係である。すなわち、自分が何であるかをどう「自己」規定しているかということである。

 どうだろうか。オウム真理教(現アレフ)や法の華三宝行などの新々宗教では、それぞれの教義にしたがって「宇宙」や「原理」や「超越者」ほかの言葉を用いるなど道具立てや仕掛けは違い、また凝ったものになってはいる。しかし、それらはいわゆる自己実現をめざす、ほぼ同様のトランスパーソナルな自己心理学の「様々なる意匠」と言えないだろうか。要するに現代日本における宗教の本質とは、自己喪失に悩む人々の渇望に応えているユングやマズローの心理学に近しいものなのである。


(つづく)


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