やや古い話だが、4月8日、加藤紘一前代議士が衆議院予算委員会で参考人招致をされたときのことである。自らが議員を辞職するという決意を述べるときに、意識してなのか無意識なのかわからないが、右手こぶしを握り締め無念さをそこに凝縮させるように、次にように発言した。
「この国のため、今すぐにでも、やらねばならぬことは山積しています。この国を思う気持ちは、今でも誰にも負けないと思っています・・」
正確には記憶していないが、おおむねこのような表現だったと思う。この場面をテレビで見たときに、私は思わずぞっとしてしまった。こんなことをまじめ腐った顔をして平気で言うような人は、もともと国民を代表する資格などない。
国とはいったい何なのだろうか。広辞苑を見てみると、国には様々な意味合いがあることがわかる。2番目の意味として、〔国土、国家〕と無味乾燥に列記されている。
そこで、国家を調べてみると、〔一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権とをもつ政治社会。近代以降では通常、領土、人民、主権がそのその概念の三要素とされる。〕とある。うーん。学者の定義をどこからかもってきたような説明なので、わかるようでわからない。
私は国、国家なるものは実体としては存在しないと考えている。国、国家という国民一人一人が心の底で抱いているイメージとしての幻想があるのみだ。共同幻想と言ってもよい。
しかし、国家の内部にいる人(国家としての権力を行使する側)から見ると、国、国家という幻想ほど利用価値の高いものはない。「お国のため」と唱えれば、太平洋戦争中はすべてが、まかり通った。「国のため。国家のため」と言うと、最近ではウケが悪いので、権力者たちは表現を微妙に変えている。現在のトレンドな表現は「国益」である。
「国益にかなう」と言えば、内容はさておき、魔法にかかったかのようにすべてが正当化されていってしまう。政治家が官僚がメディアが、「国益」を前面に持ってきたときは、詭弁が弄(ろう)されていると考えて間違いない。
国、国家が幻想である以上、国益はまさに砂上の楼閣である。一人一人の国民の利益の総和としての国益は結果として存在するであろう。だが、最初に国益ありきは本末転倒である。
「国を思う」などという抽象論は滑稽だ。国民一人一人を思う結果としての国ならば、理解できないことはない。「始めに人(国民)ありき」である。さて、冒頭の加藤氏の発言中に、彼は国民一人一人の顔を思い浮かべ、各々の苦しみ悲しみ喜びを我がこととして、痛感していたのだろうか。
残念ながらそうではあるまい。自分が座ろうとしていた総理大臣という地位の拠り所としての〔国、国家〕を真っ先に考えていたはずだ。