「老い」の両義性  

1999年 1月 13日
李 正冠 大阪市

「老い」は、文明の産物である。

文明を持つ動物である人間は、他の動物が生殖可能な年齢を過ぎると「老い」の時期を待たず死に至るのに対して、肉体的に衰弱する時期を「老い」と呼んで区別した。

多くの社会では、社会の記憶を保つ上で、叡智や神に近い特別な力を持つ存在として、老人を共同体の継続の象徴とし、敬愛の対象としてきた。「経験と無用」、「知恵と物忘れ」、「指導性と依存性」、「威信と弱さ」を同時に孕む両義性を持ちながら、人は老人に対して尊敬の念を払うのを忘れない。 アフリカのグジ社会では、「老いる」ということは、心身が浄化され、祝福したり、呪詛したりする力の強度が増すことを意味する。肉体的な衰弱と相対して、精神的な力が強化され、何か新しい力が生まれ出る証であるという。

老衰した人間の両面を見ることは、多くの社会で何らかの互換性をもって行われているが、全くの無償のものから生まれることもある。経験や忠告を与えることができなくても、全く依存することによって、周囲に働きかけ、世話する側が学ぶことがある。その問題は、人間の生の核心に触れるものであり、それこそ、人間が「老い」を定義した本当の意味なのかもしれない。 現代社会では、生産性や効率性を追い求めるあまり、一見無駄に見えるものを排除してきた。「老い」の両義性を無視し、弱者としての一面のみを大きく捉えていた。今や、世界の多くの国が高齢化時代を迎え、殊にわが国においては少子化と相まって、他の国々より一層問題を深刻にしている。

現代社会は、その根底に科学合理主義を据え、これに偏重するあまり、物質主義・功利主義に陥り、諸問題の原因となっている。これに対する反省から、もう一度、先人たちが築いてきた「老い」を大切にする精神文化を学ぶ必要がある。中世芸能に見られる『翁』や『高砂』のように、「祝福されるべき老い」があったことを思い起こしてほしい。


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