原子炉とニッポン仏教の因縁話 
     02年06月04日
  萬 遜樹

 また妙なことを言い出したとお思いだろうか。原子炉と仏教の関係とは、はて一体何のことかと。そう、原子炉の「ふげん」と「もんじゅ」である。「普賢」と「文殊」とは、釈迦如来に脇侍(きょうじ)する菩薩の名であるのだ。脇侍というのは、相撲の土俵入りの際、横綱に太刀持ちと露払いの二力士が寄り添うように、本尊の両脇を堅めて衆生教化を助ける仏教の神たちのことである。他の脇侍には、阿弥陀如来の観音・勢至菩薩、薬師如来の日光・月光菩薩などがよく知られている。

 「ふげん」と「もんじゅ」とは、いかなる願いがこめられて名付けられたのだろうか。そのあたりを探ってみたいのだが、まずは原子炉の方の知識を整理しておこう。「ふげん」も「もんじゅ」も福井県敦賀市にある。前者は新型転換炉というタイプ、後者は高速増殖炉というタイプの原子炉だ。旧「動力炉・核燃料開発事業団」(略称「動燃」)、1998年以降は動燃を改組した「核燃料サイクル開発機構」が運営管理している(ともに、いわゆる「特殊法人」である)。

 原子炉は通常、ウランを燃料とする。しかしウランは稀少だ。そこで、核燃料をリサイクルしようという考えが生じた。石油・天然ガスなど、エネルギー資源を海外に全面依存するわが国は、この考えに飛びついた。それが新機構の名にも含まれる「核燃料サイクル」という見果てぬ夢である。動燃が設立された1967年の時点では、原子力発電は無限の可能性を秘めた、クリーンで安全な「永久」エネルギー源かとも思われたのであった。

 もう少し解説をする。実は、天然ウランの大部分はウラン238というもので、核燃料となるウラン235ではない。しかし、ウラン238は原子炉の中でプルトニウム239という核燃料に「人工」的に転換することができる。これを行なう原子炉が「新型転換炉」(「ふげん」はその一つ)である。それをさらに促進し、プルトニウム239を元の核燃料以上の量に増殖させることができる原子炉が「高速増殖炉」(「もんじゅ」はその一つ)である。これだけを聞けば夢のような話に思えるだろう。(注)

(注)「プルトニウム爆弾」という言葉の通り、プルトニウムは原子爆弾の材料でもある。長崎に投下されたものがこれで、広島にはウラン爆弾が投下された。

 しかし、その後の原発の現実は悲惨で哀れでさえある。1979年、アメリカ・ペンシルベニア州のスリーマイル島原発で起こった冷却水事故は、メルトダウン(炉心溶解)によるチャイナ・シンドローム(地球の反対側の中国にまで溶け込んでいく)という恐怖を世界に巻き起こした。86年には、旧ソ連で悪名高きチェルノブイリ原発事故が起きる。その地域一帯は放射能で死の町となり、原子炉は事故時の爆発による遺体もろともコンクリートで封印された。

 原発は決して安全なものではなかった。また、原発維持のための電力エネルギーも案外高コストのものだった。トータルに考えれば、「核燃料をリサイクルするプラン」は高価なわりには見返りの薄いものになっていった。日本でも諸々の小事故が起こっていたが、そこに95年「もんじゅ」の冷却用ナトリウムの流出事故である。これにて動燃は解体され、「もんじゅ」も停止中である。この余波を受けてかどうか、こちらも元気のない「ふげん」はついに2003年の廃炉が決まっている。


 核燃料サイクル開発機構が公開している「ふげん」に関するサイト上に次のような文言を見つけた(注)。そのまま引用する。

(注)「あゆみ」の中の「命名から生い立ち・歴史」の冒頭にある文章。

 我が国が総力をあげて開発を行っている,新型原子力発電所の命名にあたって,新型転換炉の原型炉を「ふげん」,高速増殖炉の原型炉を「もんじゅ」と名付けました。
 「ふげん」の名称は,釈迦如来の脇士である,普賢菩薩(ふげんぼさつ)に由来します。普賢菩薩は,慈悲を象徴し象に乗っておられます。それは,強大な力を持つ巨獣を慈悲で完全に制御している姿です。
 原子力の巨大なエネルギーも,このように人類が制御し,科学と教学の調和の上に立つのでなければ,人類の幸福は望めません。原型炉「ふげん」は,これらの願いを込めて名付けられたものです。

 なるほど、「ふげん」の有する原子力エネルギーは普賢菩薩が乗る白象にたとえられ、それは「強大な力を持つ巨獣」とされている。ちなみに文殊菩薩は獅子に乗っている。現況をながめると、さしずめ普賢・文殊菩薩の「慈悲」と「智慧」にたとえられる人間の「科学技術」はあまりに浅く薄く、ついに両「巨獣」を制御できずにいるといった所である。ここからは、失敗に終わろうとしているこの命名の本当の意味を、またこのように命名した日本人と仏教の関係を考察してみたい。

 まず衝撃的なことを述べよう。もしも、である。仮に「ふげん」と「もんじゅ」の実験が成功裡に推移していたとしたら、次なる原子炉は何と名付けられるべきであっただろうか。それは必然的に「しゃか」とならざるを得ない(注)。何と言うことだろうか。そんなことが現実に許されるだろうか。「ふげん」と「もんじゅ」の命名には異議を差し挟まなかった僧侶でもこれにはどうだろう。そして、信仰はなくとも仏教と浅からぬ因縁を感じているだろう日本人であるあなたはどうだろうか。

(注)このことは、先年亡くなられた反原子力研究の第一人者・高木仁三郎氏が、1994年発行の著書『プルトニウムの未来』で「予言」されていた。

 神道と仏教を、時にはキリスト教をも使い分ける日本人は、最先端科学技術の一つである原子力発電に、あえて仏教カテゴリーに属する菩薩の名を選んだのだ。これはどういうことか。神道の神々はあまりにも素朴で無力であることを、実は日本人は知っているのである。「この世」と「あの世」という素朴な水平的世界観しか持たなかった日本人に、「罪」と「地獄」の存在を、かつそこからの「救い」があるという垂直的世界観を教えたのは仏教であった。

 古代日本人にとっては、仏教こそが「先端テクノロジー」であった。また、仏たちが力を持つ外来の神々であると認識されたが故に、神仏習合(第一に、仏が神を呑み込むこと:本地垂迹の段階)は可能となったのだ。平安密教の成功は、法力(霊力)において日本の神たちを仏教の仏たちが完全に凌駕したことを物語っている。それは以後も日本人の記憶となって意識の底に潜み、現代の私たちにまで至っていたのである。

 新原子炉の命名については、「ふげん」より「もんじゅ」の方が分かりやすい。「三人寄れば文殊の知恵」の言葉の通り、文殊は智慧の菩薩である。原発には「智慧」が必要ということだ。それにしても、この三尊(釈迦・普賢・文殊)のイメージとは何か。それぞれは、慈悲・修行・智慧のシンボルである。なるほど、これらによって原発は成立するということだ。しかし、仏の「慈悲」を中心に据えるとはどういうことか。最後は、人知人力を超えた「祈り」にかかっているということなのか。

 原子力あるいは原子炉とは、まさに「強大な力を持つ巨獣」である。つまり、人知を超えた機械である。そこで、信仰が登場する。「悪魔」と「神」は古来より紙一重である。穢れた水死体も再び岸に流れ着けば、エビス神に変わる。ケガレがハレに転換し、死んだヒトはカミとなる(これこそ、ホトケである)。「悪魔」とも「神」ともなる得る原子炉には、何かこのような二重性が潜んでいる。広島と長崎を破壊したケガレの力を、ハレの力に転じようとする祈りがここにはある。

 少しうがったことを考えよう。まず、仏教が始めた火葬に原子炉のイメージが重なる。次に、核燃料リサイクルは輪廻(りんね)の連想か。しかしこれは違う。仏教がめざす解脱(げだつ)とはむしろ輪廻から脱却することだからこれではない。では、原子炉に普賢・文殊菩薩が最もふさわしかったのか。業火というイメージでは、忿怒(ふんぬ)に燃える不動明王こそがふさわしいだろう。その時には、矜羯羅(こんがら)・制タ迦(せいたか)の二童子が脇侍だ。しかし、これではおそらく荒々し過ぎたのだ。

 もう一つ、命名の候補があったはずだ。太陽エネルギーの化身である大日如来、あるいは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)である。毘盧遮那仏の代表は奈良の大仏様である。どうだろう、原子力の力強さをよく表すことが出来るだろう。しかしこれは避けられたのだ。もしもの失敗の場合、「しゃか」同様に、痛手があまりに大きいからだ。そこで、一般にはあまり知られていない「ふげん」、そしてそこから連想され、智慧(科学技術のこと)のシンボルである「もんじゅ」が適当と判断されたのだ。

 ことわざ風に締め括ろう。「仏作って魂入れず」ではない。原発作って、あとは仏頼み。当たり前のことだが、現実の原子炉は神でも仏でもない。人間が作ったただの機械である。徹頭徹尾、人間の責任であり、神や仏に罪はない。「お釈迦になる」という言葉がある。どういうわけか、ダメになるという意味だ。「ふげん」はお釈迦になることが決まった。「もんじゅ」の成仏も間もないことかも知れない。本来、成仏をめざす菩薩が仏に成ることはめでたいことなのだが、これらはあまりめでたいことではないだろう。


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