▼龍はどこで生まれたのか
まことに自然は偉大である。マルクスが言うように、人類史も自然史の中にある。気候の変化に促されて、人類の文明は盛衰を繰り返してきた。覚えておけば便利なのは、わがニッポンが大陸から分かれ、孤立した列島となっていった時期、それは今から約一万二千年前から始まったと考えてよいが、この頃から人類の文明が今に続く新しい時代に入っていた時期であるということだ。一万二千年前というのは、最後の氷河期が終わり、地球が温暖化・湿潤化していった時期である(注1)。
氷河が解けて、河川となって海へ流れ込む。海水の量が増え、海岸線が陸地側へ前進する。ただの平原だった所に沼や川が生まれ、地続きだった所は海によって引き裂かれた。問題は景観の変化ではない。食物獲得環境が一変するという生存問題であった。氷河期と言えば、劣悪な環境を想像しがちだが、実はそうではない。世界には冷たく乾いた大草原(ツンドラ)が多く広がっていた。ツンドラにはゾウやサイ、また森にはイノシシやシカなどの哺乳類が棲息していた。
ところが温暖化と湿潤化は、夏には森と沼沢を広げ、冬には雪をもたらした。マンモスなどは沼地に足をとられたり、雪で草を奪われたりして、死に絶えていった。そこで人類の生き残りをかけて編み出されたのが、農耕というイノベーションだった。前置きが長くなったが、龍はそういう森と草原のはざ間で生まれた。そこは、中国文明発祥の地と長らく考えられてきた黄河流域ではない。中国東北部(注2)、現在の遼寧省を流れ渤海に注ぐ遼河の周辺だった。
▼第三の「中国文明」の地・遼河周辺
新石器時代に入ったアジアには、東西を結ぶ二つのルートがあったようだ。一つは後に「シルク・ロード」と呼ばれる、西トルキスタンからタリム盆地を経て中国中央部に至るものだ。もう一つが、タリム盆地の北辺を限る天山(てんざん)山脈の北方を行く草原(ステップ)ルートである。ステップ・ルートは、モンゴル高原を抜け、直接、中国・遼寧省付近に至っている(注3)。
現在までの調査によれば、中国最古の文明は長江中流域で起こり、稲作が始められている。次いで、黄河下流域では粟作が始められ、南北の両大河沿いに諸文明が勃興していく。実は、大陸にはもう一つ、早くからの文明地域があった。それが、ステップ・ルートの終点に当たる遼河流域を中心とする地域だ(注4)。
興隆窪(こうりゅうわ)文化と呼ばれるものが、そこでの最初の文化だ。まだ調査中で詳細は不明なのであるが、「遼河文明」は新石器時代における旧石器的文化の継承・発展形態のように思われる。すなわち、狩猟・漁労と畑作・牧畜を織り交ぜた生活である。前代との違いとして、土器と玉(ぎょく)などによる新文化が見られる。そう、これはわが縄文文化に近いものなのだ。実際、三内丸山遺跡出土の土器や玉などとの関連がしきりに指摘されている。
▼龍の生い立ち
現在見つかっている最古の龍と思われるものは、地面に石を置いて形作られた、揚家窪(ようかわ)遺跡の約八千年前の二匹の龍(一・四メートル、〇・八メートルの長さ)だ。隣接する内モンゴル地区の敖漢旗(ごうかんき)遺跡では、土器に龍が描かれていた。少し遅れる査海(さかい)遺跡では、揚家窪遺跡と同様に石で形作られた、約二十メートルの巨大な龍が発見されている。そこでは赤い龍を浮き彫りにした土器も見つかっている。
ところが、興隆窪文化に続く趙宝溝(ちょうほうこう)文化に属する小山(しょうざん)遺跡からは、鹿・イノシシ・鳥の頭を持ち、しっぽは魚の尾びれで全身がうろこで被われた「龍」が描かれた土器が出た。さらにその後続で約六千年前の紅山(こうざん)文化期の、牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡で発見された玉の龍も、イノシシの顔をしていた。同じ紅山文化に属する内モンゴル地区の遺跡でのイノシシ龍は、何と馬のたてがみを持っていた。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約五千年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、角と耳がありイノシシの顔だ。これらは一体どうしたことだろう。龍は蛇やワニからの想像物ではないのだ。「遼河文明」は、森や草原そして川に棲む様々な動物の意匠(デザイン)に満ちている。イノシシや馬、それに魚などを中心に、森・草原・川の動物トーテムが複合したものこそが龍だと言える。それは同化・統合を繰り返す、後ちの中華文明のシンボルとなっていく。
龍はいかにして龍となることが出来たのか。空想性がその理由の一つであろう。実在する、例えば馬やイノシシである限り、超越的な神となることは出来なかった。そういう意味で蛇神は蛇のままだ。しかし、ともあれこの段階では、いまだ「森の文明」(注5)の段階であった。ついでであるが、坂本龍馬の「龍馬」も龍がかつて馬であったことを示す神獣の名である。龍馬とは、河や海など水中に棲む馬のような頭を持つ龍の名であった。
▼最古の玉文明、女神への祈り
「遼河文明」について、もう少しだけふれておきたい。それは最古の玉(ぎょく)文明であったということだ。玉というのは、硬玉・軟玉と言われる古くから知られた宝物作りの材料である。日本も含めて古代世界においては、玉で数々の宝物が作られていた。中でも長江文明はしばしば「玉文明」とさえ言われてきた。しかしその淵源はこの「遼河文明」にあったのだ。約六千年前の紅山文化こそ、玉と龍の文明と呼んで差し支えない。
この秘密は、前述のステップ・ルート経由の西域との交流にある。ステップ・ルートで西方に行き、天山山脈の南麓に回れば、そこはタリム盆地(狭義の「西域」)である。中国中央部からタリム盆地へ入る所に、古くから玉門関(ぎょくもんかん)という関が設けられている。なぜ「玉門」なのか。西域が玉の産地であったからだ。特にホータンという地は美玉の産地として知られていた。この交流の証拠に、紅山文化の牛河梁遺跡からは、モンゴロイドにはない「碧」眼を持つ女神像が出土している。
女神像は「遼河文明」のもう一つの特徴物である。それは大地の豊穣を祈願する大地母神である。これも「遼河文明」が「森の文明」段階だったことを証明している。ちなみに、わが縄文文化の土偶もその伝播を受けた女神像と考えてよい。さて、これで三つが出揃った。彼らは、複合トーテムの龍を信仰し、西域との交易による玉文化を育み、豊穣をもたらす大地母神である女神に祈りを捧げていたのだ。そこへ、天候の神が非情にも変心を見せる。だが、これは後述しよう。
▼「鳳凰」とはいかなる鳥か
龍の文明についてはひとまず置き、南の鳳凰(ほうおう)の方へ移ろう。鳳凰は龍と同様、空想物である。これは言うまでもなく、鳥がモデルだ。長江文明は稲作によるものである。最古の稲作は、湖南省・玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡で約一万四千年前に始まったとされる。古代人にとり、動物トーテムは単なる動物ではない。豊穣をもたらす神獣である。長江の上空を飛ぶある鳥も特別な存在で、それは稲を実らせる太陽を運ぶ神使であった。
約七千年前の湖南省・高廟(こうびょう)遺跡から出た土器には、両翼に二つの太陽を抱えた怪鳥が描かれていた。下流域の河姆渡(かぼと)遺跡からは、二羽の鳥が五つの太陽を抱える象牙が出土している。稲作にとり、太陽は決定的に重要であったのだ。高廟遺跡の「鳥」にはトサカがあり、どうもニワトリがモデルのようだ。それに対して、河姆渡遺跡のものは水鳥がモデルと思われる。五千年前の三星堆遺跡の神樹については別記(注6)したが、そこに止まる「鳥」はカラスである。
様々な鳥が複合した鳳凰は、遅くとも戦国時代には成立している。楚の都があった荊州市・馬山一号墓出土の織物に、羽に四つ、胸に一つ、トサカに三つ、合計八つの太陽を運ぶある怪鳥が刺繍で描かれていた。それは七面鳥のトサカ、オシドリの頭、オンドリのくちばしと足、ツルの体、クジャクの羽と尾を備えた鳳凰であった。ちなみに、手塚治虫氏の「火の鳥」とは「日(太陽)の鳥」であり、鳳凰のことである。また、キトラ古墳の朱雀も鳳凰に違いない。
▼五千年前の寒冷化の衝撃
実は、同じ馬山一号墓からは、鳳凰とともに龍が刺繍されたものも出土している。つまりこれ以前に、龍は鳳凰とセットで瑞祥(ずいしょう)とされるようになっていたということだ。遼河の紅山文化は約五千年前ごろ衰退する。天候が激変し、再び寒冷化したのだ(注7)。彼らのさらに北方にテリトリーを持っていた遊牧民は南下し始め、紅山文化の人々を圧迫する。これに押されて、文化を担っていた人々は南方の各地へ離散していった。
ここに、海沿いの道があって、長江下流域にたどり着いた人々の影響によって花咲いたたものが、龍を持つ玉文化の良渚文化である(わが縄文の中期文化も彼らの恩恵をこうむったものではないだろうか)。しかし前述のように、良渚文化の玉龍には角と耳があるイノシシの顔である。これまで龍は揚子江ワニがモデルだとされてきた。しかしワニに角や耳はない。一方、南方には古くから蛇信仰があった。龍は蛇と習合して完成する。
龍が同化・統合を繰り返す中華文明(王権)のシンボルとして育っていくプロセスは、青銅器に見られる饕餮文(とうてつもん)の発展に見て取ることが出来るように思う。長江流域の古文明に見られた人間をモデルにした神々(例えば、良渚文化の玉ソウに浮き彫りされた神の顔や、三星堆遺跡の眼の飛び出た神の顔は人面である)は黄河文明では消える。諸神獣が統合され複雑な文様となって、奇怪な神の顔を形作るが、しだいにその文様の一つ一つは龍から成るようになる(注8)。
▼南方での龍信仰の深層:蛇・大地・地下
ところが、南方では龍の性格は少し違うように思われる。古くからの稲作地帯である湖南省・洞庭湖(どうていこ)周辺は「龍宮」伝説の宝庫でもある。浦島説話とほとんど同じ話がここには多くある。ただ、日本の浦島説話では「乙姫」は「海神」の娘だが、ここでは「龍神」の娘だ。似た話で思い出すのは、古事記の山幸彦が「海神」の娘と結ばれ、姫がワニの姿となって子を産む神話である。そう、長江流域や日本では、龍の正体は水中に棲むワニであり蛇なのだ。
稲作は畑作と違い、水田で行なう。これが決定的なポイントである。蛇への信仰は鳳凰へのそれよりも古く、中国南部ではそれが龍信仰に習合したのだ。蛇とはあらゆる「循環」のシンボルである。脱皮に象徴される「死と再生」のシンボルであり、水の循環のシンボルでもある。蛇は雨を呼び、地下水を呼ぶ。そして蛇は突き詰めれば、母なる「大地」そのものへの信仰である。年ごとに豊穣を繰り返す「地下」の不思議への信仰でもある。
大地あるいは地下の神とは大地母神のことである。良渚文化の「三種の神器」は玉ソウ・玉璧(ぎょくへき)・玉鉞(ぎょくえつ)と言われるが、最も重んじられた玉ソウとは何か。外形が八角形で、内側が丸く空洞になっている。これは地に酒を捧げるための神器である。その空洞は大地の神へ供物を流し込む聖なる穴なのである。神々が棲む地下への信仰は、南の流れを汲む「東夷」の出身とも噂される殷王朝でも続き、王たちの墓所は地面と対称的な形で地下空間に築かれた。
▼西洋の「蛇」ドラゴンの運命、龍を食らう鳳凰
最後に、西洋の「蛇」であるドラゴンの運命などについて述べて、締め括ろう(注9)。エジプト人の蛇信仰はクレオパトラの例でもお分かりのように明白だ。この事情はギリシャでも同様であった。これらは大地母神への信仰であった。しかし今ではご存知のように、西洋では蛇は邪悪のシンボルである。これはひとえにユダヤ・キリスト教という「草原の宗教」によるものである。
エホバ神は「天の神」であり「草原の神」であった。天の神(天神)とは、天候の神のことである。麦などの畑作は天水農耕だ。「畑」は国字だが、その字義は文字通り「火の田」(焼畑を含意する)で、「水田」ではないことである。草原の民は森を嫌う。その森のシンボルこそが蛇(ドラゴン)なのだ。この邪悪な生き物を踏みつけるキリストや聖者は、森に代表される野放図な自然を統御・支配する意志を表現している(注10)。東洋における成長した龍も、同じ意味を持つ。
その後も、寒冷化は紀元前一千年前ごろ(注11)、紀元後二百年ごろに襲来し、そのつど「龍の力」は膨張し、現実的には王権が強化されていった。龍の前に滅び去った文明がある。わが弥生時代に近い紀元前四百年〜紀元後百年ごろ、現雲南省に稲作で栄えたテン国は蛇信仰と女王を擁したと思われるが、龍王朝・漢に滅ばされた。同雲南省に、七〜十三世紀に繁栄した仏教国・南詔大理国が建てた嵩聖寺の三塔(大理三塔)が興味深い。
四〇メートルを超える三つの巨塔は三角形の三頂点の位置に立つ。その最上階から大鵬金翅鳥(たいほうきんしちょう)という鳥像が発見された。すなわち鳳凰である。三つの大塔とは、巨大な鳳凰が大地に降ろした三本足だったのだ。この鳳凰はこの地で悪さをする龍を喰う神鳥だった。北方から迫る龍王朝たる中華文明へのレジスタンスの意思がこめられていると考えるのは穿った見方であろうか。
(注1)正確に言えば、氷河期の終焉は複雑だ。温暖化は約一万五千年前から始まった。一度、寒冷化の揺り戻しがあって、約一万年前ごろ氷河期は終わる。日本列島がほぼ現在の形となるのは約八千年前のことだった。△
(注2)本来的な「中国」領域ではない。△
(注3)そのさらに東方にニッポンがある。旧石器を含めた大陸文化摂取の北方ルートの一つを示唆する。△
(注4)長江の稲作は独自のイノベーションかと思われる。一方の黄河の粟作は「シルク・ロード」伝播の可能性がある。また「遼河文明」は後述のように、明らかにステップ・ルート伝播の文化の影響を受けている。△
(注5)「森の文明」とは安田喜憲氏の術語で、自然共存的で前都市的な文明である。これに対するものが「草原の文明」で、自然破壊(あるいは統制)的で都市的な文明である。ここでは、前者は幼年期の龍、鳳凰や蛇、後者は成長した龍に対応している。△
(注6)第70号「月にはなぜウサギが棲んでいるのか--古代中国の太陽と月」で言及した。△
(注7)この約五千年前(紀元前三千年前)ごろの寒冷化・乾燥化は、世界を一変させている。分散して生活していた人々が水を求めて大河周辺に集まることになり、人口の密集と異文化の接触は結果としていわゆる「四大文明」と総称される古代諸文明を生み出したのだ。これは同時に、強力な王権を伴う「草原の文明」の誕生でもあった。△
(注8)これがラーメン鉢の文様のルーツでもある。△
(注9)「ドラゴン」は「龍」と訳されるが、東洋人には誤解を招く。西洋の「龍」は東洋の蛇と同義である。△
(注10)これはほとんど社会の男性支配と並行する歴史であると思われる。大地母神の信仰時代は言葉通り、女性原理重視の時代であろう。これに対して、キリスト教・龍の時代の到来とは男性原理重視の時代となったことを宣言するものである。△
(注11)この寒冷化は、中国では殷から周への王朝交替をもたらし、やがて春秋戦国時代を生み、その中で呉越の滅亡を招いた。そこから生き延びた彼らが南方稲作文化を持った倭族として脱出し、朝鮮半島南部、さらに西日本に及び、わが列島の弥生文化を興したのだ。△
[主なネタ本]
安田喜憲『龍の文明・太陽の文明』PHP新書
安田喜憲『森のこころと文明』NHKライブラリー
鳥越憲三郎『古代中国と倭族』中公新書