「吉外井戸」の水を飲み続ける、神のような「ジャーナリスト」たち 
      02年11月23日
 萬 遜樹

 北朝鮮国家による一連の日本人拉致事件の「発掘」作業は、冷水を浴びせるようなハナハダ荒っぽい形でだが、長年「平和ボケ」してきた日本人に現実的想像力をいかばかりか回復させた。しかし、とうの昔に度が合わなくなった古い色メガネを後生大事にかけたまま世界を古色蒼然と眺めやるひどく傲慢な連中もなかにはいる。

 特に「ジャーナリスト」と自称する者たちの一部は、自身をまるで現実世界から超絶し、世俗の穢れから免れた神か何かのように今でも思っていらっしゃるらしい。彼らが恐ろしくも厄介なことは、自らが正しいと心底信じ切って行動しているということだ。まさに、私の言う「吉外井戸」の水を飲み続けているのだと言う他ない。以下、順に批判しておきたい。


◆TBSテレビ番組「ニュース23」10月15日放映の「多事争論」
 ・「24年」スクリプト

 「ニュース23」は元朝日新聞編集委員だった筑紫哲也氏を看板キャスターとする番組で、その「多事争論」は筑紫氏が世相を寸評する名物コーナーである。この日は、5名の拉致被害者が北朝鮮から「一時帰国」を果たしたことに関連して、彼は概略こう述べた。「彼らには一片の責任もない。あるのは、拉致を許し24年間放置し続けてきた日本政府だ」と厳しく指弾し、「今後の日朝交渉では拉致問題の解明に関して妥協は許されない」と結んだ。

 しかしながら、日本政府より何より真っ先に糾弾されるべきは言うまでもなく、国際的な国家テロ犯罪を働いた北朝鮮政府(金父子王朝)である。また、「24年間放置」についてはキャスター自身も属してきた「左翼」政党・マスコミ・論壇にも十分な責任があったはずである。なぜなら、拉致事件の存在そのものを否定し、その捜査や交渉を未然に防御・妨害してきたのだから。北朝鮮と通じ合っていた政党や団体すらあったことはご承知の通りだ。

 なぜ、この期に及んで「第一に」非難されるのが日本政府なのか…。「左翼」というものが何で「あった」かが透けて見える。


◆フジテレビ特番で10月25日放映の「キム・ヘギョンさんインタビュー」(フジテレビ・朝日新聞・毎日新聞共同取材)
 ・インタビュービデオ
 ・フジテレビのコメント1(フジテレビ広報部) 
 ・フジテレビのコメント2(フジテレビ広報部長 小林穂波) 
(※朝日新聞・毎日新聞に至っては、サイトに釈明コメントすらない。少なくとも現在は。)

『フジテレビは、拉致された方々、及びご家族の皆様のお気持ち、お立場を十分理解し、取材・放送にあたっています』(フジテレビ広報部)

 気持ちを理解することと、行動とは別である。同情や共感なぞによって、取材や放映はしばられてはならない。この報道は「神聖」な仕事なのであるから――という意味だと理解せざるを得ない。もしそうでなければ、口先だけでごまかしているとしか思えないコメントだ。

 そういう情念を押し殺して制作されたはずの「報道特別番組」は、しかしながら、うっかり幕間に流れてしまった「泣き」と書いた文字スーパーで、芸能ワイドショーと同レベルの「演出」で作った「商売」番組であったことをいみじくも露呈した。拉致被害者家族をもてあそんでいるのでなければ、国民ののぞき趣味(これはこれで十分にヒワイではあるが)を当て込んだ高視聴率狙いの番組を作ったのだ(それが証拠にコマーシャル付きであった!)。

 北朝鮮のプロパガンダ(煽動)うんぬん以前の、国民感情を愚弄した制作意図が何とも浅ましい限りである。

『キム・へギョンさんの肉声や表情を伝えることは、国民の知る権利に応えるべき報道機関として重要な使命だと考えました』(フジテレビ広報部長 小林穂波)

 「国民の知る権利」とは便利な言葉だ。しかし、これは決してプライバシーや国家機密をあばくためのものではない。それは(日本の)公権力運用の内実をチェックするために、必要な情報公開を求めることができる権利のことだ。「キム・へギョンさんの肉声や表情を伝える」インタビューのどこにそんなものがあるのか。

 本来「報道機関」とは「たれ流しの窓」ではないはずだ。「これはどう評価すべきものか」というフレーム(報道機関の「眼」)付きでなされなければ、それは「報道」ではなく、ただ無批判に「あるがままの事実?」をたれ流す「死んだ神」の声である(この「死んだ神」とは、あり得ない「報道の中立」が未だにあると信じ込んでいる「ジャーナリスト」と自称する不埒者たちが信奉する神のことである)。


◆「週刊金曜日」(11月15日発売号)
 ・11月15日付け「編集長 幹治の部屋:曽我ひとみさんの家族に北朝鮮・平壌でインタビューしました」

 全くあきれたものだ。フジテレビの「キム・ヘギョンさんインタビュー」を批判していた「週刊金曜日」が、曽我ひとみさんの夫(ジェンキンスさん)と娘二人のインタビュー記事を掲載した。他人がすれば悪いことで、同じことでも自分がすれば良いことだという強弁の典型的なパターンだ。

 岡田幹治編集長の言い分は二つだ。15歳ならダメで、大人付きで19歳と17歳ならOKだということ。もう一つは、賢明な読者諸氏に北朝鮮の策謀に惑わされるような読み誤りはないだろうということだ。ふん、勝手なものだ。

 スポンサーに制約される広告費なぞには頼らないということを標榜する「週刊金曜日」のお家事情はそれなりに苦しかろうと察する。しかし、この「11月15日号」は何と大増刷だそうだ。真実あるいは金銭のどちらに仕えているのか分かりそうなものだ。

 「週刊金曜日」社長の元朝日新聞編集委員本多勝一氏はもちろん、「週刊金曜日」編集委員の落合恵子、佐高信、椎名誠氏らのご意見は分からないが、スクープに関しての取材に対して黒川宣之編集主幹がテレビに登場し孤軍奮闘した。

 曰く「情報が少ないので入手した情報は報道すべきだ。あとは読者の判断に任せる」「自由に質問して自由に答えてもらった」「曽我さんは家族の情報を知りたがっており、それを伝えることはジャーナリストの責務」などと、必死に?あるいは余裕綽々とコメントした。しかし「曽我さんが怒っているが…」に対しては、「何で怒っているのかわからない」だ。アングリ!


◆TBSテレビ番組「ニュース23」11月14日放映の「多事争論」
 ・「永遠のジレンマ」スクリプト

 「週刊金曜日」スタッフは発売前日、わざわざピケを突破して、曽我さんに「週刊金曜日」を無理やり「届けた」。これで「承認」を得たつもりらしい。明日、ジェンキンスさんらのインタビュー記事が出ることと、曽我さんへのこの言わば「強姦」の事実も分かった夜、「週刊金曜日」の編集委員も務める筑紫キャスターは何と言ったか。

 そこで、「私個人はそういう時、そこまで取材しなくてもと臆する事の方が多いんですけれども」と言い、少なくとも筑紫編集委員は編集内容をご存じなかったことが分かる。では「週刊金曜日」に名を連ねる「編集委員」とは何なのかと言いたい。筑紫氏にとって、まるで無関係な一雑誌の事象として取り扱ってはばからない態度なのである。

 結びはこうだ。「国の方針に水を差す様な報道、取材はすべきではないという、こういう議論になりますと、自由な報道や言論というのは死んでしまって、北朝鮮と何ら変わらない国に私たちはなってしまいます」。結局、「週刊金曜日」の「報道」を弁護することになってしまっている。まず事実を正しておくと、北朝鮮の家族にインタビューすべきでないと言っていたのは政府ではなく、家族会である。

 筑紫氏は典型的な「死んだ神」信奉者であると言わざるを得ない。つまり「報道の中立性」や「報道の自由」があると、かたくなに信じている。しかし言うまでもなく、神でもない人間にそんなものは古今東西あったためしがないのである。ベトナムでもイラクでも、時々にカメラはどちらかの味方であり、どちらかの敵であることしかできなったのだ。だからこそ、立場を明確化することが絶対に必要なのだ。

 インタビュー自体が悪いのではない。「中立」や「自由」そして「事実」をかたり、結果として北朝鮮のプロパガンダを務める愚を言っているのである。遠慮はいらない。これはこういう意図だろうと言って伝えればよいのである。そういうフレームを与えて伝達することこそ、報道機関の責任であり役割である。ノーコメントのたれ流しこそ、罪なのである。

 「事実」をタダたれ流した悪例として、オウム真理教の摘発直前のことを挙げておこうか。上佑氏らの言いたい放題を許したあの行為が「中立」や「自由」そして「事実」の報道であったのだろうか。「報道機関」はよくよく反省してもらいたいものである。これはスポンサー(広告)のあるなしという問題ではない。だから、NHKもまた「ある立場」に立たざるを得ないということだ。そしてそれでいいのだ。


◆「週刊金曜日」
 ・11月22日付け「編集長 幹治の部屋:嵐に出会ったような1週間でした」

『1週間の体験を通じて痛感したのは、この国から自由な言論を許す雰囲気がなくなりつつあることです。流される報道はもっぱら政府の方針にそったものが大部分で、それに反する報道をすると、激しいバッシングが起こるのです。これでは、戦前の全体主義の時代に逆戻りしかねません。そうした時代に戻さないためにも、反省すべきところは反省しつつ、きちんと筋の通った対応をしていく覚悟です』

 どうだろうか。これは、私には絶対無謬の神の発言としか聞えない。まず事実を正しておくと、「流される報道」は家族会の意向に沿ったものだろう。これに政府の方針が追随しているというのが実態ではないか、善し悪しは別に。「自由」は結構だが、もう一方の責任はどうなっていくのだろうか。「週刊金曜日」がまき散らした「自由」の結果責任は、多分まちがいなく、「賢明なる国民諸氏」が言わば「公的負債」として背負わされるのである。

 もう、止めようではないか。子どもじみた無限定の「自由」や「中立」は。言葉遊びはもうよそう。大人の言葉遊びが本気で子どもたちに伝わり、いまの日本社会ができているとは思わないか。筑紫キャスターではないが、この責任は子どもたちにはない。この社会を作り、子どもたちを育てた私たち大人の責任なのだ。これこそ、単なる「自由」や「中立」とは、実は「無責任」の別名に他ならないということの明証ではないか。

 


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