今回は、私が思う日本国家のあり方を述べてみよう。断わるまでもなく、以下は筆者の現状の知識や認識に基づく一試論にすぎない。読者の方々はそのつもりでお読み頂きたいし、私もこれを後生大事にしたいと思うようなものでもない。また、その詳細を記せるほどの力量はなく、思いつくいくつかの事柄について、その方向性のデッサンを述べるにとどまる。
▼「現在」の意味は「過去」の位置づけによって決まる
国家のあり方を考えるのに第一に重要なのは、歴史認識である。つまり、日本にとって世界は今どういう状況や段階にあり、次にどうなっていくのか、ということである。次に、そこで日本はいかなる立場や方向に向かい、どう行動していくことが「国益」となるのか、ということを考えることになる。その歴史認識とは、端的には「過去・現在・未来」と、時間の流れを三つに分節化することである。では、私たちにとり「過去」とは何か。ここから始まる。
私たち日本人にとり、歴史上の明白な一大分節は「昭和の敗戦」であったはずだ。では、それ以降が「現在」か。いや違う。幕末以降、日本史は世界史の一部である。「明治維新」、「昭和敗戦」という大きな区切りの間にも、世界史では大きな分節がある。日本も参戦した「第一次世界大戦」である。これによる世界の変質を十分に認識できなかったことが、「昭和敗戦」につながったとも言える。同様に、敗戦後の世界史的区切りは「冷戦終結」である。ここからが「現在」だ。
だから、私たちにとっての直接の「過去」は「敗戦から1989年の冷戦終焉(昭和の終焉でもある)まで」ということになる。いわゆる「戦後」の期間に当たる。これを総括しなければならないのだが、その前に「敗戦」の意味を確認しておこう。国益とは何かを明らかにするためにだ。日本は連合国に敗れ、降伏した。連合国によって日本は軍事占領された。このとき、日本は独立を失ったのだ。国益を守るとは、少なくともこのような事態を招かないようにし、「独立国家」として存続していくことだろう。
なぜこう断わったかというと、ソ連軍による占領も、占領がいまも続くこともあり得たからだ。次に、国家政府と国民(そう言いたい人は「市民」と言うだろう)は別物で、どの国あるいは誰が政治を行なおうと社会が「民主主義」的でありさえすればよいのだし、世界は国家という単位を乗り越えて「世界連合政府」の下、「世界市民」として日本人は生きるべきなのだ、との空想物語を是とする議論をあらかじめ排しておくためである。
▼終焉した「戦後」の総括と「現在」の地平
日本の「戦後」は確かに、あるトータルな国家体制の一期間であった(注1)。その体制を支える基盤が東西冷戦構造であった。自民党単独政権による政治、安定した経済成長、反核・非戦の絶対平和主義など、すべての国内現象はこの枠組みの中で成立していた。その日本にとっての冷戦構造とは、アメリカによる保護体制に他ならない。それを保障してきたのが日本国憲法と日米安保条約である。軍事的、政治的、経済的に、日本はアメリカの庇護下にあった。
(注1)ここでの「戦後」は、正確に言えば1955年以降のいわゆる「55年体制」のことである。
しかし、もうすべては破れている。1993年に野党連合による細川内閣が成立して以降、自民党政治は旧日と異質のものである。経済成長神話は90年のバブル崩壊で完全に昔話となった(好景気がほぼ冷戦終結とともに終わったことが何より「戦後」構造の終焉を告げている)。91年の湾岸戦争から始まる世界の流動化、また日本周辺では冷戦体制崩壊で後ろ盾を失った北朝鮮の活動活発化が、従来の敵-味方論や絶対平和主義を無効にした。世界は、そして日本は明らかに従来とは別の地平に立っている。
思えば、元号とは象徴的なものである。98年の昭和天皇崩御は日本人に鳴らされた警鐘であった。すでに平成15年。つまり私たちは「現在」になって、もう15年もほとんど無為に過ごしてきたのだ。「現在」について、まず明確にしておかなければならないことは、アメリカはもはや日本の庇護者ではないということだ。「現在」の在日米軍基地は、日本を守るためのものではなく、アメリカの東アジアにおける戦略拠点である(注2)。
(注2)冷戦終結後の「新ガイドライン」と称される安保条約の見直しの目的は、自衛隊を米軍の一部として組み込むことにあった。
政治や経済についても、90年代から内向きに入ったアメリカに欺かれ翻弄され、日本は迷走し続けてきた。過保護に育てられてきた子どもが初めて外の世界に一人で放り出されたようなものだ。それが、「平成不況」以外は阪神大震災やオウム事件などしか記憶に残らない「失われた90年代」である。アメリカはこの間にIT革命を遂行して空前絶後の世界最強の軍を整備し、ヨーロッパ諸国は統一ドイツを含めたポスト冷戦体制(=アメリカに頼らない体制)であるEU(ヨーロッパ連合)を93年に発足させ、2002年には統一通貨ユーロが登場した(ドル体制からの離脱)。
▼21世紀前期における五つの「帝国」
21世紀、少なくともその前半は超大国アメリカ帝国が主導する世界となるだろう。アメリカは世界が作った鬼子である。世界中の民族が集ってその国民を形成し、その経済資金も世界中の国々が支えている。アメリカはその資金を使って政治を行ない、世界を席巻する軍事力を整えている。そして国内通貨であるドルをせっせと印刷して、世界通貨として流通させ、逆に世界経済すら牛耳っている(一見、最も「普遍」的にさえ見えるアメリカの特殊性はそのヘブライ宗教にある)。
しかしアメリカ帝国の唯我独尊ぶりもいつまで持つかは分からない。今回の対イラク戦についての「米単独戦争反対同盟」は、今後の「新秩序」を暗示している。「反対同盟」に加わった大国は、EUのフランス・ドイツ、ロシア、中国、インドである(いずれもユーラシア大陸にある)。それに対して、「賛成派」の大国はユーラシア極西島国のイギリスとその極東島国の日本だ。イギリスを除く大陸EU、ロシア、中国、インドの各「帝国」(領域内に国・省・州など中小国を複合し、かつ領域拡張志向を有する大国)の今後の成長がアメリカ「帝国」の完全覇権を阻むだろう(注3)。これが「未来」である。
(注3)米帝国を相手に、各帝国は軍事的には対峙できない。したがって、軍事的主導権はアメリカにある。だが、政治的には今回でも明らかなように「対米同盟」は有効である。ただし、その同盟も今回は一致したというにすぎない。他問題でも利害が一致するとは限らない。
なお、ユーラシア四帝国はまさに冷戦後の産物だ。EUはソ連という軍事的脅威が解消して、初めてアメリカに「NO」と言えた。ロシアは軍事的覇権を捨て、EUににじり寄ることで国際的威信を回復しつつある。中国はソ連崩壊と経済的成功によって、ますます存在感を増している。インドはIT革命の推進や核保有等で南アジアでの覇権を強めている。今イラク危機でのインドの役割は大きなものではないが、注意すべき「帝国」としてここに加えた。それから、イスラエルも重要な国であるが、本稿では触れない。
1991年の湾岸戦争、2001年の対タリバン戦争、そして今回のイラク戦争は要するに、冷戦終結後は五帝国にとって政治勢力的な間隙となっていた中東地域にアメリカ帝国が先手を繰り出したということである(冷戦中は、ソ連がしきりに攻勢をかけていた)。もちろん、中東は空白地帯ではない。特にユーラシアの四帝国は各々利害を持っているが、その「間隙」だったということだ。「米単独勝利」に対して強硬な反対派のフランスは、アメリカによる中東の実質支配を最も回避しなければならない国益を持つ国であるということにすぎない(注4)。
(注4)注目すべき見方に、「トルコ防衛・NATO参戦論」がある。「レルネット」主幹の三宅善信氏によるものだ。ペルシャ湾岸近くが戦場となった91年のクウェート解放時と違い、今度はイラク全土が戦場となる。だからこそ、米軍にとって北接のトルコを基地として使用することが重要なのだが、そうすればイラクによってトルコ領土が攻撃される恐れが十分にある。すると、どうなるか。トルコはNATO加盟国なのだ。ヨーロッパNATO軍は集団安全保障の規約にしたがって、トルコを防衛しなければならない。フランスやドイツはこの事態を恐れて「反戦」を表明しているというのが三宅氏の見解だ。黄色人国家トルコは白人連合EUへの加盟こそ未承認だが、軍事的にはヨーロッパの一員なのだ(後日、フランスを排除する形で、NATOによるトルコ防衛は可決された。その一方で、トルコ国会が米軍駐留を否決する皮肉が起きている)。
→三宅善信氏「トルコをめぐる欧米の亀裂」
また、もはや大陸ヨーロッパは反イスラムではあり得なくなったという見方もある。フランスにおける北アフリカからのムスリム(イスラム教徒)移民、そしてドイツにおけるトルコ移民(もちろんムスリム)の増加は社会的に無視できない大きさになりつつある。
余談で申し訳ないが、フセインイラク制裁の手段を国際政治的なレベルで「戦争」か「平和」かというのは無意味である。それは「米単独勝利」を許すかどうかを巡る国連常任理事国(米英仏中ロ)間の駆け引き上の言葉にすぎない。「国連決議」の内実とはそういう論理としてあり、反戦デモの論理とは平行線のように永遠に交わらない性質のものである。
▼保護者アメリカとの訣別、制約者アメリカの登場
21世紀においてアメリカは、自分が必要とするとき以外は日本を必要としない。日本は、自立的に全世界に対することが敗戦後初めて必要になったのだ。良く言えば、半世紀ぶりに再び「独立国家」(実態はアメリカの「保護国」から「同盟国」へ)となることが要請されている。「戦後」の日本外交は「アメリカ追従外交」と言われたが、これまではそれが当然なので国際的には問題にもされなかった。しかし「現在」においてはちがう。曲がりなりにも一つの国家意思としてあるのだ。
アメリカの利害に関係しない場合に限るが、日本の二国間問題にアメリカはもはや干渉しない。そこで改めて考えてみたいのが、核を含めてミサイルの照準を日本に合わせている国はどこだろうか、ということだ。弾頭数の多い順に、中国、北朝鮮、ロシアと思われる。私たちはこの現実を目を見開いてよく見なければならない。特に、中国がなぜ日本の内政である靖国参拝や教科書問題にかくも強く干渉できるのか。また、尖閣列島の領有問題でも然りである。それはミサイル軍事力を背景にした、日本の政治および社会への堂々たる自信の表明なのである。これに対して、日本には「中国に対する」という自信がない(注5)。
(注5)中国が軍事的圧力をかけ、それに日本が屈しているということではない。そうではなく、屈辱を受けても「けんか」をする気概が日本にはないということを言いたいのだ。「話し合いで」とか「平和的に」とは、それを自ら隠すための屁理屈であり自己欺瞞である。
世界的な軍事戦略に関しては当面、日本はアメリカ帝国の太平洋をはさんだ左翼の同盟国として、大西洋をはさんだ右翼イギリスの同盟国とともに、行動すればよい。だが、この日米英同盟が発動されない事態、あるいは非軍事的領分すなわち政治経済領域では、独力ないしは日本独自で連帯した同盟や連合で世界各国に対していかなければならない。そのためには、日本は「過去」である「戦後」を捨てなければならない。いかなる内外の批判や非難を浴びようとも。その際、皮肉なことに、最大の政治経済的「敵国」として立ちはだかるのはアメリカに他ならない。ただし今度は保護者としてではなく、自身の国益を守るため、日本の勝手を許さぬ制約者として表れる(注6)。
(注6)すでに90年代以降の対日政治経済政策がそれを如実に示している。そういう文脈の中で、昨秋の日朝米関係を見るとアメリカの行動と意思がよく分かる。
9月17日に小泉首相が訪朝し、金正日総書記と会談。この席上、金正日は拉致を初めて認め、謝罪した。その結果、日朝国交正常化に向けた共同宣言が発表されたが、一方では拉致被害者8名がすでに死亡との報が伝わった。それでも10月15日には、生存の5名が「一時帰国」を果たした。ところがその翌日、アメリカから奇妙な情報がもたらされた。10月3日に訪朝したケリー国務次官補がアメリカの収集情報に基づき、北朝鮮に核兵器開発を糺(ただ)したところ、これを認めたと、わざわざ16日に発表したのだ。
アメリカはアメリカ抜きの日朝国交正常化に異議を唱え、日朝問題を核問題にすり替えたのだ。これが奏功して北朝鮮問題は拉致と核に二重化し、日本は拉致問題でしか当事者になり難くなり、核問題の方はアメリカに依存せざるを得なくなった。そして、これが韓国単独の太陽政策への牽制でもあったこともお分かりだろう。
▼日本人は薬が効きすぎ、子どもとなった
日本人には薬が効きすぎる。日本人の国民性の特徴は良くも悪くも生真面目さにある。「戦後」の過去は「戦前」であるが、その生真面目さから「反省」が過ぎて、「戦後」は「戦前」の全否定となってしまった。言っておくが、アメリカに勧められた薬だけが効きすぎたわけではない。いや、アメリカは投薬ではなく、言わば外科手術を施したのだ。「戦後」という薬を調合したのは、実は日本人自身だ。それこそが今も効いている。
アメリカの外科手術とは、極東軍事裁判を麻酔薬とした、日本国憲法制定と日米安保条約締結のことだ(これらは一セットである)。ともに国際法違反の軍事占領中に制定・締結された強制法である。若い日本人はご存じないのでくり返すが、日本人は軍事占領中に新憲法と軍事同盟(その目的は第一に日本監視、第二に対共産同盟)を戦勝国に強制されたのである(結果的に悪い選択肢ではなかったが)。ちなみに国連(United
Nations)とは「連合軍」(United Nations:英語では同一)のことに他ならず、常任理事国とはそのまま「連合軍」中枢国であり、最近まで日独両国は国連の「敵国」として規定されていた。
自ら飲んで効きすぎた薬の副作用を挙げておこう。ただ徒労に終わった戦争体験をモチーフ(動機、薬効成分)とした絶対平和主義という軍事・戦争忌避、人類初二度に及ぶ被爆体験をモチーフとした反核・非核アレルギー、敗戦に導いた翼賛体制をモチーフとした反国家・政府否定主義、植民地支配および戦争の「侵略」部分への贖罪をモチーフとしたアジアへの罪悪感と敗北主義、反国益主義。さらに、戦前への反動も含めて戦後の「民主主義」に過剰適応しての、反差別が過ぎた逆差別主義、平等主義が過ぎた悪平等主義などである。
すべて「戦前」への反動が行き過ぎてこうなったように思われるが、実はそうではない。いつの間にか、「反省」のモチーフが日本人自身によってすり替えられ、社会参画からの退行を正当化するするものに変わっていた。つまる所、これらは「普遍的」(いついかなる場合も変えなくても良い、つまり無責任な)正義や主義の仮面を被ったエゴイズムである。社会も国家も世界も、自分とは関係のないものとする個人独善主義であると同時に、手段を自己目的化する幼稚で愚昧な小児退行主義である(注7)。すなわち、子どもの思考である。やはり、「戦後」とはそういう時代だったのだ。
(注7)「何が何でも戦争反対」というのは、子どもに「とにかくけんかや暴力は良くない」と言うのに似ている。目的を忘れ、手段だけを論じている。戦争や暴力を優先手段とすることはない。しかし、目的を論じずに手段を絶対視することは本末転倒というものだ。医療の目的は、患部の治癒や治療の方法にあるのではなく、患者の生命にある。手術が成功しても、患者が死んだら元も子もないだろう。
戦争反対アピールのために「人間の盾」として、わざわざ遠くのイラクへ向かった日本人の皆さんに伺いたい。なぜ、日本にとって、より身近な戦争の危険がある北朝鮮の核開発施設に「人間の盾」として行かないのかと。反戦平和主義の方にも訊きたい。北朝鮮がテポドンやノドンを東京に撃ち込んだ後でも、「絶対戦争反対」の平和行進を続ける信念があるのかと。(念のために付記するが、以上はアメリカの対イラク戦争を弁護するためのものではない。日本のことを日本人としてどう考えるかを問うている。)
▼核兵器を持つ・持たないは日本人の覚悟の問題
日本人がなすべきは、独立し責任を引き受けた「大人」となることである。アメリカ、中国、北朝鮮、韓国などからの国際的プレッシャーを、いま目の前にある現実として引き受け、アメリカではなく我が日本が何とかしなければならない問題として真剣に受け止めることである。当然、そのための力も蓄えなければならない。「過去」との訣別の第一歩は当然ながら、日本国憲法の改定、日米安保条約の破棄と新条約の締結となる。たとえ、結局似たような内容になるにしても、どうしても自分たちの基本法として引き受け直しが必要である。以下、衣食住に喩えて、「住」を保障するものとして軍事力とエネルギー政策、「食」はそのまま食糧自給力と経済政策、それに心の「衣」として教育政策を採り上げよう。
まず軍事力だが、米軍なくして成立しない現在の防衛体制はまずい。アメリカとの新条約は双務的で集団安全保障を盛り込んだものとなろうが、自縄自縛の自衛隊を解放し、北朝鮮、そして中国に対峙できる軍事力としなければならない。もちろん、「自衛」のための軍事力でよいのだが、現在の軍事力内容は攻め込まれた後の防衛力であり、予防や抑止ができるものではない。強大化するというより、内容がいびつな軍事力を立体的に再構成することが必要なのだ(注8)。
(注8)このような跛行的な軍事力を持つ国は世界で日本だけだろう。「立体的に再構成」というのは、兵器そのものだけではなく、偵察衛星の配備など予防や抑止のためのシステムを含めたバランスのよい軍事力の構築が必要だという意味だ。
公になれば大問題になり、特にアメリカは絶対反対するだろうが、核兵器の開発も秘密裏に進め、完成させなければならない。核を自ら保有しない限り、いつまで経ってもアメリカの核に頼らざるを得ず、それがアメリカと「同盟国」だと言いながら、実のところ良いように利用されるだけの「保護国」状態に止まらせている。同時に、日本人の自立心の確立を妨げている。核の保有とは単に軍事問題ではないのだ。ウランやプルトニウムは、原子力発電所の使用済み核燃料としてたっぷりある。また、ミサイル・テクノロジーに直結するロケットや衛星の技術もある。要は、日本に自立する覚悟があるかどうかだけなのだ。
基幹となる軍事技術は国家レベルで統合化を図り、かつ国産化(軍備の自給)の志向を強めなければならない。食糧と同様、外国依存過剰は命取りとなり兼ねないからだ。統合化を図らねばならない技術分野は、ロケットや衛星(=ミサイル)、原子力、航空機、船舶、通信、コンピュータ、その他ハイテク関連などだが、これらはすべて日本以外では「軍需」主導の産業である。それが日本の「戦後」では、何の疑念もなく「民需」分野として扱われてきたのだ。
「戦後」は特殊な一期間であった。しかもそれはすでに終わっている。だから、「現在」に見合った内外の「敵」に対する危機管理体制の整備も急務である。いま、日本の都市は全くの丸腰だ。くだくだしい住民エゴイズムなぞ打っちゃって、攻撃や災害に備えた都市防衛計画を策定し、それをただちに実行しなければならない。たとえば、地下シェルターの建設だ。攻撃の可能性は北朝鮮からだけではない。いかなる事態が発生するか予測し難いのが「現在」である。それに、大規模テロの可能性もますます増大している。スパイ活動についても座視することは、独立国家がすることではないはずだ。
▼安全な原子力発電は日本人が生み出せ
次にエネルギー政策である。ご存知の通り、わが国のエネルギーは石油中心であり、そのほとんどは中東に依存(87%)している。今回のイラク問題があろうとなかろうと、またその決着がどうであろうとも、石油はほぼ完全に外国依存(99.7%)であることは変わりない。そういう中で、アメリカの影響力がますます強まりかねないのが今の状況である。結論としては、日本がエネルギーで自立を強める道は原子力発電、それも核燃料リサイクルシステムの完成にかけるしかないと思われる(注9)。
(注9)2000年度では、日本のエネルギーの52%が石油に依存し、原子力は12%である(資源エネルギー庁)。石油危機前の石油依存度は77%(1973年度)であった。
核兵器と同様に、原発を過度に危険視する見方がある。しかし核兵器や原発を毛嫌いしているだけでは、核保有国及び国際石油産業の思うつぼにはまっているだけだ。反原発の過大なプロパガンダは「陰謀」の疑いさえある。確かに、事故を頻発させている旧動燃などの組織や電力会社の運用管理能力は信用できない。しかしそれで尻込みするようでは、墜ちるかも知れないからと飛行機を一切利用しないようなものだ。航空機事故がなくならないように、百パーセント安全なものなぞこの世にない。問題は安全性やリスクのコントロール・レベルにある。日本の国運をかけ、納得できるレベルの安全な原発システムを日本人自身が知恵を絞って作り出していけばよいのである。
ただ、日本のエネルギー問題はこれだけでは終わらない。電気エネルギーは原発からでよいとしても、電力用に回されている石油は今ではわずか7%にすぎないのだ。石油の35%は自動車用のガソリンなどとして消費されている。次に、石油化学製品などの化学用原料ナフサなどに18%、家庭・業務用の灯油などに16%、鉱工業用の重油などに15%が使用されている(以上で91%)。原油輸入元の多元化を図るとともに、自動車用燃料電池などの開発は、国策上からも死活問題である。
▼食糧は自給問題であるとともに日本人の身体の問題
日本の食糧自給率は2001年度速報値(農林水産省)で40%、これは主要先進国の中で最低水準だ。ちなみに、フランスは132%、アメリカ125%、ドイツ96%、イギリス74%(いずれも2000年度)である。食糧自給率は各品目をカロリー換算した総合値なので、食生活全体の中で捉え直さなければ分かりにくい。たとえば、日本はコメだけの自給率では95%だが、食生活(カロリーベース)の中で24%の比重しか占めていない。つまり、コメだけ自給できても仕方がないということだ。
品目別では、豚肉の自給率が55%、魚介類49%、果実44%、牛肉36%、小麦11%、大豆5%、油脂類4%などとなっているが、家畜飼料用を含む穀物全体の自給率では28%にすぎない(飼料用を除けば60%)。その家畜飼料自給率は25%である。日本人の食生活(カロリーベース)で42%の比重を占める畜産物・油脂類・小麦に限れば、何と90%が海外生産に依存している。国難は「油」断ばかりではない。「食」断も致命的だ。それから、家畜飼料自給率の低さがあってこそ、BSE(狂牛病)も日本国内に持ち込まれたとも言える。
食糧自給率は、国産農水産物の生産性やコストなど、対国際競争力の問題であるとともに消費傾向、すなわちパンや肉を中心とした欧米風な食生活の問題でもある。だからとて、日本食を食べろと言ったところで仕方ないだろう。しかし、これは日本人の栄養バランス崩壊(脂肪の過剰摂取、鉄分やカルシウム不足など)にも直結した根本問題でもあるのだ。子どもたちの「心」の問題すら、身体から生じていないとは言い切れまい。後述の教育問題とも併せた「再建」が必要であろう。
▼「グローバル・スタンダード」なぞ要らない
経済政策である。まず重要なことは「バブル崩壊」の後遺症が日本人には未だに大きく残っており、相当な重傷であるということだ。ここでもまた「日本人には薬が効きすぎる」と言わざるを得ない(注10)。「戦後」はインフレ経験しかなく、しかもその最大規模の土地や株価バブルの崩壊で自信喪失し、もうインフレだけはこりごりだという思いに国民だけではなく、超然とあらねばならぬ為政者までがとらわれて、なすべきことがなせていない。
(注10)バブル絶頂期には「日本株式会社万歳!」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とインフレ風に叫んでいた日本人は、同じ口で崩壊後は「経済だけが豊かさではない」とデフレ風な「反省」(開き直り)を始めた。今のデフレ不況は日本人自ら進んで呼び寄せ、それを守っているようなものだろう。
「戦後=冷戦」の終了前からキャンペーンが始まり、冷戦後は一挙に推進された経済政策とは何だったかを冷静に想い起こしてみよう。初めはアメリカが押しつけたが、その後は日本人自身が「日本経済つぶし」を行なってきたのだ。輝かしい経済成功にまで導いた当の「日本的経営」を一転して平成不況の真犯人と決めつけ、「構造改革」という名のもと、それを徹底破壊してきたと言える(注11)。「不良債権」は言わばその犯行の証拠である。しかし「日本的経営」が真犯人でないように、「不良債権処理」をいくらしてもますますデフレ不況を深めるだけだ。
(注11)読者には周知だろうが、終身雇用・年功賃金・企業別組合などの「日本的経営」は大企業だけのもので、中小企業にはそもそも妥当しない。また、株式持合や系列取引に至っては、その言葉から言っても無関係なものである。しかしながら、「構造改革」で破壊されたのは日本的中小企業経営なのである。それと、勤労者の生活だった。確かに、冷戦後の「現在」に見合った改革は必要だろうが、それは中小企業や「中流」層を叩きつぶすことではなかったはずだ。
アメリカ基準の「グローバル・スタンダード」が掲げられ、「規制緩和」「市場開放」「金融自由化」などが進められた。「市場万能主義」であり「市場淘汰主義」である。これらは一見、対外的また公平な政策に見えるが、その結果が招いたものは、国内の大企業による中小企業つぶしだった。つまりは寡占化だ。あるいは、究極のコスト転嫁政策「カンバン方式」なぞが典型だが、中小企業へのシワ寄せである。同時に、「中流」国民層や勤労者への社会保障を解除し、解体することであった(注12)。一部大企業や銀行はその犠牲になったが、それはアメリカ資本への貢ぎ物であったことはご存知の通りだ。
(注12)「自己責任」の名のもとの、ペイオフ解禁(破綻銀行の預金の全額保護停止)や人材派遣法の施行(雇用主支配の労働力コントロール=人間の人「材」化)。また、「能力主義」を名目とした賃金カットや解雇横行の公然化など。もし「自由化」によって「選別」され「落伍」した人間が経済合理的に不要だと言うのなら、その人々はどうせよというのか。職業訓練所に行けばよいなぞと気休めを言ってはいけない。この社会から去れということに等しいのだ。
結局、バブル崩壊を契機に、「グローバル・スタンダード」へと時代は変わったとアメリカに思わされることによって、日本経済はアメリカ資本のために日本人が地上げし整地を進める草刈場に化しつつある。そもそも経済とは「観念」の世界である。日本人のための「観念」で十分なのである。「不良債権」は不況期において当たり前のもので、少しも不自然なものではなく「処理」なぞ必要ない。いま必要なのは失業者の雇用である(注13)。そして「グローバル・スタンダード」という幻想を捨て、「ジャパン・スタンダード」を堂々と主張することだ。
(注13)かつてのアメリカの例に倣い、「ニュー・ディール政策」こそがいま必要なのである。要は公共投資である。血迷ったかと思われるかも知れないが、どんどん公共投資をすべきなのである。国家はどんなに国民に借金しても破産することはない。家計構造とは違い、国民の財産の再配分にすぎないからだ。問題は原発と同じで、現状のコントロール・レベルがお粗末で非効率なこと(これを正すことこそ「構造改革」である)だが、実はこれも国民の無責任の結果である。真剣に政治参加(=監視)をしていないから、汚職や非効率を許してしまうのだ。ともあれ、自衛隊や福祉サービスなど国家が拡充を進めるべき事業を全国的に興し、失業者を国家レベルで吸収していけば、不況はやがて好況へと動き出すであろう。なお、日本経済については別途詳論したいと思っている。
▼教育とは学校や子どもの問題ではなく社会の問題だ
最後に教育を論じたい。教育の最大の問題点は、教育が学校や子どもの問題だとして矮小化されていることだ。教育は社会、つまり大人の問題である。大人が子どもをどういう社会人に育てるかという問題である。教育と学習を混同してはならない。教育は教育者の側に立ち、学習は学習者の側に立つ言葉だ。すなわち、教育とは学習者である子どもたちにすり寄って考えるべきことではなく、教育者である大人(「教師」ではなく「社会」だ)が子どもに何を学ばせ身につけさせるかという問題なのである(注14)。
(注14)故に、子どものための「ゆとり教育」なぞ、そもそも問題設定が間違っている。受験についての様々な気遣いも同様で、かえって自発的で自由な受験「学習」をおとしめるものである。「教育=学習」と同一視する者たちこそ、偏差値でしか人間を測れない愚か者である。
教育は文部科学省が言うように、学校や塾が責任を負うべきことではない。子供を持つ家庭、それに子どもを持たない大人も含めた社会が責任を負うべきことだ。そして教育の内容は、教科書などにまとめられた知識や技能だけでなく、社会道徳や礼儀、様々なルールなど社会に生きる精神も学び身につけなければならないのは当然だし、教育の場所も学校内にとどまるものではない。なお、「子ども」とは身につけるべきことが身についていない「大人」も含むもので、企業内外においても必要に応じて教育はなされなければならない。
学校における教育について一言だけ注文をつけたい。それは学校こそ、リアル(現実的)な場でなければならないということだ。社会で生きるためのリアルな知識と知恵を学び身につける場でなければならない。いまの学校は社会と絶縁した「独自法」あるいは「無法」地帯、それか「収容所列島」だ。社会と別ルールで学校を運営してはいけない。むしろ、社会より一歩進んで、社会ではタブーとなりがちなリアルを解読する知恵を教えるような場でなければならない(注15)。そういう知恵を持った日本人を生み出す場でなければならない。
(注15)たとえば、テレビその他のマスコミが社会に喧伝し蔓延する、商業ベースのものの見方の批判など。具体的には、コマーシャルの誘惑通りに食生活を続けると病気になることや、便利なもの(例:携帯電話やコンビニ)の様々な功罪(結果の多元性)など。
■以上、尻切れトンボ気味だが、ここで筆をおきたい。はなはだ長文となってしまったことをお詫びする。また、後半は今後の展望というより、やや抽象的な現状批判となってしまった。多くのテーマをつめ込みすぎたせいだ。いくつかについては別途、詳論したいと思う。お許しあれ。