靖国問題の解決を阻むアンチノミー  
       03年03月16日
 萬 遜樹


 靖国神社問題は私たち日本人の喉に鋭く突き刺さった棘(とげ)である。命には関わらないと思われるのだが、気になって仕方がない。この棘をうまく取り除かない限り、何かが終わりそうにない。しかし、靖国問題は難問だ。こちらを立てればあちらが立たずという、まるでアンチノミー(二律背反)なのである。

 たとえば、靖国神社を無宗教の国立戦没者追悼施設とすればよいという考えがある。しかしそれでは、いかなる祈りや信仰によって死者を追悼しようというのか。死者(霊)と語り合うということには、冥界(あの世)というものの存在が前提されている。何らかの宗教心なくして生者は死者と交信できないのである。つまり、無宗教であると宣言すれば、生者の自己満足としてだけの追悼を行なう施設であることになる。

 では、ある種の宗教施設でよいではないかという考えが頭をもたげる。ところが、それでは国立の宗教施設ということになり、憲法の政教分離条項に抵触してしまう。やはり今のまま、国家から独立した民間の宗教法人・靖国神社に委ねるべきか。でもそれでは、いかなる根拠に基づき、一宗教法人が国家の戦没者たちの名簿をもらい受けて死者を祀り、独断で「A級戦犯」の合祀を行ない得るのか。かくして議論はいつまでも循環する。


▼明治の宗教改革は「正統」神道以外の「異端」を排除した

 改めて日本人にとって「宗教」とは何かを考えねばならない。その際、古代にまで遡って日本人の宗教意識を捉えても意味がない。靖国神社は明治前後の精神のもと、創建されたのだから。そこで重大な問題として浮かび上がってくるのが明治の宗教改革である。明治維新は精神文化的に見ると、通俗語られるような古代復興ではない。そうではなく、江戸時代まで続いてきた日本人の精神伝統と民俗精神を断ち切るものだった。

 それは「神仏分離」や「廃仏棄釈」という言葉で語られるが、「分離」され「廃棄」されたものは「仏教」ではなかった[注1]。私たちはこのとき日本人の信仰(宗教)心を奪われたのだ。明治の神道国教化政策は、言わばヨーロッパの宗教改革と異端審問(魔女裁判)であった。つまり、国家神道以外、すべての信仰(宗教)を「異端」と決めつけ撲滅し、日本国民の信仰(宗教)心を「正統」の国家神道にのみ向けさせるようとするものだった。

[注1]仏教も、教学レベルと民衆レベルに分けて捉える必要がある。民衆が信仰していたのは仏教という「宗教」ではなく、例えば、地獄や極楽という世界であり、寺の本尊そのものへの即物的な帰依であった。

 なお、「神仏分離」は神仏習合の寺社から僧侶と仏像・仏具を排除することに始まったが、しだいエスカレートして「廃仏棄釈」となり、寺そのものの廃絶や仏像等の破壊、また神社での記紀神話にない神の据え変え、名もない鎮守の祠の廃棄などに至った。大和の大名刹の興福寺でさえ、このとき一時廃絶された。

 異端となったのは、仏教諸派、修験道など神仏習合諸派、国家神道以外の神道諸派[注2]、そして民俗的な信仰など、つまり当時の一般民衆が持っていた信仰一切である。国家神道とは、記紀神話と「延喜式神名帳」に基づく皇統に関わる神々と国家の功臣を祀るため、新たに創り出された神学である。それは全国の多様で雑多な信仰を、記紀神話に基づく「神社」として一元的に整除し直し、体系的な国教会を創り出す壮大な宗教改革であった[注3]。

[注2]「教派神道」と呼ばれる国家神道以外の神道諸派は、明治政府が要求する「三条の教則」(天皇崇拝が趣旨)を受け容れることで存続が許されたが、これは宗旨の根本改変であった。修験道では吉野山や出羽三山などが大きな迫害を受け、それは今も原状回復ができない程のものだった。また、修験宗は宗派として廃止された。仏教では、強く抵抗した浄土真宗などを除き、大きな弾圧を受けて地域によっては壊滅状態になった。
[注3]伊勢神宮を頂点に、全国の神社は官幣社・国弊社・府藩県社・郷社・産土(うぶすな)社に格付けられ、弱小社は統廃合された。また、神官は国家の官吏となり、寺による「宗門改め」にかわって産土社による「氏子調べ」が始まった。なお、いま各地にある産土社としての氏神は、このとき整備された神格や様式に基づいている。


▼日本人は「宗教」を押しつけられ、再び奪われた

 古代はさて置き、江戸時代までの日本人にとって信仰とは何だったのか。そのほとんどは、明治宗教改革において「邪教」「淫祠」「迷信」として捨てさせられた記紀神話には登場しない民俗的な神々や、様々な神仏習合神への信仰であった[注4]。伊勢神宮でさえ大日如来と同体とされ、その内外には僧侶が徘徊し、さらには儒教とも習合していた。また、民衆も内宮のアマテラスより、外宮の豊穣神トヨウケに詣でることが多かった[注5]。

[注4]明治宗教改革がヨーロッパの宗教改革と類似しているのは、この「啓蒙主義」にもある。宗教改革は呪術的な神秘を封じてそれを神の専有物にしたが、明治政府も呪術や迷信に基づく民衆生活を近代的で世俗的なものへ転換していこうという啓蒙意識を持っていた。
[注5]伊勢神宮は明治宗教改革によって改組され、改めて官社となり、明治天皇制国家の皇祖神アマテラスを祀る神社となった。それまでのアマテラスは、主として日神として尊崇され、皇祖神としての性格は弱かった。

 つまり、日本人の信仰は宗派を自ら選択する「宗教」ではなかった(浄土真宗・日蓮宗・隠れキリシタンなど、宗派性の強い信仰を除く)。ここが欧米人の宗教観とは大きく異なる所であった。そんな日本人に明治政府は「宗教」を押しつけたのだ。ところが、脱亜入欧の文明開化(制度対等、不平等条約解消)政策を進める明治政府は、欧米諸国にキリスト教容認を強く求められ、国家神道の国教化政策を断念せざるを得なくなる。

 「宗教」選択の自由を認めるしかなくなった明治政府は方向転換し、今度は国家神道の方を非「宗教」化することを思いつく[注6]。神道の祭祀儀礼(形式)と信仰(内容)を切り離し、国家神道は「宗教」ではなく、日本国民固有かつ共有の祭祀儀礼だとしたのだ。この天皇制祭祀儀礼を容認するという条件下で、明治憲法の「信教の自由」条項が成立した[注7]。善し悪しではなく、一度は日本人が受け容れた国家神道も「宗教」ではなくなってしまったのだ。

[注6]仏教側からの提案もあった。西本願寺の僧侶・島地黙雷らは、欧米流の「宗教」理解に基づき、神道は「宗教」ではないと主張した。

 ここで付記しておくが、神道国教化政策は「神仏分離」の過激な「廃仏棄釈」化、東西本願寺と浄土真宗徒による頑強な抵抗および政教分離(非国教化)運動、欧米諸国のキリスト教容認へのプレッシャーなどによって頓挫した。
[注7]天皇制祭祀儀礼とは具体的には、紀記神話や天皇制に基づく祭日(いまの建国記念日、天皇誕生日、勤労感謝の日=新嘗祭、などと思えばよい)奉祝、神武陵や伊勢神宮への遙拝、各神社での例祭、公的諸行事での天皇礼拝など。

 以上のように、日本人は「無宗教」にさせられてきたのだ。その信仰心はずたずたにされ、やせ細らされてきた。その信仰心はわずかに葬儀と祖霊崇拝の中に生き延びてきた。しかしそれも「宗教」とは意識されていないのが普通だ。いささか、先を急ぎ過ぎた。今度は、靖国神社の成り立ちを見てみよう。


▼靖国神社の非伝統性と日本人の信仰

 明治の宗教改革は習合神や民俗神を断罪したが、一方で新たに祀るべき神々を指定した。記紀神話などの神々、皇統に連なる貴人や国家功労の人々である。人間を神として祀るのは古来、怨霊鎮魂のためだが、維新期においても同じだった。国家神道の神学は、祀らねば国家に祟りがあるとした。平安後期の保元の乱に敗れて、父鳥羽上皇に讃岐に流され、そこで没した崇徳天皇が、七百年ぶりに正式に祀られたのもこのときであった。

 天皇功臣としては、楠木正成が著名である。正成が戦死した神戸湊川には、明治5年に湊川神社が創建された[注8]。同様に、ペリー来航以降に国事に倒れた志士たちを祀る神社が東京九段に明治2年に建てられた。これが東京招魂社で、同9年に靖国神社と改称された。その後、靖国神社は日清・日露戦争、日中戦争と大東亜・太平洋戦争での戦没者を祀る鎮魂社となり、その管理は陸海軍に委ねられることとなった。

[注8]このように新たな国家神道に基づく新神社が多く創建されたが、その集大成が神武天皇を祀る橿原神宮(明治22年)と明治天皇を祀る明治神宮(大正9年)であったことは言うまでもない。初詣で全国屈指の参拝客を迎えるこの広大な神社が、明治以降の創建であることは案外知られていない。また、その「初詣」という行為自体が、明治期以降の「伝統」であることも。

 明治に創建された神社は「伝統的ではないもの」、場合によっては「近代的な人工物」と言ってもよいだろう。では、当時の日本人はいかなる信仰心をもって靖国神社に参拝したのであろうか。「非宗教」宣言の通り、単なる祭祀儀礼としてか。無論そうではなく、あの世に逝った英霊に御礼と鎮魂を懇(ねんご)ろに手向けたのであろう。山折哲雄氏が「東京だョおっ母さん」と「九段の母」という歌謡曲を引きながら、日本人の信仰を見事に探り当てている[注9]。

[注9]「東京だョおっ母さん」では、歌詞の主人公である娘が母の手を引き、宮城の二重橋(現人神の天皇)、九段の靖国神社(亡き兄の御霊)、そして浅草の観音(仏教の救済神)を経巡る。また「九段の母」では、靖国神社に息子を遠路訪ねた母が両手を合わせるが、思わず念仏を唱えてしまう。

 「東京巡礼の旅」と括っておられるが、ここにあるのは神仏なぞの区別を超えた日本人の祈りである。宗派や祭祀儀礼形式を超えた信仰心、これこそが日本人の宗教心の本領である。日本人の本来の「神道」(それを「神道」と呼ぶのであればだが)とは、このように宗教宗派形式には融通無碍な、内容だけの信仰なのである。そういう意味では、明治の国家神道も日本人の宗教心の炎をついに吹き消すことはできなかったのではないだろうか。


▼日本人における「宗教」の復権

 明治憲法下の日本は戦争に負けた。占領米軍はその年に「神道指令」を発し、国家神道の全面解体を命令した。そして、それは新しい憲法にも「政教分離」として厳格に組み込まれ、今に至っていることはご承知の通りだ。それでは、これによって日本人の宗教心に何が起こったかはご存知だろうか。まずは戦前の皇国史観を含めた神道への忌避である。さらにそれは「宗教」へ近づくことは危険であり、「宗教」そのものへの忌避を強めたに違いない。

 日本人は再び欺(あざむ)かれたのだ。戦後、日本人がますます「無宗教」を自認するのにはかような理由がある。しかし、日本人の信仰は実は死ななかった。神前で結婚式をして、仏式で葬式を行なうことを不思議に思わず、クリスマスを祝うのは、世界広しと言えども日本人だけだろう[注10]。ただし、日本人はこれを「宗教」とは思っていない。だからこそ、単なる「祭祀儀礼」だとして堂々とできるのだ。しかし、これはれっきとした「宗教」行為である。

[注10]クリスマスはもちろん、神前結婚も大正天皇のご成婚に範をとる明治以降のものである。実際、「伝統的」と言われることの多くは実は明治以降の「創造物」が多い。しかしながら、戦後の日本人からすれば、百年経てばそれも「伝統的」とも言える。日本人の信仰心は「伝統」にも融通無碍なのだろう。

 ようやく日本人の「宗教」が見えたきた。靖国神社はやはり宗教施設でなければならないのだ。思えば、現憲法は「時限」憲法である。占領米軍が日本の軍事的な再台頭を恐れて、非軍備・不戦主義とともに、国家神道を政教分離するために規定したものなのだ。別に宗教心の廃絶を目的としたものではない。アメリカの政教分離の実態がそれをよく示している。私たちには日本人の信仰を、宗教心を取り戻す権利があるのだ。


▼靖国神社問題の最終解決

 私たち日本人は「宗教」を恐れてはならない。確かに、オウム真理教や統一教会などは宗派として恐れなければならないものだろう。しかしそれで信仰心と「宗教心」は別物だとするのは早合点だ。日本人の「微温的」な信仰も立派な「宗教」なのである。この世を飛び出してしまうような観念はやはり「宗教」なのである。そういう日本人の宗教心の中で、靖国神社を位置づけ直さなければならない。

 私たちが間違っているのではない。憲法の「政教分離」規定が間違っているのだ。アメリカの大統領就任式やイギリス王室継承式でのキリスト教性は何ら批判されない。事実、政教分離とは無宗教ではなく「非宗教」、つまり特定宗派との癒着を禁ずるものなのである。日本人の文脈では、戦前の国家神道との癒着が禁じられていることにすぎない。靖国神社も無宗教ではなく非宗教施設として開放できれば、問題は解決する。

 先ほど、単なる「祭祀儀礼」ではないと言った神前結婚式、仏式葬式、クリスマス・パーティーへの参加を「宗教」上の理由から拒む人はいるのだろうか。欧米人にはいないだろう。しかし日本人にはいる。特に、自治体が行なう地鎮祭などで。これは日本人キリスト教徒や仏教徒のルサンチマンにすぎない。宗教とは信仰の内実で行なうものだ。それこそ祭祀儀礼の形式にこだわるものではないだろう。日本人「宗派」にはこれまでの裏切りが許せないのだ。

 結論としては、靖国神社を国有宗教施設とすべきである。「神社」ははずして、「メモリアル」か何かにすれば良い。ただし、慰霊方式は神式で何らおかしくない。日本人の宗教性を明確にするためには、自衛隊問題と同じく、憲法改正しかないだろう。それから、中国や韓国からの「A級戦犯」合祀問題は日本国内の宗教問題であり、やはり内政干渉と言わざるを得ない。政治問題つまり此岸問題と、宗教問題つまり彼岸問題の混同を避ける、日本人の「宗教」の主張が必要である。

[主なネタ本など]

安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書
阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』ちくま新書
宮崎哲弥「ならば靖国神社を『国有化』せよ!」朝日新聞社『論座』2002年11月号所収
山折哲雄「日本人の心を引き裂いた『知』のさかしら」中央公論新社『中央公論』2003年3月号所収
桂島宣弘「復古神道と民衆宗教――幕末宗教史研究序説」


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