ひな祭りが終わったら、早くひな人形を片付けなければ嫁に行き遅れる、と俗に言う。これはいったいどうしてなのだろうか。今回はこれを解き明かしていきたい。季節行事というものは、歴史のあり様そのままに決して単純ではない。それは盤石であるように見えて実はそうではない地層のように、堆積を続けながらも褶曲(しゅうきょく)や侵食をこうむり、時には断裂し、また岩質が変異するなど、複雑な変容を重ねてきている。
まず述べなければならないのは、いわゆる「ひな祭り」が女子の祭りでもひな人形を飾る祭りでもなかったことだ。ひな祭りがそうなったのは、対になる端午の節句(五月五日)が男子の祭りとされ、兜を飾り、鯉のぼりを立てるようになった時に見合う。それは室町時代以降のことで、さらには江戸時代になって現代に近い形式と意味ができ、盛んになっていったものだ。それ以前は全く別の様相をもったものだったと言ってよい。
ひな祭りは五節句の一つだ。五節句とは中国由来の旧暦の王朝民俗で、人日(じんじつ:一月七日)・上巳(じょうし:三月三日)・端午(五月五日)・七夕(七月七日)・重陽(ちょうよう:九月九日)の祭日のことである。お分かりの通り奇数月日で、しかも人日以外はいわゆる「ぞろ目」の月日である。ぞろ目となったのは数遊びで、本来は二か月ごとの「季節の折り目の祭り」(節句とはそういう意味だ)であったと思われる。
季節の祭りとは何か。順調な天候の移り行きを予祝し、天(天気)あるいは神を言祝ぐものであった。つまりは、豊かな農耕や漁労採集の収穫を祈願する経過祭である。当時は、月が満ち欠けするように、人間の生命力も満ち欠けしていた時代である。節句ごとにその生命力を振るい興したり、その障害を振り払ったのである。そういう季節を支配する天への、その中で生活を営む人間の祭りとして、節句を理解しなければならない。
古代の日本には大祓(おおはらえ)が年に二度あった。これは「一年二周期」の考え方で、言わば大晦日(死)と元旦(再生)が二度あったのだ。筆者は推断する。さらに昔には、毎月、死と再生の祭りがあったのだと。それが新月と満月の意味である。五節句はそれらの中間的な儀礼としてあるのだと思う。中国から伝来した民俗とされるが、筆者はむしろ共通の源泉に基づく祭式文化だったと考えた方が分かりやすいと思う。
その原型はケガレ流し(祓え)にある。生を営むことはケガレを貯め込むことでもあったのだ。それを定期的に水に流す。禊(みそ)ぎもそういう祓えの一つである。禊ぎは身体から直接に穢れを流すが、別の何かに託して祓い流す方法もあった。その代表が人形(ひとがた)に託すやり方である。人形に自分の穢れ(病など)をこすり付けて、この世ならぬ処(つまりは「あの世」ということになるのだが)に送り祓うのだ[注]。
[注]実は、道祖神の本質も穢れをこすり付けて祓い送る人形神である。
上巳の節句では、ご存知の通り『万葉集』にも登場する「曲水の宴」が有名だ。王朝貴族が庭園の流水に臨み、流れる杯に従って順に詩歌を詠み合ったというものだ。これは、古俗の穢れ流しがソフィストケイト(洗練化)されて、詩歌競詠と結びついたものであろうことは容易に想像がつくだろう。それでも、必要に応じて別に人形による祓え流しが行なわれていたことは『源氏物語』に主人公光源氏の行動として描かれている。
「桃の節句」という呼び名にも、上巳の節句が厄祓いの日であることがよく示されている。桃は、吸血鬼に対するニンニクのような聖なる果実で、魔物を追い祓うものなのだ。紀記神話でイザナギが黄泉国のイザナミから逃れるため、投げつけた果実は桃であった。また、桃太郎が桃から生まれたのもこの霊力にちなむものである。「桃の節句」という言葉には、春がただ桃の季節であるという以上の意味がこめられている。
上巳の節句は、多彩に変奏される「春の祭り」の一つである。月(文字通り、月の満ち欠けによるサイクル)から年(太陽による四季のサイクル)に、つまり季節というものに重点が移ることで、春が特別視されていった。正月、節分(春分の前日)、上巳の節句などは、すべて春の到来の祭り、すなわち新しい年の祭りである。その節目に、穢れの大きな祓え流しが行なわれたのである(大晦日・大祓、鬼やらい=鬼祓い、人形流し)。
「ひな祭り」の「ひな」とは何だろうか。幼い鳥を「ひな鳥」と言う通り、小さなものへ愛おしさをこめた言葉であると思われる。そういう人形(にんぎょう)がひな人形に他ならない。現代でもそうだが、女子は人形遊びを古来より好んだらしい。それは、祓えの人形(ひとがた)とは区別されるものだったが、ヒトガタと同じように長らく紙で出来ていた。もちろん、上巳の節句とは無関係なニンギョウ遊びであった。
「ひな祭り」は田舎(ヒナ)でこそ成長していったものであるかも知れない。田舎では、春祭りが盛んであった。野山に繰り出し、草団子を作った。女子は紙人形を持って行って、川辺でも遊んだだろう。その春祭りが終わるとき、親たちは子どもたちのことを思い、そのニンギョウをヒトガタとして穢れを水の流れに流したのかも知れない。事実、そういうひな流しが今に伝わっている(鳥取や和歌山の流しびなが有名)。
戦国時代以降から、現代に続く日本は始まる。これ以前のひな人形は単なるニンギョウ遊びである。しかし武士階級が成長し固定化するに連れて、ひな人形も変質していく。立ち姿だった紙人形が、着物を着て座るようになる。それは武家の女子の象徴となり、贈答品ともなっていく。ただし、ひな壇はさらに遅れる。ともあれ、それは武家の男子の祭りが端午の節句に収斂していく過程と並行した出来事であった。
かくして、春の祭りであることを深層では理解しながらも、表層では意味が分からなくなった江戸時代にこそ、ひな祭りは大いに発達する。武家ばかりではなく、豊かな商人たちも女子のために豪華なひな壇を持ったひな人形を飾り始める。やがて町人一般にも「ひな祭り」は普及していく。それでも民俗の記憶は生き続ける。それが本来流すはずのヒトガタとしてあったひな人形の記憶である。その不安が「嫁の行き遅れ」というタブーして今もあるのだ。
[主なネタ本など]
新谷尚紀『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』文春新書