ペリーの浦賀来航と沖縄、小笠原諸島、
そして林子平の関係 

03年05月18日
菅田正昭(著述業)


 ペリー提督、すなわちアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官のマシュー・カルブレイス・ペリー(1794〜1858)が、第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアの親書を携えて三浦半島・浦賀沖に蒸気船2隻と帆船2隻で現われたのは、今からちょうど150年前の嘉永6年(1853)の7月8日(旧暦6月3日)のことだった。ちなみに、ペリーは、その前年の1852年11月24日、アメリカ東海岸ノーフォークを出航。当初は12隻の艦隊で日本に圧力をかけるつもりだったらしい。しかし、船の手当てが間に合わず、結局は4隻でやってきたわけである。それでも、江戸市中を恐怖に陥れたのだから、黒船の威力は絶大だった。おそらく、この〈事件〉は、海の彼方の常世やニライカナイをあこがれる弧状列島住民の素朴な信仰を打ち破り、その裏返しとしての〈欧米〉への舶来信仰を根づかせる契機となったといえるだろう。
 
 ところで、ペリーら一行は、浦賀に来る前、琉球の那覇に寄航している。滞在は5月26日から6月9日までだったが、その間にちょっとした事件を起こしている。太田昌国著『〈異世界・同時代〉乱反射 日本イデオロギー批判のために』(現代企画室、1996年)によれば、アメリカ艦隊の水兵たちはあたかも昭和20年以降の日米関係を彷彿とさせるような事件を引き起こしている。

 「琉球に上陸した水夫たちは酒と女性を求めて人家に押し入っている。強姦を行なった一水夫は住民に追われ海に落ちて溺死したが、これを知ったペリーが怒り、真相究明と『犯人』の処罰を琉球側に求め、米国側立会いで裁判を開かせたという史実も、その後の歴史を暗示しているかのようである。」(同書317ページ、沖縄・安保報道の裏の裏)
 
 そして、このあと、ペリーの艦隊は小笠原へと向う。6月14日(旧暦5月8日)、父島・二見浦に寄航。父島にも5日間滞在したが、ペリーはここでも那覇と同様に強引な方法で貯炭所の設置を認めさせている。

 ところで、小笠原諸島の父島(ピール・アイランド)には当時、二十数名の住民がいた。天保元年(1830)、白人5名とハワイのカナカ系の人二十数名が上陸し、歴史上の最初の小笠原住民となったが、かれらがそのまま住み着いていたのである(現在、在来島民とか欧米系島民といわれている人たちの先祖である)。ペリーは彼らを呼び集め、植民政府の樹立を命じ、住民代表のナサニエル・セボレーを〈ピール・アイランド植民政府〉の長官に任命した。そして、その監督役として水兵のジョン・スミスを残留させた。
 
 じつは、ペリーは小笠原から浦賀へ向う6月25日、海軍長官宛てに書簡を書き「海軍省が合衆国の名によって小笠原を占領すべき旨」の上申書を提出して小笠原諸島の占領と米国領土化を主張している。同じ頃、イギリスもボニン・アイランド(小笠原諸島の英語名;ボニンは“無人”が訛ったもの)の領有権を主張しており、巽無人島の島々(青ヶ島以南の無人島の総称)は米英に占領されかねない状況だったのである。
 
 それを救ったのが1枚の地図だった。寛政の三奇人の一人で、江戸中期の兵学者の林子平(はやし・しへい、1738〜1793)の『三国通覧図説』に収められた絵図である。もちろん、林子平は『三国通覧図説』や『海国兵談』などで“海防”を主張したため、幕府の忌諱にふれて蟄居中の寛政5年に亡くなっている(林子平は家を一歩も出られず、文筆も止められるくらいなら、むしろ刑死を望んだらしい)。ペリー来航の60年前のことだった。

 ペリーは、小笠原の領有を主張し、幕府の主張する小笠原の固有領土の事実を認めなかったが、そこに登場したのが『三国通覧図説』のドイツ語訳版とフランス語訳版だった。

 そこには小笠原が日本領土である事実が記されていたのである。こうして、ペリーは小笠原領有の野望を取り下げざるを得なくなったのである。ちなみに、この『三国通覧図説』には青ヶ島もちゃんと記載されている。


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