水神の話:「河童駒引」をめぐる動物考―馬・牛・猿 
 03年07月06日
萬 遜樹


(序)のようなもの

▼神話的思考から見た河童の正体

 河童の話であるような、またそうでもないような話をいくつかしたい。あらかじめお断りしておくが、河童はここでは主役ではない。小論は、河童が日本に生まれ出るまでの全人類的な記憶、あるいはニッポン人の深層を断片的に素描することにとどまる。ユング流に言えば「集合的無意識」、折口信夫流に言えば私たちの「古代」をめぐる話を、そしていくつかの脱線的なエピソードを予定している。

 さて、柳田国男によれば、河童は水神の零落した姿だという。「河童駒引」というのは、河童が馬を水中に引き込む話だ。その馬を守るのが猿なのである。この「河童駒引」をユーラシア大陸に広く伝わる水神信仰の大海の中に位置づけたのが、石田英一郎著『河童駒引考』だ。それにしても、河童はなぜ馬を水中に引き込むのか。それは河童=水神の正体が馬であるからだ。また同時に、馬は水神への犠牲なのである。

 ここには、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一のような、神話的思考がある。例えば、天照大神を想起されたい。この神は先行する神々に祈りを捧げる神であると同時に、人々に祈られる神である。神に祈る巫女こそ、神そのものなのである。それ故、次のような一見奇妙な行為がなされる。人々はある神のためにその神自身を犠牲として捧げるのである。神話そして宗教の論理は絶対値で出来ている。犠牲(神の死)は降臨(神の生)であり、強敵はその同類によってしか倒せない[注1]。

[注1]征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の大酋長アテルイを破り得たのは、神話論理的には田村麻呂自身が蝦夷であったからだ。


▼「尻小玉」と「トイレの花子さん」など

 ここでは、もう一つだけ述べておきたい。河童は水辺や水中に遊ぶ馬や人の「尻小玉」(しりこだま)を抜くと言われる。肝心の尻小玉とは何だか不明なのだが、肛門から奪われる何かのようで、おそらく「肝」(きも)ではないかと思われる。肝とは実物としては肝臓でありながら、現代人が捉える肝臓ではない。それは「肝が据わる」や「肝を冷やす」や「肝をつぶす」の用例に見られるような、生き物の心や生死に関わる特別な臓器である。

 この河童は「トイレの花子さん」に似ている。いや、逆だろう。河童は花子さんとなって、今もなお生き続けているのである。問題は水である。水は地下水となって、どこにでも通じている。水神はこの水路を使って、自由自在に移動する。故に、水神は竜宮[注2]の海神でもある。そして水は生命の源である。奈良東大寺二月堂の新春の祭りである「お水取り」の聖水は、若狭からの送り水であるとされるが、これは地下を経た変若水(おちみず:若返り、再生の霊水)である。

[注2]「竜宮」は「竜」の宮だ。つまり、海神の正体は竜だということになる。竜については後述したい。

 花子さんに尻を触られる気持ち悪さ、あるいは河童に尻小玉を抜かれる恐怖に近い話は古代にもある。三輪山の神・大物主の正体は蛇だと言われるが、この神は水を流れる丹塗りの矢に変身し、用便中の乙女の秘所に突き刺さった。この乙女から生まれた娘、つまり神の娘だが、彼女こそ後ちに初代人皇神武天皇の皇后となる[注3]。この神々しさに比べると、やはり河童は水神としては零落してるのだろう。そろそろ、時刻は午(=昼、うま)である。馬の話に移ろうか。

[注3]全くと言ってよいほど似た話に、玉依姫命(京都の下鴨神社に鎮座)が丹塗りの矢で、賀茂別雷命(上鴨神社に鎮座)を宿したというものがある。


(一)馬と水神

▼地上の馬と交わり名馬を生ませる神馬

 馬は雨に関わる犠牲の動物だった。しかし、やがて貴重な生き馬を犠牲にすることは取り止めになり、土で作った馬や絵に描いた馬で代用されるようになった。神のための祭場と言えば神社であるが、神への捧げ物としての馬は、神社にいまも「絵馬」として生き続けている(もっとも、願い事は雨乞いなぞではなくなったが)。ちなみに雨乞いの際は黒馬、晴乞いの際は白馬というのが習わしであった[注4]。

[注4]平安期に朝廷行事として、正月七日に行なわれた「白馬(あおうま)節会」も、水神への祭祀に関わりがあるものと思われる。

 なぜ馬を捧げると雨を呼べるのだろうか。それは馬が水に深く関係する動物だからだ。馬は古来、水辺の草原で放牧された。これは単に馬の飲み水のためではない。水辺でこそ名馬は生まれ育つと信じられていたからだ。神が水中から現れ、雌馬と交わり、駿馬を生ませたのだ。その神はしばしば竜であった。馬と合体したのが「竜馬」であり、竜馬は天馬でもあった。竜は、まず馬であったことが分かる。

 この水中の神馬というモチーフは、日本や中国にとどまるものではない。中央アジアを経て、ロシアや全ヨーロッパにも広がっている。また、アラブ世界の古典『千夜一夜物語』のシンドバッドの冒険譚にも見出せる。ある島での奇習として語られるのだが、雌馬を海岸につないでおくと、やがて海から種馬たちが現れ、交尾する。それを見届けた後、人間たちが種馬たちを追い払う。島の住民たちはこうして名馬を得ていたという話だ。

 それから、興味深いことに、世界中の水神説話には共通する魔除けの呪具が登場する。それは鉄や金属である。北欧では水怪退治に焼き串や小刀が用いられるが、わが国の河童も鎌や庖丁を嫌う。古事記にある三輪山の蛇神もその正体は針によって明かされる(同型の説話には、針に塗った毒で大蛇が命を落とす話もある)。中国には、水神(水怪)を鉄(金)の鎖につなぎ留める話もある[注5]。

[注5]すでにお分かりかと思うが、神話要素の善悪にあまり意味はない。つまり、水神でも水怪でも同じなのだ。要は絶対値的な強度だけが問題だ。


▼人の家畜になるために生まれてきた動物

 ここで脱線して、馬と人の関わりについて述べたい。数多くいる動物の中で、ある条件を満たせるごく限られたものだけが人間の家畜となれた。その条件とは、食べ物を中心に人間に手間をかけさせ過ぎないことである。食べ物の選り好みが激しいとか、習性が狂暴だとか、体力が弱すぎたりすると、忙しい人間にはとても面倒見切れないからだ。その点、馬は草食で比較的おとなしく、角や牙もなく、しかも丈夫だった。
 
 馬は草食だが、森林ではなく、草原をあえて選んで棲んだ。生存のための棲み分けだ。その顔が長いのは、目と口を離すことで、食事中も肉食獣の接近に目を配れるようにだ。敵が来れば、速く走って逃げる。足指の爪が蹄(ひづめ)となって発達した。さらに、人間にとって奇跡のようなことがある。馬の歯は目と口が離れたせいで、前の切歯と後の臼歯の間にすき間ができていて、そこに手綱となるものをかけることができたのだ。

 現在のヒトは、ネアンデルタールなど先行する人類から多元的に生まれたのではなく、アフリカの「イブ」と仮称されるただ一人の染色体から広がったとされる。実は、現在の家畜馬もただ一つの染色体から生まれ広がったことが分かっている。もと野生であった馬は氷河期ごろまでは世界中にいた。ところが、家畜となった種と野生の一種を残し、他の馬はすべて人間によって狩猟・食され、絶滅したのだ[注6]。

[注6]現在も残る野生馬は、プルツェワルスキー種(動物園などに保護されて生存)と言い、染色体数は66である。これに対して、現在の家畜馬の染色体数は、ポニーからサラブレッドまで例外なく64だ。アメリカやヨーロッパ大陸に氷河期まで、野生馬がいたことは化石や洞窟壁画から証明される。その後、馬は姿を消した。


▼馬と人の再会と家畜化、そして「騎馬遊牧民」の誕生

 馬はユーラシア大陸中央部で生き延びたようだ。馬と人との再会は、馬が棲む草原と、農耕地帯の周辺で狩猟採集を行なう人々が住む森林の狭間で実現した。黒海北岸のウクライナ地方の遺跡から、現在最古に家畜化されたと思われる状況の化石が発掘されている。紀元前4000年ごろのものと推定される。馬の歯には、手綱をかけた時にできる摩滅や変型の跡もあった。しかし、遊牧生活というものは最初なかったと考えられる。

 まず農耕生活が始まって、その地帯あるいは外周で羊や山羊、牛が家畜化されるようになる。そして、やがてそこが文明の中心となっていく。ずっと遅れて、まだ狩猟採集が残る周辺地帯で、野生動物の家畜化が試みられるようになり、そこで馬が家畜化される。最初は食肉用だっただろう。同時に、乗馬も試みられるようになったと思われる。前の遺跡から犂(すき)や車が発見されていないことから、摩滅し変型した馬の歯は乗馬していた結果だと推定できる。

 その後、周辺地帯へも農耕と牧畜という生活スタイルが広がるが、しだいに気候の乾燥化が進み、そこでの定住生活が困難となっていく。そうして、生存への適応戦略として、移動しながら放牧する「遊牧」という生活スタイルが生まれたものと推測される。「騎馬遊牧民」の誕生である[注7]。ただし、これがそのまま乗馬の全面的普及、大集団の結成や侵略的な騎馬軍団の成立を意味するわけではない。

[注7]「騎馬民族」という表現ではそういう特定民族があるように思われる、との本村凌二氏の指摘は妥当である。


▼馬を操る者が支配する時代の始まり

 文明発祥の地メソポタミアで「車」が発明される。しかしこれはロバが引いていたようで、文明地帯では馬はまだ知られていなかった。馬が引く「戦車」を発明したのは、インド・ヨーロッパ語族である。この命名は後ちの拡散地によるもので、彼らの本拠は馬が最初に家畜化されたユーラシア大陸中央部と見てよい。乾燥化し生活環境の悪化した紀元前2000年以降、彼らは次々に文明地帯に襲来し始める。西に進んだのがヒッタイト人など、東に進んだのがアーリア人である。

 馬の力は圧倒的であった。鉄製の武器をも手中に収めたヒッタイト人らは古バビロニア王国に襲いかかる。また、アーリア人はインド・ガンジス河流域を席巻した。この馬の力と早さは、はるか後世に蒸気機関が生み出されるまで、数千年にわたって人間の歴史を支配することになる(力の方は「馬力」という日本語として今も残っている)。これに対抗するために、エジプトなどの古代世界に、馬とこれを用いた戦車が急速に普及する。

 しかし、東オリエント世界で初の覇者となったのは、戦車ばかりではなく騎馬軍団をも編成したアッシリアであった。紀元前1000年ごろに革新があったと思われる。すなわち、乗馬技術などの確立である。以後、馬は車を引かせるばかりではなく、乗るものだという考えが普及していく。アッシリアの崩壊後、ペルシャ帝国が全オリエントを統一し、古代ギリシャ世界と出会うことになる。ここらで下馬し、水神に戻ろう。


▼海の神にして馬の神であるポセイドン

 ユーラシア大陸にあまねく水神は、ギリシャではポセイドンとなる(ローマに入ってネプチューンと同一視される)。ポセイドンが主神ゼウスの兄弟神にして、海神であることはご存知であろう。この神は馬神でもある。馬に化けて逃げる地母神デメテル(デーメーテール)を自らも馬になって追いかけ、神馬アレイオーンを生まし、鬼神メドゥーサとの間には天馬ペガサスがある。ポセイドンには、泉や海で生き馬の犠牲が捧げられていた。

 ポセイドンは三叉の戟(さんさのほこ)を持ち、乗馬する姿で描かれることが多い(馬が引く戦車に乗ることもある)。ところで「三叉の戟」とは何か。魚を突く銛(もり)である。また、「馬首・魚身」で表現されることもあり、「船の救い主」とも呼ばれる。このように、ポセイドンは海の神にして馬の神なのである。しかし、なぜ馬神が海神(もちろん逆でも良い。海神がなぜ馬神)なのであろうか。

 こう考えられる。ギリシャ人はインド・ヨーロッパ語族の一派であり、早くから馬の文化を知っていたのだろう。そのギリシャ人が南西への長い旅の末、地の果てで見たのが地中海である。そこには白波が走っていた。いまでも「白波」を英語で "sea horse" と言う。すなわち、彼らは海に馬を見たのである。遠い記憶が甦る。それに舟も、あたかも海を行く馬ではないか。こうして、海の神が馬の神となったと[注8]。

[注8]実はギリシャの地形は起伏が激しく、馬を乗り回せる平地は少ない。だから、ギリシャでの戦争では馬を使わないことが普通であった。ペルシャ戦争でも、ギリシャ人は「重装歩兵」で戦った。しかし、彼らの嗜好が馬にあったことは確かだ。オリンピア競技での最大の注目競技は戦車競争であった。ローマ人も戦車競争を好んだ。コロセウムは言わばそのために作られたのだ。ギリシャ人で騎馬軍団を使いこなしたのは、ペルシャを征服したアレクサンドロス大王であった。蛇足だが、その愛馬はブーケファロスという。


▼オリンピアに駆け上ったポセイドン

 さて、ポセイドンは何と牛の神でもであるのだ。三叉の戟を右手に、左手には花の咲く大枝をもって、雄牛にまたがるポセイドン像がある。ポセイドンは「雄牛なる」と冠をつけて呼ばれるのが常であり、雄牛を自分の意志で自由に操った。さらにポセイドンへの正式の犠牲が雄牛だったことをホメロスも証している。一体全体、どうなっているのか。ポセイドンは海神にして、馬神であり、さらに牛神でもあると言うのか。

 実はそうなのである。神話学者ハリソンによれば、こうなる。神は信仰者自身である。つまり、祈る者こそ神である。だから、ポセイドンとは、海を行く民であり、馬を飼う者であり、牛を使い農耕する者なのだと。果たして、そんなギリシャ人がいたのか。エーゲ海のクレタ島でミノア文明を築いた人々こそが実はそうだったと。そこで崇拝されていたのは、クノッソス宮殿の迷宮にひそむ、半牛半人の怪物ミノタウロスだった。

 では、ポセイドンの正体とはミノタウロスなのか。確かにポセイドン信仰は、ミノア人が植民したギリシャ各地で見出せる。おそらくエジプトから伝わった牛神ミノタウロスの信仰は、ギリシャ本土ではしだいにポセイドンという馬神へと変貌を遂げ、ついにオリンピアの神殿に駆け上ったのだ。そう言えば、ポセイドンは兄弟神であるゼウスと対抗し、いつも敗退するという、どこか外来神としての性格を匂わしていた。しかし、ポセイドンは本当に水神なのか。

(つづく)


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