水神の話:「河童駒引」をめぐる動物考―馬・牛・猿(3) 
03年07月19日
萬 遜樹


(三)猿と水神

▼水神としての猿

 河童の異名は多くある。ガアタロ(壱岐)、カワッソウ(肥前)、カワロ(但馬)、ガタロ(播磨)、カワタロウ(畿内)、ミズシ(能登)、ガワラ・ガメ(越中)等々。そういう中で「エンコウ」と呼ぶ地方がある。出雲から長門にかけての山陰西部、および伊予・土佐の四国西方だ。これはずばり「猿猴」(えんこう)、つまり猿のことだ。九州では、姿形ばかりか泣き声も猿に似ていたという報告がある。また、大和の「猿沢池」が代表例だが、猿を含んだ水辺の地名は数多い。猿もまた水に親しい動物だったのだ[注3-1]。

[注3-1]河童のイメージは2系統ある。東日本系の「亀・スッポン」と西日本系の「猿・カワウソ」だ。これが合体して、よく知られた河童像が誕生した。すなわち、ざんばら髪に皿を載せ、背中には甲羅を背負って、口はクチバシのように尖り、指の間に水掻きを持った男童の妖怪である。頭の皿以外は、河童の異名もその身体的特徴も、この2つの原像からほぼ想像できる。

 では、頭の皿とは何か。まず、男童の妖怪であることから、初めはおかっぱ頭だったと考えつく。そして皿は成人した武士の月代(さかやき)をヒントに考案=想像されたものだろう。だから、これは割れたりする「皿」そのものではない、と考えるがどうだろうか。ちなみに折口信夫は、皿の重要性をことさら指摘する。しかも皿は伏せられてあると言う。皿は河童が神であることを証明する「笠」であると考えたのだ。

 なお、河童が男童であることは「桃太郎」や「座敷わらし」などの幸運(あるいは不幸)をもたらす「小さ子」伝承の系譜にもある存在だということを示している。

 しかし、猿が馬を河童から守るというのが「河童駒引」ではなかったのか。ここで再び、「敵はその同類によってしか倒せない」という神話論理のテーゼを想い起こして頂きたい。つまり、猿は河童と同類なのである。そう、猿もまた水神なのである。こうして、「河童駒引」譚に登場する猿・馬・河童の三者ともが水神だということが判明する。神話や物語とは、実はそういうふうに出来ている[注3-2]。

[注3-2]面白いことに、このテーゼは現代にも適用できる。これに従うと、アフガンとイラクの政権を武力打倒した米ブッシュ大統領は、ビン・ラディン、サダム・フセインと同類ということになる。現代の「物語」もそういうふうに出来ている。


▼猿は馬を病気やけがから守るという信仰

 ところが、馬や牛と違って、猿と水との結びつきは、西洋にはなく、日本・中国・インドなどの東洋世界に限られている。これは野生猿の生息圏と一致しているのだ。日本では日枝大社[注3-3]の神使としての猿やお伽噺、中国ではあまりにも有名な猿猴・孫悟空、インドでは『ラーマーヤナ』に登場する猿猴ハヌマーン(ハヌマンタ)など、多くの猿物語がある。そして、猿と馬との関わり、さらに猿が馬を守るという伝承はどうやらインド始原のようだ。

[注3-3]「ひえ」大社と読む。比叡山延暦寺の地主神。東京・永田町にあり「山王祭」で有名な日枝神社は、これの勧請神である。

 正月を言祝ぐ猿回しは明治時代まで見られたが、それが見せ物だけではなく、馬医者を兼ねていたと述べたのは柳田国男だった。事実、中世の絵巻物『一遍聖絵』や『石山寺縁起絵巻』には、馬を飼う厩(うまや)に猿がつながれている絵がある。猿には馬を病気やけがから守る霊力があると信じられていたのだ。それが「河童駒引」につながっていると思われる。中国地方では、厩の柱に猿の頭蓋骨やミイラ化した腕をかけて、牛馬のお守りとしている所もあった。

 インド北部には、猿を厩につないでその守護とする習慣が今も残っているという。また、古い説話には火事で火傷した馬を、猿の髄から作った薬で治療したという話がある。さらに、中国・晋朝にはインド伝来かと思われるが、猿が死んだ馬を蘇生させた話もある。宋代には、猿は馬の疫病を防ぐとされ、厩に猿を飼う習慣が中国に広がったようだ。病はかつては悪霊のなせる業であったから、これが馬の尻小玉を抜く「河童駒引」となったのかも知れない。


▼日光東照宮の三猿と庚申信仰

 ところで、猿と言えば、何を思い出すだろうか。「三猿」、つまり「見ザル・言わザル・聞かザル」はご存知だろう。これがかの日光東照宮にもある。名匠・左甚五郎による作という代物だ。同じく左甚五郎作と伝わる木製白馬のための「神厩舎」の欄干に彫り込まれている。やはり、ここでも猿は厩につながれていたのだ。では、この三猿とは一体何なのか。また、それがどうして徳川家康の墓所である東照宮なぞにあるのだろうか。

 三猿とは、中国伝来の庚申(こうしん)信仰に基づくものである。庚申とは、干支の一つ「庚申」(かのえさる)の夜、人の腹中に棲む3匹の虫「三尸」(さんし)が人の睡眠中に身体から抜け出し、天帝にその人間の罪過を告げて早死にさせるというもので、長生きするにはその夜は徹夜して、三尸が身体から抜け出さないようにしなければならないと説く信仰である。その徹夜の行事を「守庚申」や「庚申待ち」などと言う。

 この庚申待ちは、日本でも早くから行われていて、平安時代の日記などを見ると、詩歌管弦、碁、双六などの遊びをして徹夜したことが記されている。それが、室町時代半ば以降、仏教や修験道が関わりをもつようになり、それまでの遊宴中心の宮廷行事から、僧侶や修験者が指導する信仰行事へと変化していったのだ。江戸時代以降には、村ごとに「庚申講」が作られ、村人がそろって庚申待ちで一晩夜明かしをしていた。

 今でも田舎の道辻に行けば、その頃の庚申塔が残っていることがある。その石塔には、天の邪鬼を踏みつけて立つ「青面金剛」(しょうめんこんごう)像が刻まれ、たいてい一緒に三猿がある。この庚申信仰の民間普及には天台宗系の修験者が関わっていた。その中で青面金剛が庚申信仰の主尊になったのだ。また、申(さる)を動物の猿と見なし、三尸をそれぞれブロックする猿として「見ザル・言わザル・聞かザル」が登場したのである。これには、天台宗の総本山延暦寺の地主神日枝大社の神使が猿であるとする伝承の影響が大きかった。

 さらに、家康の信認篤く、その死後の東照宮造営に深く関与した天海は比叡山に学んだ僧であった。彼は「山王一実(さんのういちじつ)」という独自の神道を創始した。山王とは日枝大社のことで、その神使である猿を神聖視した。そのことが、東照宮・神厩舎の欄干に三猿を刻ませ、また江戸初期に庚申信仰と三猿を爆発的に普及させる後押しをすることになったのだ。


▼石川五右衛門と夏目金之助、そして乗馬猿

 そろそろ、この話も締め括りたい。庚申塔はどういうわけか、たいてい道辻にある。そしてそこには道祖神や馬頭観音もある。馬頭観音とは、文字通り馬の首を頭に載せた観音様だ。その庚申塔に三猿が刻まれていれば、猿は馬と近接して置かれているということになる。どういうわけでそうなったのかは分からないが、辻とは村の果てのことであるから、馬を神に捧げた場所ということなのかも知れない。

 さて、大泥棒石川五右衛門の誕生日の干支をご存知だろうか。もちろん伝承だが、庚申の日(あるいは庚申の夜に宿った)ということになっている。すなわち、庚申に生まれると盗人になる運命であるらしい。その日に生まれた大作家がいた。誰あろう、文豪夏目漱石その人である。両親は大いにあせり、「金之助」と名前を付けた。これは陰陽五行説の「金」に基づく魔除けだが、筆者には、水神である猿(申)が金属を嫌っているように見えて面白い。

 大団円である。ついに猿は馬に乗る。「乗馬猿」というモチーフがユーラシア騎馬遊牧民にある。なぜ、野生猿がいない北部ユーラシアにそんなモチーフがあったのかは謎である。インドあるいは中国から伝わったとしか考えられないが、馬具の装飾に確かに乗馬猿が刻み込まれていた。ともあれ、こうして牛・馬・猿となった水神は、日本では河童となり、同類である猿がこれまた同類の馬を守るという配役で「河童駒引」という劇を演じるようになったのである。


[主なネタ本など]

柳田国男「河童駒引」(全集/第5巻『山島民譚集』所収)筑摩文庫
折口信夫「河童の話」(全集/第3巻『古代研究(民俗学編2)』所収)中公文庫 中公クラシックス版
石田英一郎『河童駒引考』岩波文書
本村凌二『馬の世界史』講談社現代新書
新谷尚紀『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』文春新書
                             

 


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