1万年の叡智―宗教とは何か 
 03年09月24日
萬 遜樹


(1)

 宗教とは何かを、社会心理学的に考えてみたい。マルクスからはアヘンと言われ、科学からは非合理、常識からは盲執と見なされている宗教。果たしてその存在意義とは何なのだろうか。最初に、宗教的思考の限界を見極めたい。世界三大宗教と呼ばれる、キリスト教、イスラム教、仏教。ご存知のように、前二者は一神教で、仏教が多神教である。

 キリスト教の母体となったのがユダヤ教で、イスラム教もこの二宗教と近縁にあると言えよう。いずれも一神教であり、その絶対神は人格神とされる。進化論は19世紀になってからの産物なので仕方ないのだが、これらの宗教では神は人間以上のものを造らないことが前提となっている(天使は神と同類なので除く)。神に最も近似した、創造物の中では最高の存在が人間だということになっている。つまり、人間のための宗教なのである(ここでは宗教の社会的機能を検討しているので、科学とは別次元の話だという批判はご容赦願いたい)。

 このことは次のことを必然的に導く。これらの神はやはり人間が造ったもので、だから人間中心なのだ。そして、人間を超える生物の出現はもちろんのこと、その生存圏である地球や太陽系が形成され消滅する時間のスパンでは考慮されていない、そう言う意味で近視眼的な、つまり宇宙時間の中では期間限定的な神なのだ(天地創造や黙示録の記述はビッグバン物語を超えるものではないし、150億年の時間スケールを感じさせるものでもない)。また、そういう枠組みの中で初めて成立している思考が宗教なのだと言える。

 以上のことは、一神教ほどではないにしても、多神教である仏教にも、また神道を含めたその他の宗教全般にも当てはまる。確かに仏教などには広大無辺な時間空間論はあるが、孫悟空が釈迦の掌を超えることができなかったように、どこまで行っても人間の思考の掌中にある。宇宙は壊され再創造されてきたとする宗教も、人間を無視したものではない。やはり人間のための宗教なのだ。いや、人間に啓示された宗教が人間のためのものであることはむしろ至極自然なことであろう。


(2)

 では、現在の宗教的思考はどのくらいの時間スケールを前提としており、またどう有効なのであろうか。宗教的思考の発生は死を認識できた時だと言われる。現在わかっている死の発見者は、イラクで発掘された5万年前のネアンデルタール人だ。彼らは死者に花を手向けていたとされる。しかし現在の宗教に直接つながるものとは言えないだろう。やはり農耕文明が出現した以降に発生した宗教が現在の宗教の淵源であろう。とすると、ざっと1万年前と考えてよい。

 事実、三大宗教は農耕や牧畜を前提とした社会生活の中での宗教である。現在の産業社会での宗教もその延長にある。つまり、宗教とはたかだか「1万年の叡智」だということになる。ご不満な方のために、少し色をつけてみようか。サルと猿人が分かれたのが500万年前、原人が200〜100万年前、ネアンデルタール人の旧人や私たち新人が約20万年前頃の出現だ。十分に過大だが、「100−1」万年で「99万年の叡智」としてみよう。だが…。

 今から100万年後には間違いなく「新人類」が出現している。進化はDNAの違いであり、それは脳を含めた身体の構造や形質の違いとして現れる。そしてその身体の違いは精神の違いとなって発現する。思考が異なると考えてよい。当然、現在の宗教はそういう事態を想定できていない。さらに500万年後には、サルと人類の差ほど違う「スーパー人類」が出現する。億年の単位で言えば、哺乳類を超える生物群が出現するだろう。数十億年後には太陽系も消滅する。

 行き過ぎた。要するに、宗教は人間がそうであるように永遠のものではないということだ。だが、誤解してはならない。宗教が「1万年の叡智」、あるいはネアンデルタール人から数えて「5万年の叡智」だとしても、現在の私たちが社会生活で日常無意識に前提としている知識はせいぜい数百年、あるいはたった数十年のものだ。つまり、百年程度の人生ではとうていかなわない叡智が宗教であると言える。宗教のスパンは数万年であろうが、そのスパンで人間にとって有効であれば、十分に有用な思考なのである。


(3)

 宗教とは詰まるところ、社会生活を送る人間のための思考であると思われる。社会生活とは、孤島で生きるロビンソン・クルーソーを含めた、単なるヒトではなく「人間」として生きることだ。そこで人間は様々な出来事に悩み苦しみ、人生や世界の目的を求め、時には不幸をかこつ存在である。事実、世には理不尽が満ち満ちている。宗教の社会的機能は、そんな人間に秩序と目的を与えることだ。人格神である一神教はもちろんのこと、多神教でも神は人間と対話する。神はいつもいる、決して見のがさない、一方的で絶対的な他者である。

 旧約聖書にヨブという人物の物語がある。人並み以上に信仰心を持ったヨブに様々な不幸が襲いかかる。罪がないのに神が試練を与えるのだ。彼は自問自答を繰り返す。これは「なぜ私が。なぜ私の子どもが…」という不慮の事故や事件に巻き込まれた人々がいまも行なっていることである。不幸は「神からの試練」、つまり何か意味があるものとして受け止めることで初めて受容可能だ。そのような契機なくして、とうてい受け容れられるものではない。

 テイヤール・ド・シャルダンという思想家が、世界はキリストを最終目的にして、しだいに神に近づいていくという進化論を唱えた。これは進化論成立後の人間のための宗教的思考の精髄である。仏教の虚空蔵の思想(人はみな仏性を持つ)も、進化論ではないが、これに近いものがある。宇宙や世界、そして社会には秩序や目的、法則や意味があるというのが宗教的思考だ、それがたとえ神のその場限りのわがままであっても。排除されているのは無目的や無秩序だ。

 先に述べたように、自然はまさに人間を超えている。人間は何者かによっていつか超えて行かれる運命にある。つまり、人間は中心ではなく、人間にとってはだが、宇宙や世界は無目的であり無秩序なのだ(デタラメということではない。量子論の世界のように人間知には限界があり、人間は人間中心にしか認識できないということだ)。しかしそんな事実(例えば、太陽系の消滅)なぞ、人間にとっては実はナンセンスだ。私たちはせいぜい数万年のスパンで生きている存在にすぎないのだから。それでも自然世界の未知の解明は、私たち人間をますます不安で孤独で「無意味」な(重要ではない、特別なものではない)存在にしていくだろう。だからこそ、この事実を乗り越える思考装置が必要なのだ。


(4)

 現代人の孤独はそういう意味で宗教心の喪失にある、と言えるのではないか。宗教は1万年の間、人間を背後から支えてきた。私たちが宗教を手放し始めたのは百年ほど前からだろう。先ほどは「1万年の叡智」をさも短いように言ったが、百年と比べると百倍の長さである。宗教の放棄はたった「百年の蒙昧」なのである。宗教を語らずして、例えば現代日本社会の無軌道への変貌ぶりはいかに説明可能だろうか。見えない、証明できない宗教的思考の排除が現代社会の危機の根底にある。

 「宗教」という言葉に惑わされてはならない。宗教と宗派とは全く異なる。しばしば問題にされる新興宗教とは、正しくは新興「宗派」だ。宗教はいわゆるオカルトではない。宗教はむしろ合理的思考だ。人間のための、人間のためだけの思考が宗教の本質だ。人間なら誰でもが接し得る絶対他者が神や仏である。人間は穏やかな有神論者であることが幸いなのである。無神論者はラスコーリニコフの心を持たざるを得ない。人間はヒトではない。科学で解明できるヒトだと思うから、おかしくなるのだ。宗教は人間の自己制御装置である。

 異常な凶悪事件が起きると、いかなる心理でという個人心理学、次いで家庭や環境などを解明する社会心理学、最後は病理心理学や精神分析を動員して「病者」にしてしまってお終いだ。犯罪者は、理解者を持たないという意味で孤独である。「心の闇」や「精神病」という診断は、彼らを人間ではない理解不可能な「怪物」にして、それ以上の問いを社会的に封じ込めている。人間は現世や見える世界を超えたものである。宗教心の排除がそれを語らせなくしている。

 宗教の効用は、絶対他者がいて、現世ばかりか生前や死後にも責任を負って、私たち人間は一人ひとり生きているという思考回路を与えることである。あらゆる意味において、罪を「旅のかき捨て」にはできないと感じることだ。同時に、世間が認めぬ善を絶対他者だけは見ていてくれるという信仰である。詰まるところ、宗教は各個人に責任と自信を見えない世界から与えていることになる。様々な宗派の教義が宗教ではない。それらを通して各人が責任と自信をもって、社会で生きていける心理的基底が宗教心なのだ。

 「1万年の叡智」は捨てたものではない。現代社会において、宗教的思考は新たな任務を負っているのだ。日本人は一度捨てた日本宗教を見直さなければならない(日本人の宗教はいわゆる神道ではない。日本的仏教を含めた、言わば「日本教」だ)。人間は現世だけでは生きていけない、そういう精神構造を持った存在なのである。そしてそれが宗教を必然的に生み出した。科学の名を借りた「現世至上主義」が日本社会、つまり日本人を不幸にしている。今こそ、限界を見極めた人間中心主義、人間の精神の真実に基づいた宗教と科学を打ち立てようではないか。


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