人質の切り開いたもの 
04年05月05日
 鈴木敏広


 最近イラクで人質になった人たちに対して、「勝手に危険な場所に行って周りに迷惑をかけてた。それを顧みずまた行きたいなどけしからん」という論調が自己責任論として出ている。

 私は一般論として、自分の行動には責任を取れという言い方は常識的なものと思うが、今回の5人の人達の行動に他者に恥じるような無責任な点があったのだろうか。社会状況の把握からも5人の人質の方々に日本人が求めるべき謝罪(罪性)の要素があったのだろうか、大いに疑問と見る。

 まず、危険な行動に際しては、そういう蓋然性の予感を超えて踏み込むかどうか考える余地があるが、そこに介在するのが社会的目的意識というものである。その目的に照らして個々の行動や個人の判断は評価や批判されなければならない。悪天候をおして軽装で山登りに行く者が遭難すれば彼らは救助に駆けつけた人に謝るべきだろう。彼らの山登りに社会的な目的は認められないためである。

 この点彼ら人質の方達の行為はイラク人の孤児を訪問したり、劣化ウラン弾の被害実態を確かめ日本人に知らせようとしたり、イラク戦争の実体を報道しようとするという正当な社会性を持った行動であった。彼らはその行動の価値に対してどのようにも責任を放棄してはいない。ここで他人が彼らの結果責任を指摘しようとするなら、彼らの目的や他にありえた手段を同時に議論し、日本人の誰もがそれをなさなかった時の事も比較して議論すべきだろう。彼らはイラクと日本の為に何も為そうとしなかったのか。イラク人と日本人の心に何も運ぼうとしなかったのか。


 次に考えるべき点は、そういう社会的目的意識が行動に移される場合の切迫さ、切実さを他人がどう評価できるのかという問題である。

 これは先の目的意識とも関係が深いのであるが、社会的な目的を理解できる者のうち行動に移ることのできるのはほんの一握りの人たちである。この「理解できる」ということと「行動に移せる」とでは天と地の違いがあり、まして現場は命掛けである。どういう契機かは分からないが、彼らは居ても立っても居られず現地に赴いたのであろう。

 イラク人は国際社会の長年の経済封鎖で物資の流通や医療・教育が崩壊し、そのためにすでに100万人が命を落としたといわれている。そこで連合軍の無差別な(報道されない無数の攻撃を考慮しているが)攻撃にさらされているという切実な状況があることに対して、彼らは自らの身の危険を冒して赴いた。こういう時の個人の切実さを他人が裁くとしたら、その裁く人はどういう立場に立って裁こうとしているのかを開陳すべきである。彼らのイラク入りや拘束によって、そのために同じような身の危険を蒙ったという経験があるなら、彼らに向って謝罪を要求すればいいだろう。そういう切実な問題に直面してもいない者が、国家が捜索費用を支出したくらいで、彼らを罵倒するという事の中には、暗い市民主義を認めないわけにはいかない。(彼らに向って還付請求する権利を市民はあまねく持って当たり前だという権利意識である)


思うに、「居ても立っても居られない」という切実な思いはおそらく個人の「選択」の外からやって来て人をさらっていくものである。ファルージャの人たちが仮に肉親の無残な死を何度も見てきているなら、銃を取ったり連合軍に加担している国の人間を拉致しようとする行為も、そういう居ても立ってもいられなかった為のものであろう。

 非難される点に「もっと多くの事に考慮し慎重な行動を取るべきだ」という常識を持ち出す人も多い。これにも人間の計らいの前に情念が先立っていることを抜きにして現場を批評することのむなしさを覚えないわけにいかない。結局、彼らもイラク人も皆歴史に翻弄され、歴史にゆさぶられてそこに生きている。

 止むに止まれずそこに赴き、ボランティアなったり、誘拐グループの一員となったりしている。そして結果人質になった彼らが助かるかどうかは、誘拐グループやその精神的指導層の下に委ねられるという他力本願の世界に入らざるを得なかった。家族も全世界に向って体裁もなく、すがりつきたい思いを吐露せざるをえなかったのだろう(たとえそれが次元の違う政治要求に見られても)

 思えばこういう他力にしか依存できないことは、自己責任論という一見正当な問題整理を超えて逆に人の心を打つ。そして彼ら人質が解放されたのは、彼らの誰かが言っていたような日本の歴史に救われたというよりも、彼ら人質達の行動がそもそもイラクの困窮している(人の他力に依存するしかない)状況に「居ても立っても居られなかった」という立場を共有してくれていると認められた為だろう。

 こういう他力へすがるという思いは、なけなしの人間として最後の態度である。こういう最後の姿を共有できたため、同じ地平に立ち、結局解放に向えたばかりでなく、また行きたいという意志を表明できたのだろう。


 加えるに人質となった彼らへのバッシングに欠けているものは、結果責任論ならぬ成果の評価である。

 そもそも「自己責任論」の言う国家・社会にあたえた負の責任とは何か。彼らの拘束で、救出に関わる事務や経費や周りの心労総体を多くの国民が蒙ったという一種の平等観が市民主義的な誇張であることは指摘した。

 また、彼らは自分の危険行為を反省もしないで国による救出を当然のように受け入れてしまったという非難も、人道支援に赴いた人間をその国家が保護に動くという公務の内部の出来事で、首相側近以外で不平を表明した公務員がいたのだろうか。

(公務員がする福祉政策や教員がする生活指導でも、困難な問題に直面させられたからと言って、相手からの感謝や謝罪の言葉など期待するべきではない。どうそれを受け止めるかは本人の問題である)彼ら人質の方々はおそらく国家に甘えているのではなく、国家の意志の範囲を超えようとしているのである。それを見ようとしない人達にはとんでもない出来事としか写らないのかも知れない。

 逆に、彼ら5人が自衛隊派遣の国家方針に逆行しているとか、政府の危険地帯宣言を無視したという批判は、規則や政府の思想に「平等に従うべきだ」という平板な平等主義を、国家第一主義のもとで発露しているだけのように思われる。こういう国家主義がイラクでどういう成果を挙げつつあるのか。見えてくるのは自衛隊の海外派兵の実績や政府広報のような給水ブロマイド写真くらいではないのか。(月刊「現代」5月号立花隆氏の記事参照)

 逆に、人質たちの止むに止まれない入国が、ぎりぎりのところでイラクの人(同じくぎりぎりの状況で)の共感を得ることができたということは、彼らのしようとした支援が誰にでも出来る事でない妙なる事である証である。それが武装グループにも理解されたことは日本人として一様に誇る事の出来るものであった事を思うべきである。

 危険だから行くな、自衛隊派遣の邪魔をするなという一律の価値観が、イラク人の心をつかむ事になるのだろうか。資金も組織もない彼らの活動を「見上げたもの」と軽くいいながら結果責任をあげつらうのも、また「大した行動ではない」と揶揄するのもおそらく正当な評価ではないだろう。

 なぜ彼らが生きて帰ってこられたか。政府が具体的な何かをしたから解放されたのではないだろう。逆に政府の不撤退表明は人質を窮地に立たせた。人質達が帰ってこられたのは他でもない。イラクの悲惨な状況に、彼らが選択した「他力に頼む心に応える行為」がその行く先と帰り道を開いたのである。

 注意すべきはその背景には他人に依存して生きるしかないイラクの子供達の現状や、自分を過剰に防衛しない支援者の「他力を信頼する姿」や「居ても立っても居られない」という相互の受動の相がそこにあったという点である。仮に彼らが無抵抗に死んで帰ってきたとしても、それでイラク人からする日本人の評価は下がりはしなかったろう。これが彼らの為した成果である。

 彼らが持ち帰ってくれたもうひとつの成果は、相手を信頼し心を開いて支援すれば、丸腰の人間の方でも結局安全なんだという憲法9条の精神に通じる結果である。これは不戦精神という稀な憲法を持つ日本人全体が注目しなければならないことである。このような見方を国家レベルに拡張できるかについて断定をするつもりはないが(注)、十分に検証すべき事案であろう。


 これらの視点(社会的目的・切実な思い・相互に依存し合うしかない現実・イラクに残した成果と持ち帰った成果)からみるならば、彼らは国民に謝るべきなのだろうか、国民は彼らに謝罪や賠償を求めるべきなのだろうか。

 そして肉親を心配するあまりの親族の失言(私は正確に知らないが)がどれほどの問題であろうか。親族もその一員の為に最大限自己責任を果たしていたと私は感じている。社会に遠慮して要求通りの(憲法違反の疑いさえある)自衛隊撤退をそのとき訴えられなかったら、一生悔やむに違いない。良い家族であったに過ぎないのではないかと私は思う。


 ところで、本来この件の解決は人質と自衛隊の撤退という交換関係にはなかった。なぜならそれは人の命というものと国家の政策というが異質だからである。(もちろんこういう理不尽な交換が戦争の現実であり、戦地でこういう戦術があることは不思議ではないのだが、理論的には理不尽である。)

 人質の人たちから見ても自分たちの命の引き換えに自衛隊撤退が実現してもしなくても、その事と彼らの目的は異なるため進展とは言えなかったろう。

 むしろ人質の命と国家政策というこの異質なものに橋を掛ける可能性は、人質になった人達の社会的目的と切実さのうちにあったのではないか。

 即ち小泉首相はこう言うべきだったと思う。

 「人質の命と自衛隊の駐留を交換しろというのはおかしい。しかし彼らの目的はイラク人のために役に立つはずで、国家として支援することにした。またそのほうが自衛隊の活動より意味があると言うならばその成果は日本国の目的(復興支援)とも合致するので、自衛隊は撤退させる。」

 「また今後アメリカの戦後処置とは独立の立場で活動するし、イラクの人の希望を最優先に活動をすることにしたい。ついては必要な人的支援要求をもっと揚げてほしい。今後は武装も護衛もない人的支援を大規模に行う用意があるが、そのかわり彼らの安全を保障してもらう必要がある。これは日本国としての切実な願いである」

 まだ間に合う。今方針を展開しないと日本人はアメリカと一緒に地獄の門をくぐる事になりかねない。この事をよく見極めないと私達は憲法改正議論にも易々組することはできないだろうと思う。


(注 憲法9条について
  蛇足ながら、私は単に武装とか非武装とかいう定義自体の曖昧な二者択一論に出口はないと思うが故に今程度の軍事組織は認めたい。ただし不戦を担保する必要条件はむしろ隣国への支援と友好の実践ではないかと考えるものである。支援と友好の実践の無いところにどうのような武装・非武装論も危ういであろう。そのためにも自衛戦を除いた「国際紛争を解決する為の武装や戦闘の禁止」の精神は捨てるべきではないと思う。この意味で9条の精神を強調したい。

  しかし先の支援・友好の活動も恒久平和への十分条件かといわれれば、日本に核弾頭を向けている被支援国家がある以上、疑問の余地が残る。ただそもそも国を守るべきか人間を守るべきかという検討もしないまま国家防衛論だけで全てを片付けようとする議論は早く終了させないと根底の解決はないのではないだろうか。むしろ本質は人間を守るとはどういうことなのかにある。これの答えに平和への十分条件は隠されているように思う。それに宗教家はどう立ち向かうのか、それをレルネットに期待したいところである。)


戻る