「いのち」とは「めい」 

 99..01/25
 ふるさわすみこ, 北海道大学


仏教にしろキリスト教にしろそんなに詳しくしらないので学問的なことはいえないのだが、確かに人間というのは年をとるにつれて個人差がはっきりと出てくる。同じ年齢なのに、生気が枯れている人、若者のように瑞々しい人、生に執着する人、迎えがくる日を待ちわびることができる人。 

私は結構列車をのりまわすので、そこでいろいろな人に出会いたいていが70かそこらのおじいさんであったりする。家族のことや友達のことや、初対面でそんな事いわないよな、ということをきいたりすることもある。その人の人生が垣間見える時だ。人生の荒海を乗り切って磨き上げられた人は美しく輝いていて、そんな時、私は年齢とは単に肉体的なものではなく、「魂」の年齢なのだと思う。私には、彼らが肉体的に確かに衰えていることを除けば、守ってやらなければならない弱い存在だとは思わない。むしろ、その知恵と経験を大いに生かし、自らを磨いてくれる人生の師として敬まうべきであると思う。崇め奉るのではなく、友として家族として普通に付き合えばいいのだ。 

日本人だけなのかは知らないが、年功序列の横わり的な礼節は、時として単に寂しさを与えるだけに思う。だいたいにおいて、自分が年寄りだと思っている老人のほうが少ないのだから。自分の生きる意味を知って、自分が成すべき事を見失わない人は、老いてなお若い。年を経るごとに逆に若返っていく。 

生物学的なことをいえば肉体はある一定以上になると、自分で自分の体を攻撃し始める。その為に体は少しずつ衰えていく。だが、鍛練をすれば老化は防ぐことができる。鍛練を欠けば、肉体は年齢と無関係にどんどん衰えていく。精神についてもあるいは同じ事がいえるのだろう。人の心は、黙っていれば下へ下へ楽なほうへと流されていく。それに打ち勝つよう努力し鍛練していけば、磨かれ美しくなっていく。逆に鍛練を怠れば、どんどん擦れ枯れていく。それは、肉体的な年齢とはあまり関係がないような気がする。 

一つに、私は少なくとも中学のときには、自分が「若年寄り」であると感じていたということがある。考え方や感性がいわゆる若者とは異なっていたし、同じ年齢でありつつ「いやあ、若いねえ。」と思うことが多かった。学校を出たら山にでもこもって、人生とは何かを見つけ、自分を鍛えたいと思った。ファッションや恋愛にも興味はなかった。ところが今では小学生や中学生と遊ぶほうが、同年代に混じってうろつくより楽しいと思う。 

今の社会は、あまりにも肉体的な年齢を気にしすぎて、その中に収まれている人格とか個性とか能力とかを無視しすぎている気がする。子供は弱いもの、老人は弱いもの、だから守らなくてはいけない。「魂」を無視して、こうしたらいいああしたらいいと論議しあう。なんとなく面白くない。一人一人が自分のできることをして、出来ないことは出来る人が補えばいい。ただ、それだけのことだ。 

人の生死はすべて天から、神から与えられたものだ。「いのち」とは「めい」。すなわち、神の「命令」であって自分の「使命」である。だから、どんな立場のものも「いのち」ある限り絶対に宇宙に必要とされる一つの歯車であって、存在そのものが大切なのだ。重要なのだ。

 話が変わって申し訳ないのだが、最近、教育問題について一日近くテレビで放送し議論していたことがある。教育制度の改革。教育方針の改革。そうした中に、「企業にとって役に立つ教育、人材育成」ということがいわれていた。とんでもない話である。人間は、企業のために生まれてくるロボットではない。断じてない。そんな考え方が政治を動かしている人々の間にはびこっているとしたら、恐ろしいことだ。

どう教育するかを考える前に、「生きる」とは何かを考えるべきである。なぜ「いのち」があるのか。どうして生きているのか。その人が本当にその人らしく充実した人生を送れるように「生きる」事と、本当に生きていく為の方法の一つを教えるのが教育ではないのか? 

老若男女を問わず、今人生のあり方を命を振り返り見つめるときではなかろうか。そうして、己の生き様をもって未来に示すべきなのだ。そうなければ「老いを生きる」どころの話ではなく、「人間」が差別用語と化す日が訪れるかもしれない。

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