「異形」として近代「日本」---日本の「公私」混同
99年 3月4日
萬 遜樹 E-mail:mansonge@geocities.co.jp
(一)
明治維新は日本史の画期である。しかしこれは政治史だけの問題ではない。日本人にとって、もっと根の深い、深刻な事件であった。
このとき、神仏分離が行なわれた。その行なわれたことに従い、排仏棄釈とも言う。それまで、神のような仏、仏のような神としてあがめられ、神宮寺として同居してきた「仏」や「菩薩」などが、神社から追放されたのだ。
そして明治政府は、追いつくべき欧米社会にならい、「信仰の自由」を掲げ「政教分離」の上で、「神道」を日本政治の礎に据えた。誤解のないように言っておくが、神道は「国教」ではなかったし(法的に「異教派」や「異教徒」が排除されたわけではない)、国家が宗教の上に築かれるのは、いまの米合衆国を見ても明らかなように別におかしなことではない。
しかしこれによって、日本人の信仰は断ち切られ、精神の中でねじれが生じざるを得なくなった。それまで、日本人の信仰は決して「神道」ではなく、神道でもあり仏教でもあり、また道教でもあり儒教でもあり、そしてそれらのいずれでもなかった。それらの渾然一体となった複合こそが日本人の信仰であった。さらに言えば、それは明治に移入された「宗教」というものではなく、それ以前の名づけにくい民俗的な信仰であった。
それを明治政府は「神仏分離」して「神道」を無理やり抽出し、またそれを「宗教」とした。「神道」から排除されたものは仏教ばかりではなく、道教なども同様であった(たとえば、仏教-道教系「牛頭天王」を祀る祇園社から、神道の神スサノヲを祀る八坂神社への転身などがある)。この「神道」の「宗教」化のあおりを受け、日本仏教も「宗教」となった。また幕末期に勃興した新神道各派も「宗教」団体となった。
(二)
宗教問題を採り挙げて述べているが、これは明治維新の本当の意味を見極めるための傍証として引いている。明治維新とはそれまでの「ニッポン」を断ち切り、「日本」とした「隠蔽」なのである。このときに、日本は「日本」となったのである。それまでの日本は、上記信仰と同じように、雑多な複合体でしかなかった。「幕府」は「政府」と同じように見えるが、実は「日本人の信仰」と「宗教」ほどの違いがある。 (「ニッポン」とは何か。日本人の基層であり、かつ「日本」ではないものだ。「国家」は欧米近代概念である。「国家」以前の「ニッポン」がそれである。統一できぬ日本の裸形こそ、ニッポンであろう。明治維新とは「統一」を前提にした虚構である。それまでの不統一を「不完全」と切り捨てる思考こそが、欧米近代概念に従う「国家」となることだった。これは同時にそれまでの「ニッポン」を隠蔽する魔術であった。)
日本人の信仰はほとんど無意識的なものである。しかし「宗教」は意識的なものである。宗教は意識的な選択の上に成り立っている。日本人が「宗教」を選択することの難しさがここにある。これと同じことが日本の「政治」でも起こっている。明治以降の政治は、少数の特別な人々が関わるものなのである。
江戸時代と同じではないか、という反問があるだろう。形の上ではそうである。しかしその意味は全く違う。それを説明しなければならないのであるが、ここで「隠蔽」である。明治維新が何を隠したのかと言うと、「日本」以前の「ニッポン」全部であるが(たとえば「天皇制」もそうである。ただし、これについて語るにはまだ時期尚早である)、政治で言うと「公」や「官」の出自である。明治維新の文明開化は、うまい具合に欧米の「パブリック」を「公」と訳した。しかし「パブリック」と「公」はまるで違うものである。「神道」を「宗教」としたときと同じ手口で、それはすり替えられている。
概念や言葉は社会の中で生まれる。よって、社会が違う所ではその概念や言葉が同じではないことは道理なのである。にもかかわらず、日本人は欧米産の概念や言葉を使ってきたし、現に使っている。それは、日本人がいわば上半身と下半身に引き裂かれて生きているということだ。精神の表層と深層の使い分け、心と体の分裂…、いくらでも言い様はあるが、ホンネとタテマエもこのバリエーションだろう。 気づいてはいけない「ねじれ」として「公私」の混同がある。そしてそれはほとんど取り返し難いものである。日本人の信仰がもう取り戻しようがないように。
(三)
「公園」から再び始めよう。日本の「公」園は「パーク」ではない。管理する自治体など「官」の「私」物である。しかし欧米ではそうではない。「パブリック」とは「プライベート」が出会う場であり、「プライベート」のために「プライベート」が作ったものが「パブリック」である。「私のための公」であり、「社会契約」によって「私」が多数で人為的に作り出したものが「公」なのである。公園から始まり、政府までそうである。「宗教」同様、意識的な人為性が明白である。
実は「政府」や「国家」(すなわち「官」)とは、そもそも私的権力である。ルイ14世やナポレオンを思い浮かべればよい。帝政や王政、君主制とはそういうものだ。そこで、「私」多数でもう一度作り直したものが「公」としての「政府」である。ある「私」権力が「公」権力になることを「私」多数が容認する社会契約である。これが民主制であり立憲王政である。
日本、いや東洋ではどうか。同様に国家は私的権力である。歴代中国王朝が私産国家であったことにも明らかである。日本の朝廷も、その後の幕府も同じだ。残してきた問いに進もう。江戸幕府は明らかな私権力であった。また、藩政も私的なものであった。しかしこれを彼らは「公儀」と称した。なぜか。東洋では「公」とは「為政者」「支配側」を意味する言葉だからだ。強大な「私」が「公」と称するのだ。それに対し「私」とは「非為政者」「非支配側」を意味する言葉だ。(これは恣意的な解釈ではない。)
明治政府はどうであったか。私権力であった。これ自体はおかしなことではない。既述の通り、あらゆる国家は私権力である。しかしこれを「社会契約」なしに「パブリック」としての「公」と僭称したのだ。「公」は「パブリック」とは違う。単なる専断的な私権力がその出自なのである。これを隠したのだ、欧米産の「パブリック」で。ここにねじれがある(この甚大な影響を「神仏分離」同様、明治政府は予測できなかった)。
その後、確かに「社会契約」は国会開設や参政権の拡大など、制度の上では行なわれてきた。しかしついぞ「公」が「パブリック」となったことはない。公園はいつまで経っても「公」園のままだ。「パブリック」を僭称する「公」は「公のための公」となる。これは「私のための私」の裏返しであり、「官」が私権力として専断的に「民」を支配することを意味する。
このねじれは現代日本社会全体に蔓延している。たとえば、会社が「私」人にとっては「公」である。こんなものは徹底的に「私」企業にすぎない。しかし強大な「私」は「公」となるのだ。一つの「為政者」であることは認めてよい。しかし「パブリック」ではないはずだ。それを「パブリック」と自他ともに錯覚している。これがねじれである。自覚なしの、言葉頼みの「公=パブリック」論が問題なのである。
ねじれは日本人から本当の言葉を奪う。日本人の信仰は「宗教」ではない。しかし、では何と呼べばよいかわからぬように。そのようにして「政府」=「公」=「官」を批判する言葉をもてないのである。形の上では確かに「社会契約」は行なわれてはいるのだが、「社会契約」をしているつもりは「私」や「民」にはさらさらないのである。
(四)
日本の運命について述べよう。「宗教」はどうなったか。「宗教」は不人気である。しかし「無宗教」を自称する日本人は、実は無信仰ではない。下半身には、精神の深層には、日本人の信仰をもっている。しかしこれを「宗教」として言挙げできない。「宗教」ではないからだ。
同様に「政治」も、ほとんどの日本人にとっては縁遠い。「宗教」同様、少数の人々が関わるものだ。しかしそれは「パブリック」としての「政治」に対してだ。むかしながらの私権力としての「公」に対しては常に批判的だ。その一方では「私」や「民」は、大いなる権力「公」や「官」に手出しできぬものとして諦めている。
要するに、下半身においては「宗教」も「政治」も江戸時代と少しも変わっていないのだ。問題は、この上半身と下半身のねじれであり、分裂である。ねじれを正すことだ。自分たちの信仰も「宗教」の一つであることを自他ともに認めること認めさせること、また政治とは私権力によって行なわれるものであり、その私権力を選ぶのが「政治」であり「公」の意味であることを自他ともに認識することである(そういう意味で「党派性」こそ正しい)。
欧米産の概念や言葉を鵜呑みにして日本の社会を「遅れている」ものとして「進歩」させるのではなく、もう一つの「異形」として近代「日本」を歩みことである。しかし残念ながらそれでも、失われた「ニッポン」はもう返らない。
(注)「公」「私」の解釈については、白川静氏の『字統』(平凡社)に拠った。
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