「天皇」の誕生
1999.4.7
萬遜樹 E-mail:mansonge@geocities.co.jp


「天皇」は総合的な主題である。一度にすべてを語ることはできない。ここでは、「天皇」号の成立を中心に考えてみたい。

周知の通り、「天皇」(すめらみこと、てんのう)という呼称は歴史的な産物である。そう呼ばれる前は「大王」(おおきみ)と呼ばれる時代が長くあった。「大王」とは何か。王の中の王、すなわち帝王である。圧倒的な権力を誇る君主にこそ、帝王や大王という名がふさわしい。 

『宋書・倭国伝』に「倭の五王」として登場する、五世紀の讃・珍・済・興・武(通説では、仁徳・反正・允恭・安康・雄略天皇。一説に、讃を応神、珍を仁徳にあてる)たちこそ、大王であろう。自ら甲冑を着け、戦場で采配を振る者こそ、大王である。 それに対して、「天皇」はどうであろう。第一に聖なる権力者ではないだろうか。世俗を超越した処に立たれるお方こそ、「天皇」という名にふさわしいのではあるまいか。血にまみれた戦場に、自ら立たれることなぞ、あまり好ましいことのようには思われない。 しかしながら、血にまみれた戦場に立たれたお方によって、「天皇」という名は始められた。大海人皇子、のちの天武天皇である。ところが、天武朝はなかなか複雑な位置にある。先帝・天智の嫡子、大友皇子と「壬申の乱」を戦い、勝ち取った政権であるが、ことはそう単純な話ではない。 

一つは、嫡系か兄弟か、すなわち皇位継承の問題である。二つには、豪族たちからの権力奪回の仕方の問題である。まず、皇位継承の問題であるが、記紀によれば、初代神武帝から第十四代仲哀帝までは明確に父子相承である。そしてその実在がはっきりする第十五代応神帝以降は兄弟相承が基本となっている。 

その流れで天武朝を見ると、壬申の乱とは嫡系相承か兄弟相承かを賭けた戦いであったことがわかる。勝者は兄弟相承であったが、これ以後は嫡系相承に復するのである。持統天皇がカギである。持統帝は天武帝の皇后であったが、同時に天智帝の皇女でもあったのだ。

(系図) 


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 ※ 草壁は皇太子のまま逝去。太字は男帝。数字は代数。

兄弟相承とは同世代内の大王適任者数名が皇位を継承したのち、次世代に皇位を譲るシステムだ。この継承法のメリットは時々の最適任者が大王となることができることであるが、これはどういう意味であろうか。それは「親政」主義(「代行」主義に対する)である。たとえば幼帝はあり得ない。(女帝の問題があるが、これは最適任者が何らかの理由で絞り切れない場合の「中継」策である。さらなる説明が必要であろうが、本題から離れるのでここではこれにとどめておく。) 二つ目の、豪族たちからの権力奪回の問題であるが、周知の通り天皇家は、聖徳太子以来、蘇我氏を始めとする豪族たちからの実権奪回に努めてきた。ついに大化改新で最後の豪族・蘇我本家を討ち、権力は天皇家に帰した。そして豪族に替えて、天皇家の官僚制が創設される。律令制である。

実はこの律令制の採用と「天皇」号はセットである。あいまいな「大王」の地位が、律令に基づく「天皇」として位置づけ直されるのである。さらに言えば、「天皇」の身分と由来を証明するものが『古事記』と『日本書紀』であった。(紀記の「神代巻」には、皇祖天照大神の誕生、その天孫が降臨して日本を統治することになったこと、それまでの国造りの神たちが統治権を譲り渡したことなどが語られ、ついに現人神=人皇として神武天皇が現れる。なお、国造りの神たちとは「国つ神」であるが、これは豪族たちの祖神である。) 「大王」は「天皇」となることによって、「諸王(豪族たち)の中の王」なぞではなく、彼らには絶対に追いつけない高みに登られたのだ。しかし「現人神」になることは、人が行なう政治から遠ざかることでもあった。 

中国の唐の高宗は「天皇」と称した。その没後、皇后の則天武后はさらに「天皇大帝」と諡(おくりな)した。天皇大帝とは天帝のことで、道教では北辰(不動の北極星)と解されている。天武帝は、この「天皇」を日本の皇帝の名に定めたのだ。 『万葉集』の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」(柿本人麻呂)は持統帝を讃えた歌であるが、「大君は神にしませば」の句は天武朝から始まる歌い出しだ。ここに大君(大王)を「神」とする思想が明確に盛られている。 

天武天皇は「八色の姓」の位階を定められたが、その最高位「真人」は天武帝の諡にも含まれる語である。それは道教の神仙上級者を示す言葉なのである。神仙とは何か。神人であり、神になった人(明神)のことである。実は、現人神はその逆で、人になった神を言う。日本の古代思考は道教の「明神」を「現人神」に変換したのである。 

天武・持統朝がいかに中国の思考を受け容れていたかがわかる証拠に、伊勢神宮の名について一言しておこう。伊勢神宮は単に「神宮」というのが正式な名であるが、この「神宮」とは中国の周王朝の始祖を祀った廟の名なのである。そして、天皇家の始祖・天照大神を祀った社が伊勢「神宮」なのである。 

とまれ、天武帝は「大王」として戦い抜いて勝利し、神である「天皇」となられたのである。しかしこうした帝は彼が最後であった。それからは「天皇」は神として祭り上げられ、実権者としては空洞化していく。日本は官僚貴族が支配する国となっていく。そのあたりのことを少しだけ述べて、本稿を結びたい。 

いまも万世一系の嫡系相承が誇りをもって語られるように、持統天皇以降、嫡系相承が常範となる。それは権力者としては形骸化する危険を冒すことであった。事実、平安期に入ると幼帝が現れるようになる。また、神となった天皇は律令制下、神祇官と太政官をしもべとするが、神祇官の頂点に立たせられるような格好で天皇祭祀に向かわせられ、政治は専ら太政官が「代行」する形となってしまう。(天皇の祭祀と大王の祭祀とは違う。紀記以来の「古典神道」は天皇祭祀系の所産である。天つ神と国つ神の区別もこのとき作られた。伊勢神宮と出雲大社もそうして生み出された。そればかりではなく、神々の系譜のつけかえがなされた。その最大のものが三輪山の神が大物主=大国主となったことだ。) 

こうして天皇の「絶対化」は「神への祭り上げ」として完成するのである。これは言うなれば「象徴天皇制」である。大王が去勢されて天皇が誕生したのである。実に、現在の象徴天皇制は一千年以上の歴史をもつ日本の「伝統」なのである。そしてその間変わらなかったのは「代官」としての官僚たちの専権であった(将軍も「征夷大将軍」という天皇の代官である)。

[主な典拠文献] 福永光司「古代信仰と道教」(『神と人』大阪書籍 所収)


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