「国つ神」葛城の神の没落
1999.4.14
萬遜樹 E-mail:mansonge@geocities.co.jp
▼社会革命と宗教改革
大きな「革命」には「宗教改革」が付き物であるらしい。ヨーロッパの話ではない。わが日本の話である。日本の歴史を背骨のように貫いているものに「天皇制」があるが、この一千年以上の連なりをもつ長い脊柱を眺めると、大きな節目が二つある。
一つは、氏姓制下での豪族的「大王」が律令制下での絶対的「天皇」となった七世紀後半から八世紀前半にかけての時期(大化改新、大宝律令施行、平城京遷都、記紀成立などが含まれる)である。もう一つは、一千年続いた律令的天皇制が近代法に基づく立憲的天皇制となった明治期である。
前者には記紀の成立つまり「古典神道」の成立が、後者には廃仏棄釈などを含む「国家神道」の成立が伴っている。これらは「宗教改革」と呼んでよいほどの大変革であった。実に、何かの「成立」とは、他の何かを残酷なまでに切り捨てたり貶めたりすることであった。
「宗教改革」とは、ある種の「合理主義」である。明治期の「宗教改革」では廃仏毀釈だけが有名であるが、それ以上の暴挙をこの機会に指弾しておきたい。「神社統廃合令」である。明治39年の内務省通牒という一片の文書によって、日本全国の数万社が消滅した。
その中では「稲八金天神社」なる珍妙な神社も現れた。稲荷、八幡、金刀比羅、天神の統合社である。由緒がはっきりしない鎮守の社が廃されて、より由緒正しき(?)神社に統合されていったが、社数の多い上記四社も相互に統合された。これらによってどれほどの日本人が産土神を失ったことか。
「廃仏毀釈」に続く、まさに「廃神毀社」であったが、南方熊楠が環境破壊として糾弾しているように、これは同時に森の喪失でもあった。いまや定説化しつつある「賢明な明治時代」という評ははなはだ疑わしい。日本と日本人を「殺した」のはむしろ明治時代ではなかったか。
▼古代の「宗教改革」の目的と標的
さて、急いで古代へとさかのぼろう。古代の「宗教改革」もなかなかむごたらしい。現代の私たちにはすでに捉えがたいが、明治期以上に日本人にとって重要な何かが失われることによって「古典神道」が成立したに違いない。
古代の「宗教改革」の目的の一つは、天皇家と藤原氏に連なる神々を「天つ神」、豪族に連なる神々を「国つ神」に系譜づけることであった。それぞれの首領神が「天照大神」と「大国主神」である。ここでは「国つ神」の代表として葛城氏の神の末路を取り上げたい。
葛城氏は、大王(のちの「天皇」)家確立後、葛城「臣」となるが、かつては大王家に対抗できる最大の豪族、あるいはもう一つの「大王家」であった。紀記編纂に当たり、過去のこととは言えども葛城氏の真実を明かすことは、天皇家がかつては一豪族であったことを傍証してしまう危険も孕まれていた。
そういう意味で、この「宗教改革」の中で徹底的に破壊されなければならなかった標的の第一が葛城氏の神であったと言ってよい。律令制の「新秩序」に移行していく直前の時点での最大豪族は、言うまでもなく蘇我氏であったが、実はその蘇我氏も葛城氏の傍流の出であり、いにしえの葛城氏本家を羨望し、自身の政治モデルとしていた。
葛城氏の元祖・武内宿禰の系図に蘇我氏をつけ加えた(あるいは、そうするために「武内宿禰」を造形した)のは、蘇我氏自身である。そしてさらに、その蘇我氏の政治をモデルにしたのが中臣氏改め藤原氏だった。記紀の神統譜作りの目的は、前述の通り、天皇家と藤原氏のためであった。ここに、古代の「革命」と「宗教改革」の担い手・藤原氏による、葛城氏(同時に蘇我氏)の神への徹底した攻撃と簒奪が始まる。
▼大和最高の霊地・葛城
葛城氏の故地は奈良盆地南西部(現御所市周辺)である。大王家の御諸・三輪山麓とは、盆地を介して東西ににらみ合うような位置にある。もう一つの「御諸」葛城山とは北嶺(現葛城山)と南嶺(現金剛山)から成るが、この山麓には『延喜式・神名帳』が定める最高の社格を持つ神社が五社ある。これと同格の神社は、「大和」全域でたった七社、うち大神(おおみわ)神社など四社が三輪山麓にあり、その他の地にあとの三社がある。この数は葛城の地の威容を示すものである。
葛城の五社とは、鴨都味波八重事代主命神社(主神・ツミハヤエ事代主命)、葛城坐一言主神社(事代主命)、高天彦神社(タカミムスビ神)、高鴨阿治須岐託彦根命神社(アジスキタカヒコネ命)、葛城坐火雷神社(火雷大神)である。
このうち葛城氏にとって、大王家の三輪山の神(大物主神ではない)に当たるのは、アジスキタカヒコネ命神と事代主命神である。この二神は当然のことながら、初めから葛城氏によって祀られてきた神々だ。しかし記紀ではどうだろう。「根の国」系の首領神・大国主神の子神となっている。はるばる出雲からやって来た神々とされている。これが「国つ神」という待遇である。
実は、これと似たような処遇を受けた別の神がいる。吉野川流域に坐す大名持(オホナムチ)神である。この神の由緒はいまとなっては不明であるが、鎮座地からみると、水の神であったろうと思われる。この神は記紀では大国主神の分霊とされてしまっている。大国主神は多くの名を持つことで有名であるが、その一つに「オホナムヂ」がある。これが「オホナムチ」とよく似ているので、同体とされ、吉野の方が分霊とされた。しかし二神が別々の神々であることは言うまでもない。 この神はもともと相当高い神格をもつ神であった。というのも、『延喜式』(927年)に先立つ貞観元(859)年の一斉叙位では、大物主神や葛城の二神を差し置いて「大和第一位」に格付けられていた。おそらく大和最高の土地神・水神であったのだろう。それが「降格」され、由緒を奪われ、大国主神の分霊とされた。
▼葛城の「カモ」
葛城の神に戻ろう。葛城の五神であるが、「カモ」(鴨、賀茂)の名を持つ神が鴨都味波神社の事代主命神と高鴨神社のアジスキタカヒコネ命神である。この二社はそれぞれ「下ガモ社」「上(高)ガモ社」と通称され、「上・かみ」「下・しも」の対になっている。「カモ」という地名は、今では京都の地名として有名であり、そこにも「上賀茂社」「下賀茂社」がある。
葛城の「カモ」は今では「元ガモ」とも言われるが、それはここにその名が由来することを示している。そもそも「カモ」とは、平野が深く山際に入り込んだ地形を指す名である。そしてもちろん名族・葛城氏と深く関わる名であった。この葛城の「カモ」の地に葛城氏の「高宮」があった。「高宮」とは武内宿禰の子・葛城襲津彦(ソツヒコ。400年前後に活躍)の本拠である。
つぎねふや 山城川を 宮上り 我が上れば 青土よし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ
我が 見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり(古事記五八、日本書紀五四) これは仁徳天皇の皇后・磐之(イワノ)姫の望郷歌であるが、イワノ姫とは他ならぬ葛城ソツヒコの娘である。歌意は、(難波から淀川、)木津川を上京し、北大和、中大和を過ぎて、早く見てみたいな、私の郷里である葛城の高宮を、というものである。少し寄り道をしなければならない。
▼「高宮」とは何か
高宮とは高い所にある宮=聖所である。ただし、古代のマツリゴトとは聖俗すべてに関わるものであった。高宮は「高城」(たかき)=高地の砦(高地性集落)でもあり、「国見」の場所でもあった。そしてそこは祭場であり、のちには居館や宮城が築かれ、さらに「古墳」ともなった。
高宮は「御諸(室)」である。すなわち、神の坐す所である。イワノ姫が歌った「葛城高宮」もそういう歴史を背負った丘であった。第二代・綏靖天皇の宮は「葛城高丘宮」であったと言う。これが史実かどうかは定かならぬが、そこがイワノ姫の歌った「葛城高宮」であり、葛城氏の聖なる丘(アクロポリス)=御諸(室)の一つであったことは間違いない。葛城坐一言主神社もこの丘に坐す。
実は葛城の地には、まだ二つの「高宮」あるいは「高城」が存在する。一つは葛城の北嶺の「忍海(おしぬみ)の高城」で、履中天皇の娘・飯豊(いいどよ)王女がいた角刺(つのさし)宮である。
大和辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮(日本書紀八四) と歌われている。イワノ姫の歌にも出てきた「見が欲し」(見たい)のフレーズは、『万葉集』では国讃め宮讃めの慣用句として多用されるようになる。この飯豊王女は、イワノ姫の子である履中天皇を父とする。またその母も葛城ソツヒコの孫である。要するに葛城本家直系の王女である。
いま一つの「御諸(室)の高城」は、先のイワノ姫の望郷歌のすぐあと、仁徳天皇がイワノ姫に贈られた歌の中に登場する。
御諸の その高城なる 大猪子(おおいこ)が原 大猪子が 腹にある 肝向ふ 心をだにか 相思はずあらむ(古事記六〇) 「御諸」と言えば、三輪山を連想するが、大和には「御諸」と呼ぶ山はいくつもある。これは葛城の御諸(室)である。いまの御所市に「宮山古墳」というものがあるが、これを一名「室の大墓」と言う。ここは古代に「秋津島」と呼ばれた地であった。「日本」のことを、「大和」と言うが、一名「秋津島」とも呼ぶ。これはこの葛城の地に由来する呼び名である。
『日本書紀』には神武天皇がこの付近で国見をされ、ここを「秋津島」と名付けられたとある。また第六代・孝安天皇の宮はずばり「室秋津島宮」だと言う。この宮が葛城の「御諸(室)の高城」である。ここは「カモ」の入り口に突き出た丘である。その奥に葛城氏の主神・高鴨の神、上賀茂のアジスキタカヒコネ命神が坐す(そしてここも「高宮=高城」であっただろう)。
ついでながら、このように葛城には少なくとも三つの「高宮」あるいは「高城」があったが、大王家の方はどうであったか。三輪山の頂上に「高宮神社」があるが、言うまでもなく三輪山も「御諸」であり、高城であり、国見の場であり、祭場であった。
▼「カモ」の簒奪
上術のように「カモ」とは葛城の聖地であった。この至高なる「カモ」の名が同様の地形を持つ京都北東部に簒奪された。京都の両賀茂社は賀茂氏の氏神とされるが、これは真実だろうか。祭神が怪しい。上賀茂社が賀茂別雷(かもわけいかずち)命神を祀り、下賀茂社が別雷命神の母である玉依姫(たまよりひめ)命と外祖父の賀茂建角身(かもたけつのみ)命の二神を祀る。
なぜ「子」と「母と外祖父」という組み合わせなのだろうか。結論から言うと、ここは藤原氏の社でなければならない。「カモ」の簒奪者は藤原氏である。「子」とは聖武天皇および孝謙天皇、「母」とは宮子夫人および光明皇后、「外祖父」とは藤原不比等である。すなわち、京都の両賀茂社とは、天皇家と藤原氏の緊密な関係をシンボライズしたものである。
ではなぜそれが「カモ」でなければならないのか。それは最高の「臣」が「カモ」の葛城氏であるからだ。その名のりは葛城氏のポジションを藤原氏が引き継いだことを宣言するものである。思惑どおり、平安期の摂関政治はこのモデルどおりに実現する。また、「賀茂祭」(葵祭)は最高の祭り(神祇官の「中祀」)として貴賎の別なく尊崇を受ける。
藤原氏の葛城氏への執着を示しておこう。不比等の娘・光明子を皇后にお立てになるときの聖武天皇(不比等の孫)の勅令(実質的に藤原氏が作成)で、光明子がイワノ姫になぞらえられているが、これは同時に父不比等をソツヒコに、鎌足を武内宿禰になぞらえたことに他ならない。
▼神の流刑
一般には葛城の神と言えば、「一言主神」が著名である。葛城坐一言主神社がそれであるが、その祭神は事代主命神である。また、葛城の下賀茂・鴨都味波神社の祭神も事代主命神である。葛城においては、アジスキタカヒコネ命神に並ぶ重要な神であることが知れる。事代主神は大国主命神の子で、「葦原の中つ国」で父をたすけて国政に当たり、国譲りを父にすすめたと言う。「国つ神」の主神の一神と言ってよい。
さて『古事記』には、雄略天皇がこの一言主神と出くわされる話がある。天皇はまず葛城山で猪と出会われる。そのときは木に逃げのぼられ、難を避けられた。この猪は言うまでもなく葛城の神である。大和武尊が伊吹山で白猪と出くわされ、それは「神そのもの」ではなく「使者」だと見誤られ、ついには死に至られた先例がある。雄略天皇は賢明にも「この猪は神そのものだ」と見抜かれた。
次に、雄略天皇が供の宮人たちを引き連れて葛城山を行幸されていたところ、向こうから天皇の行列そっくりの一団と出会う。双方が矢をつがえて一触即発の雰囲気になるが、相手がついに「私は葛城の一言主の大神だ」と名のられる。すると、天皇は畏れかしこまれ、武具や衣服をこの神に献上されたと言う。葛城の神とは天皇さえも畏れかしこまれねばならぬ神であった。
「一言主神」とはいかなる神か。「事代主神」は「言代主神」である。そしてその「言」とは神託に他ならない。つまり「一言主神=言代主神」であり、葛城の神が託宣する姿である。その本体は主神・アジスキタカヒコネ命神でしかあり得ない。
このエピソードの末尾には「一言主の大神はこの時はじめて出現された」とある。紀記の神統譜からはみ出した神であることが証されている。すなわち、葛城の神は別系譜の神である。ゆえに、アジスキタカヒコネ命神や事代主神が大国主神の子ではあり得ず、のちに造形されたものであることがわかる。
『日本書紀』にも同様の二話がある。しかしそこでは、猪は雄略天皇に踏み殺されるし、「一言主神」も天皇を畏れ敬っている。さらに『続日本紀』および『釈日本紀』が引用する『暦録』によると、雄略天皇は無礼な葛城の神を土佐へ流刑に処されている。『土佐国風土記』にもこのことは記されており、高知市には流刑された「一言主神」を祀る土佐神社がいまも存在する。その後、称徳天皇の御代、764年になってようやく葛城氏の末裔・高賀茂朝臣田守らの願いが叶えられて、高鴨の地に葛城の神は復している。
文字どおり「流刑」された神はこの神だけだ。しかし神を流刑するとはどうすることなのだろうか。『暦録』には「時に神、天皇と相ひ競ひ、不遜の言あり。天皇大いに怒り、土佐に移し奉る。神、随ひ降り、神の身すでに隠る。祝をもってこれに代え、…」とある。注目すべきは最後の「祝(はふり)をもってこれに代え」である。「祝」とは何か。神職である。
実は、古代の葛城山から流刑に処せられた「祝」がいた。役の行者である。文武天皇の御代、699年「賀茂」の「役」(=祝=神奴の長)の小角が伊豆へ配流された。小角は葛城の神に仕える「祝」であって、これが「神の流刑」の意味だった。すなわち、祭祀の廃絶である(残念ながら筆者には、なぜ神が土佐で、小角が伊豆なのかは明らかにしかねぬ)。
▼高城(木)の神・タカミムスビ神
葛城の神との逍遥もそろそろ終わりとしたい。しかし最後にもう一つだけ奇妙な話を付け加えなければならない。そもそも「葛城」とはどういう名であろうか。「葛」は蔓(つる)の「かずら」と思われがちだが、むしろ「桂」、すなわち落葉種の高木と解すべきではないか。また先述からの「高城」は「高木」とも書き習わされる。つまり、「葛城」とは「高城=高木」に他ならないのではないか。
そうだとすると、「葛城の神」とは「高木の神」だということになる。ところが「高木の神」と称される高貴な神がおられる。最高の皇祖神である「タカミムスビ神」である。そう言えば、前に挙げた葛城の五大社に「高天彦神社」があり、この祭神がタカミムスビ神であった。
実は、藤原氏の前身である中臣氏も「タカミムスビ神」の信仰を持っていた。名はともかく「高木の神」である。葛城氏も名はともかく「高木の神」の信仰を有していた。どちらが先に「タカミムスビ神」と称したのかは知れぬが、あるいは名族・葛城氏(そして蘇我氏)の神であったからこそか、紀記編纂を主導する藤原氏(と天皇家)は「タカミムスビ神」を最高神の一つとした。それどころか、天孫降臨で「タカミムスビ神」が果たす役割は、地上での藤原不比等そのものである。もしかすればだが、「タカミムスビ神」も藤原氏による葛城氏からの纂奪であったのかも知れない。
[主な典拠文献]
上山春平『神々の体系』中公新書
上山春平『続・神々の体系』中公新書
上山春平『埋もれた巨像』岩波・同時代ライブラリー
上山春平『天皇制の深層』朝日選書
直木孝次郎『奈良』岩波新書
川添登『「木の文明」の成立』NHKブックス
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