日本人は果たして「本音」を話すことができるか
1999.6.11
萬遜樹 E-mail:mansonge@geocities.co.jp


 加藤典洋氏の『日本の無思想』(平凡社新書)を読んだ。「タテマエとホンネというのは戦後の産物だ」など、たいへん注目すべき論点が数多く含まれた著作である。今回は、この本から触発されたことを書いてみたい。

まず、筆者がすでに述べていること、すなわち「公」は「私」の相対的上位概念であること、つまりより大きな「私」がより小さな「私」に対して「公」として立ち現れること(例えば、「私」企業は個人とって十分に「公」である)の背景について述べたい。  必ずしも歴史的日本人論が正しいとは言えないことは十分に承知している。が、それ故にか、と思わせるようなことも確かにあるのだ。古来、日本は「連合」として成立している。連合とは何か。いくつかの共同体が集まって、より大きな共同体を形成していることを言う。

 実に、この連合の歴史は弥生時代に始まる。弥生時代は紀元前三世紀ごろに始まるが、その時代の特徴は稲作の伝播と、青銅器とそれに続く鉄器の移入である。稲作は社会の生産性を向上させ、これを促進したものが鉄器である。

 稲作は日本社会を変えていった。森や河口に住んでいた人々を平野に集めることになった。このときちょうど、気候寒冷化による海退が始まっていた。そうして出来た狭い平野で稲作は始まった。稲作には共同作業、とりわけ水利調整が必要だ。共同作業は指導者(首長)を生み、共同体の豊かさがしだいに貧富の差を作り出していったことだろう。

 豊かさは争奪を生む。事実、弥生時代は戦争の時代であった。共同体(ムラ)の回りには環濠(かんごう、ほり)が張りめぐらされた。もちろん侵入者を防ぐためである。長い戦争の結果、またより広域な生産性の高い耕作のために小平野ごとの「連合」が始まる。これがより大きな共同体=「クニ」である。  

「クニ」の段階で高地性集落が現れる。高地性集落とは住宅ではなく、山城である。環濠と山城は「戦国時代」の証しである。日本史において、これらが次に現れるのは室町後期の戦国時代のことなのである。ともあれ、地域連合は域内の平和を意味した。ムラごとの環濠は姿を消していく。

 このように、クニは一小平野内のいくつかのムラの連合として成立する。クニはムラの首長たちの連合である。そしてその中からクニの首長が選ばれる。クニはムラから見れば「公」であり、ムラはクニから見れば「私」なのである。

 これらのクニはさらに広域で結びつき、地方連合(オオクニ)となる。オオクニはクニの首長たちの連合である。そしてその中からオオクニの首長(オオクニヌシ、王)が選ばれる。たとえば、古代の吉備や出雲はそういう大連合である。もとのムラからすると、第一の「公」がクニ(地域連合)であり、さらなる「公」がオオクニ(地方連合)ということになる。  

そして古墳時代には、ついに日本大同盟(ヤマト)が成立する。地方連合の首長たちの大同盟である。この大同盟の首長こそ、大王(オオキミ、のちの天皇)である。この段階では、ムラ−クニ−オオクニ−ヤマトという4層の連合となる。これはいまの「地方自治体(市町村−都道府県)−国家」や江戸幕藩体制(藩−幕府)と似ていなくもないが、もっと似ているものがある。暴力団組織である。

 暴力団組織の最少単位は、小さな「組」とその組長である。その組が手段はともあれ隣接の組を呑み込み、地域組織となる。その組長たちが広域において、連合して地方連合組織を作る。地方連合の首領(ドン)と直接結びついているのは地域組長たちである。地方連合のドンから見れば、最下位の組員たちは「陪臣」となる。いまは地方連合が併存している段階である。

 日本の社会、阿部謹也氏の言葉を借りれば「世間」は、入れ子構造となっている。より小さな箱が「私」であり、より大きな箱が「公」である。日本人にとって、国家が「公」なのではない。より大きな世間が「公」なのである。会社の中にも公私はあるし、官僚の中にも公私がある。どこに帰属意識をもつかである。

 タテマエとホンネは、一般的には公私に対応するものとされている。しかし、もし公私のレベルがそのつど相対的に移り変わるとしたらどうだろう。日本人のホンネは、実は本音ではなく、より下位のレベルの「公」のタテマエとして立ち現れてくるだろう。日本人は、本音を話したくても話せないのである。

次に、そうなる背景を考えてみたい。またしても歴史めいて恐縮であるが、前述した高地性集落、つまり山城から始めたい。山城をもった著名な文明に、古代ギリシャがある。そのポリスは山城が発展し、都市国家となったものなのである。日本でも次に「石」の古墳文化を迎えるように、ギリシャのような「山城→ポリス→石の文明」というプロセスもあり得た。しかし実際には日本では「山城放棄→クニ→木の文明」という道をたどった。日本の山城は「高宮」(大王や豪族の宮殿)とはなったが、アクロポリス(都市の中心)とはならず、やがてそこは放棄された。

 では、人々はどこに棲んだのか。クニにである。ムラやポリスに比べると、クニは広域である。日本人の「郷土」(原共同体、ムラ)は茫漠としている。「国見」という言葉があるが、これはクニの自然、すなわち一小平野とそれを取り囲む山川の姿を称えるものだ。それは「うさぎ追いし…」の歌詞の「ふるさと」に歌われている風景であり、それは日本人にとって普遍的なものだ。しかし郷土とは普遍的なものなのだろうか。

 これは戦後にこそ言えることだが、日本人は公私の「世間」に棲む一方、「近所」という地域には棲んでいない。あたかも、実際にはムラに居ながら、クニに棲んでいた古代人のように。これは、ポリスというムラに居て、ポリスというクニに棲んでいた古代ギリシャ人と好対照である。

 明治天皇制国家がいかにして「国民」(臣民)を一挙に作り上げたのか、その秘密もこのあたりにあるような気がする。郷土がムラからクニに拡散しその個別性や特殊性を失ったように、江戸時代の藩(クニ)が拡散して国家と国民が出来上がったのである。

 公私が相対的な入れ子構造だからこそ、日本には確立した「中間」がない。あるいは原点としての「郷里」がない。国家と国民と言う前に、まずあるべき地方自治体や地方「市民」は有名無実なのである。本当の「私」がない。だから「本音」もない。私たちは、徹底的に個別性や特殊性を帯びたものとして、譲れない「郷里」や「本音」を確立しなければならない。そうして初めて、動かぬ「公」と「私」、つまり普遍と個が始まるのである。

(参考)「「異形」として近代「日本」---日本の「公私」混同」


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